goo blog サービス終了のお知らせ 

風の吹くまま

18年ぶりに再開しました。再投稿もありますが、ご訪問ありがとうございます。 

★海老フライ定食

2024-10-06 | エッセイ
僕は、食というものにまったくといっていいほど興味がない。

子供の頃、父親は必ず給料日には家族揃って外食につれていってくれた。外食といっても、同時はファミリーレストランや回転寿司などはなかった時代だ。ましてや、しゃれたレストランなどもなかった。

行くところはいつも同じであった。地元の商店街の洋食屋。当時としては少し洒落ていたのかもしれないが、子供だったのでよくわからない。

僕は注文するのはいつも「海老フライ定食」だった。今のような、タルタルソースなどはなく、とんかつソース。その海老フライは子供の僕にはすごく大きく見えた。

香ばしい香り、サクっとした感触、その熱々で甘い味・・今でもはっきりと覚えている。

父と母はカレーライスやもっと安いものをいつも注文していたのを覚えている。僕はまだ小学校の低学年であったが、そのくらいのことはわかった。

たまに、
「僕もカレーライスにしよかな・・」と言うと、母は
「海老フライにしとき、こっちのほうが美味しいで」と、いつも海老フライを注文させた。

大人になって、取引先や上司部下と高級といわれる料亭やレストランに行くこともある。一人何万もするような料理をいただける機会もある。

しかし、どんな有名レストランやどんな有名シェフの料理より、父の給料日に食べさせてもらったあの「海老フライ定食」よりも美味しいと思った料理は未だ食べたことがない。


「子どもの心に残るのは、
親が買い与えてくれたものではなく、
愛を注いでもらったという記憶である。」
(リチャード・エバンス)

2005年に書いたものになります

★アジアの風

2024-10-06 | エッセイ
香港は、九龍(カオルーン)サイドと呼ばれるその背後に中国大陸をもつエリアと、その九龍の先端からボートで5分ほどの真向かいにある香港島サイドという、大きく二つのエリアから成り立っている。その間には海が流れ大小さまざまなボートが行き来している。そして、その2つのエリアにはお互いを向き合うように高層ビルが立ち並び、その近代的な建築物の間に無数の人々の営みがある。 


僕は香港での数日間の用を終え、香港島サイドにある空港行きのステーションビルディングにいた。ここで空港チェックインを済まし空港行き列車に乗車することになっていた。そのビルの海に面した大きな透明の硝子からは、海に浮かぶ大小無数のボートが見えた。まだ予定の時間まで余裕があるので、このビルのオープンエアのカフェで遅めの朝食をとることにした。 この年の夏は、香港でも異常な蒸し暑さで、海に面したそのオープンカフェに座ると海からの熱気が少し息苦しかった。

コーヒーを飲みながらぼんやりと海を眺めていると、どこからか笑い声が聴こえてくる。 どこからくるのかとその笑い声を探すと、そこには沢山の女性達がそのビルの下にある広場に座っていた。何百という数の女性達がそこにいた。
彼女たちは香港で働くフィリピンメイドと呼ばれる女性達である。20代、30代、40代とさまざまな年齢の女性達がそこにいた。香港では結婚後も女性のほとんどは働くため、中流家庭であっても住み込みのメイドさんを雇っている家庭が非常に多い。そういうメイドさんはそのほとんどがフィリピンの女性達だ。賃金も比較的低いのだが、高学歴で英語を話せるからである。

彼女たちは、月曜日から土曜日まで住み込みでメイドさんとして働きつづける。日曜日は彼女達のささやかな休日。 しかし、住まい=職場であるため家でのんびりと過ごすということができない。だから彼女達は日曜日になるとずっと外で過ごす。したがって、日曜日ともなると香港中の広場はフィリピン女性でいっぱいになる。少し異質でもある光景だ。

オープンカフェから眼下に眺める彼女達。同郷の友人たちと手作りの料理を広げているもの、歌を歌ているもの、愉しそうに語り合うものたちなど・・・皆屈託のない笑顔に満ちている。 皆ささやかな日曜日を楽しんでいる。

だが、その一人一人は誰かのためにそこにいる。
「誰かのために」・・・あるものは両親祖父母のために、あるものは兄弟姉妹のために、そしてあるものは幼い子を残して・・・そのひとりひとりがその誰かのために、異国の地で寂しさの中で異邦人として暮らしている。

生まれた環境、時代、それらに人間はその人生を左右される。左右されながらも、誰かを支えながら生きている人たちがいる。かつての日本にも女性たちが海外に出稼ぎに行った時代があったときく。豊になった今、そんなことは忘れさられつつある。だが、時代は変わっても、同じような境遇で生きる人たちは、どこかにいる。

