やまざくらの日記

やまざくらの日々の出来事をつづっています。.

日本WBC連覇

2009-03-25 09:28:43 | 日記
 昨日は、野球の国・地域別対抗戦、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦が、ロサンゼルスのどジャースタジアムで決勝戦が行われ、日本が延長10回、5-3で北京五輪金メダルの韓国を破り2006年大会に続く2連覇を果たした。

 日本は1点リードの9回同点とされたが、10回内川、岩村の安打などで2死2,3塁とし、イチローがこの日4安打目となる2点適時打を中前に放って勝利をけっていずけた。ピッチャー岩隈の好投とダルビッシュの好投により勝利をつかみ取った。

 原辰徳日本代表監督・・韓国とは5度対戦し、アジア2チームで決勝を戦ったのは大変な誇り。予想通りの接戦になったが、我々が勝つことができた。よきライバルとして今後も世界を引っ張っていきたい。

知られざる王朝物語の発見

2009-03-16 08:58:25 | 読書
 神野藤昭夫著の(笠間書房)この本は興味津々、固唾をのんで読み進む。
第1章は 知られざる物語山塊の発見ー・日本列島の文学史と物語山脈・小説が輝いていた時代・1千年の時差で歩む物語と小説の時代~~

 紫式部が、一条天皇の中宮彰子のもとに、女房として初めて出仕したのは、1005年、「紫式部日記」は、寛弘5年(1008)秋に、彰子が皇子を生む、日記はそこから始まっているが、中宮の意向で、紫式部が責任者になって物語の豪華本

が製作されています。このときを起点とすると、2008年は、「源氏物語」千年紀という記念すべき年になるわけです。

 寥寥たる数の現存する物語
 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語、多武峰(とうのみね)少将物語、篁物語、落窪物語、うつほ物語、和泉式部物語、(和泉式部日記)、源氏物語、狭衣物語、夜の寝覚物語、浜松中納言物語、堤中納言物語、(花桜折る少将・このついで・虫めずる姫君・ほどほどの懸想・逢坂越えぬ権中納言・貝合・思はぬ方にとま

りする少将・はなだの女御・はいずみ・よしなごと、の10編の断章からなる)・とりかへばや物語・松浦宮物語。

 右の中には「栄花物語」とか「大鏡」などの歴史物語、「今昔物語集」とか「宇治拾遺物語」などの説話物語、さらにのちの「平家物語」を生み出すような軍記物語などの類がないことを不審に思われようが、その理由はのちに見てゆく。

 物語の時代の本流となった作り物語

 少なくともいわゆる中世王朝物語の作者やその読者たちにとっては、自分たちの物語はジャンルとして王朝物語とひとつづきのものであって、別物とは考えていなかったのではなかろうかと推測されます。

<作り物語>という言葉を、文献の上で確認できるのは、いまのところ、12世紀後半に成立した歴史物語である「今鏡」に「作り物語のゆくへ」として出てくる物が最初です。作り物語と限定することによって、「伊勢物語」などの歌物語であるとか、「今昔物語集」なども排除されることになる。実際「風葉集」にはこれらは採られておりません。

第2章 最初の峰峰と東アジア文化圏の波動~古伝承から初期物語へ
 物語山脈の形成をどう捉えるか
 初期物語の成立については、極めて少ない物語を、端的にいえば、「竹取物語」に焦点をあて、その誕生と意義を高く評価することによって、物語史像を組み立てようとしてきました。

「絵合」巻場面と「物語の出で来はじめのおや」はじめに石山寺蔵「源氏物語画帖」は400図におよんでいます。

 「はこやのとじ」の基本情報
 
「実隆公記」には、次のような記事がみえます。
 今日、箱屋刀自物語書写、則終功了。
 「実隆公記」というのは、室町後期の内大臣にまで至った公家であり、古典学者であり、歌人であった。三条西実隆(1455~81)の日記です。この日記をひも解くと、彼が古典の収集、書写校訂に努めて、王朝の文学伝統を今日にまで伝える大きな役割を果たした。

 てりみちひめとりかえへされ給ひてよませ給ひける
  はこやのとじのふとだまの帝の御歌
いへどいへどいふに心はなぐさまず恋しくのみもなりまさるかな

 ここから、どんな情報がわかるでしょうか。
 詠み手は、「はこやのとじ」の物語に登場する「ふとだまの帝」。歌を詠んだ事情は詞書から、

空飛ぶ虚ろ舟    古川薫     文芸春秋

2009-03-14 09:48:01 | 読書
 空飛ぶ虚ろ舟を読んでいて、「曲亭馬琴」の子宗伯が虚ろ舟の調査に磯原にやってくるくだりがあるが、その27年後のことになるが、嘉永5年2月に長州の吉田松陰が東北旅行のさい磯原に立ち寄り、異人上陸の地大津の浜を探査した。

 大津の海岸近くの木陰に、「吉田松陰先生遊歴之地」碑が建っており、そのとき松陰が詠んだ漢詩が刻んである  。松陰は磯原の野口玄主の家に泊まった。(松陰の「東北遊日記」には「源七」とある)その玄主は野口雨情と血脈を同じにする人。

 また最初に「吉田松陰伝」を著した野口勝一は、雨情の大伯父にあたる。
 磯原で松陰は二つの詩を日記に書きとめている。 一つは野口家の夕食で酒を勧められ、ひどく酔って、夢を見た後で詠んだ七言律詩である。天妃山入口の木陰に建てられた「吉田松陰先生遊歴之地」碑に、松陰のその詩が刻まれている。

    
   海楼酒を把って長風に対し
   顔、紅に耳は熱し、酔眠こまやかなり
   たちまち見る万里雲濤の外
   巨竃海をおおうて(舟蒙舟童)来る
   我、吾が軍をひっさげ来りて共に陣し
   ひきゆう百万、髪上り衝く
   濤声枕をうごかして夜とうとう(鼓冬)

 巨大な海亀の群れが海面を覆うように、外国の軍艦が攻め寄せてくる。自分が指揮する百万の兵士の怒髪天を衝き、獰猛な敵艦を迎撃しようとした瞬間、目覚めた。夜は更けて、海鳴りだけが枕を震わせている・・・。という詩を載せている。

斜陽に立つ  古川薫   毎日新聞社

2009-03-14 09:24:13 | 読書
 2006年10月から毎日新聞に連載されていたものだが、今回初めて読んだ。筆者があとがきで書かれているように不幸感を背負って、ナンバー2の座位を生き抜いた19世紀生まれの児玉源太郎、憂い顔で斜陽に立つ乃木希介の寡黙な生きざまへの共感である。

 六本木ヒルズの立つ毛利庭園の所にあった、長府藩長屋で生まれた、ここにはあの赤穂浪士一〇人が預けられた所でもある。

 司馬遼太郎の長州嫌い、「殉死」は昭和42年に出版されたが、これにより「愚将乃木」のイメージが日本全土に浸透したことは残念であったが、この「斜陽に立つ」で著者が狙った生きざまに触れて、若い乃木が酒と女にうつつをぬかしていたさま、またドイツに留学してからの乃木の変身といったことに触れられているので、興味深く読んだ。