眼下の彼女達を眺めながら、そんなことを想い浮かべていたその時、「一瞬の涼しい風」が翔けてきた。それは夏の熱気で陽炎のように揺らめく高層ビルの間から突然現れて、一瞬のうちに彼女たちの笑い声を掴み、大小無数のボートが浮かぶ海の方へとすり抜けていった。

そして、僕にはその風が、海を見下ろす白いカモメのようにその優しい眼差しで振り返りながら、碧い空へと早足に駆け上がっていったかのように見えた。 それはまるで、彼女たちの哀しい笑い声をどこか遠くへ運んでゆくかのように。


2005年に書いたものになります


★恋~夜行列車の少女

2024-10-06 | エッセイ

それは中学1年生の夏休みだった。母と妹との三人で、夕刻の大阪駅から親戚の住む山陰島根県の出雲へ向かう夜行列車に乗った。

列車が駅を出発し暫く経った後、母はちょうど僕らとは反対側の4人席に座る一人の少女に視線を向け僕に言った。
「あの子おまえと同じ歳くらいちゃうか。凄く綺麗やなあ。」

「ん? そうかあ?」
と、そっけなく答えた僕は、読みかけの文庫本にすぐ視線を戻した。彼女は、父親らしき男性と弟らしき小さな少年と一緒であった。白いワンピースを着た長い黒髪を後ろ束ねた少女は、スヌーピーの英語本を読んでいた。

中学生の僕は、それまで異性に対して綺麗だとか可愛いだという感情を抱いたことがなかった。女というものは、ただ口うるさくめんどくさい存在でしかなかった。だが僕は誰にも気づかれないよう彼女をぬすみ見た。

やがて車窓から見る景色も暗闇となり、車内の人々も旅立ちの興奮から冷め眠りにつきかける頃、僕は、車窓から暗い外を見つめている白いワンピースの少女をこっそり盗み見た。

彼女の長い黒髪、その透きとおるような彼女の横顔。僕は彼女の美しさに次第に吸い込まれていった。その時、ふと彼女が見つめている窓をみると、そこには鏡のようになった窓硝子に写るこちらを見つめる少女の目があった。

そして僕は、その後二度とその少女の方を見ることができぬまま、その夜行列車は眠りについたのである。

「初恋は遠い昔の打ち上げ花火」
たしかサントリーのCMだった気がします。


2005年に書いたものになります。

★さよなら河童(かっぱ)

2005-10-04 | エッセイ
先日関西方面で仕事があった。帰路はそのついでについでに立ち寄った実家から東京へ帰るために空港へとタクシーに乗った。

タクシーの中から、外の景色を眺めながら、
「この辺りは今でこそ住宅が密集しているが、昔はのどかな田園風景が広がっていたものだなあ。」
などと想いをめぐらせた。昔は小さかった道路も様変わりし今では大きな幹線道路となっている。この道路沿いには、古い神社がある。そしてその神社には隣接した公園があった。公園は今でもあった。

子供の頃、この公園の池には河童が住んでいると信じていた。死んだ祖父からよく聞かされたからだ。

「ここの池には、河童が住んでるからな。近づいたらあかんで」
祖父と公園に行くたびに、祖父は脅かすように僕に言っていた。

「じいちゃん、河童って怖いのん?」
それは、大人から聞いたことは、無条件に信じていた時代だった。他の子供たちも同じだった。

「怖いでえ。急に池から出てきて、池の中に引っ張り込まれるんや。お前も気つけなあかん。そやから池には近づいたらあかんで」

この池の中には河童がいるのか・・・と思うと、水面の小さな波を河童がたてているような感覚に襲われ、祖父の影に隠れながらも、怖いもの見たさで池の水面から目が離せなかったものである・・・ほんとにいるのだろうか・・・と。

今となってはわかる。河童は確かににいたのだ。人間に似た容姿をもつずる賢い河童は、実は僕らを守り続けてきた。彼の存在によって子供達は池に近づくこともなかった。近づくことがあっても、恐る恐る近づいたものだ。そういやって、かつて河童は多くの子供たちを危険な池から遠ざける役割を演じていたのだ。

でも今では、恐れていた河童はもういない。そのかわりに、どのこ公園の池の周囲にも手入れのゆき届いた柵がもうけられている。

そして、子供達はもう河童の存在を忘れてしまった。

長い役割を終えた河童はどこか遠くへ行ってしまった。


前略 河童さん
その節はお世話になりました。
僕らも、すっかりおっさんになりました。