やまざくらの日記

やまざくらの日々の出来事をつづっています。.

北京・天津5日間の旅

2011-06-14 17:09:48 | 旅行
 6月6日12時20分に福岡空港国際線ターミナル3F南側カウンター(初めて南側カウンターに行った)22.23で受け付け、出発便は中国南方航空(CZ)646便14時20分初大連行き。(高速バスを8時15分発だったので余裕があると思ったが、いつものすし屋で食事して時間的にはちょうど一杯であった。)

大連空港到着15時20分、空港で現地ガイド安さんが出迎えた。安さんには大連、北京、天津と全日程を案内してくれた。安さんは日本にも6年間留学していて事情がよくわかっているようであった。お父さんは外務省に勤めていた。・・中日友好協会理事でもある又奥さんはDRだそうである。

 自分で言っているが日本語は上手ではないが。誠心誠意お世話をするその精神はいたるところで発揮された。北京在住である。
大連市内観光
@ 大連迎賓館にて散策、大和ホテル~昔のままの建物、その後日本のお偉いさんが止まったとか。トイレを利用する。廊下の天井が高い中国人が行き来するので、ここは中国?
ホテルの正面の広場で写真を撮る、、ロータリーのようになっているが信号がないので渡るのにとても怖い。

@ 日本人租界  日本人街は昔の佇まいを残している。旧満鉄本社を写真に撮る。夕食は山西 料理を食す。その前にお土産総合店?8Fに上がり大連港を遠望する。

 大和ホテルで「中外文広告」の雑誌を一冊もらう。~新人君必見!大連でカッコよく生きるスマ男、ネタ帳(紳士手帳)「コンセルジユ大連」インタビューあの人に逢いたい~大連市対外経済貿易合作局 対外連絡一処 処長 劉世偉氏


 
 対外的な貿易・経済方面に関する業務の連絡、各関係機関との連携を執り行います。
 外資企業関係者が大連訪問の際には、ビザ発給に向けた招待状の発行のほかVIP対応、市幹部の対外経済貿易に関する活動に携わる。~~

@ 外資系企業の設立に関して
1 審査及び設立許可証の発給
2 契約及び定款の修正変更
3 外資系企業の監督検査
4 外資系企業のクレームの受理・調整

5 投資促進に向けソフト面の環境整備

 @ 大連投資環境の優位性
  大連は「北方の真珠」とも呼ばれ、中国東北部から海外に開かれた玄関口として、その名を  馳せています。大連は年間貨物1億トン余りを取り扱い、名古屋港、大阪港、下関港、境港
  等との間に国際定期船が就航しています。(ニッポン往復も週77便が運航しています。

  宮城県大連事務所、岩手県大連事務所~~東北地方太平洋沖地震~~がんばれ 東日本~~
 (最終日天津からの帰途、岩国の中小企業の経営者が商談で天津に7人できたと言っていた。
  人口の多い中国との交易に期待しているようだった。)
  @ トルコ人の経営する革製品を扱う店に立ち寄った、トルコの人が中国に来てニッポン語
   を話していると言って笑わせた。蓑原さんは娘さんに上等のコートを一枚買われた。 

                               コンシエルジュ大連

@  大連から北京へ
 大連発21時50分、北京着23時20分、時間変更になって困ったと思っていたら安さんも何度か掛け合ってみたが、早い便が取れなかったみたいで、ホテル到着は真夜中となった。

@ 6月7日は6時コール6時30分食事、7時30分出発ということで。
@ 北京観光に出発 -西太后ゆかりの@いわ園、明の十三陵、万里の長城、(八達嶺)
 暑い中の観光地巡りは少々身にこたえたが、夜はマッサージで体をほぐすことができてよかった。

 万里の長城も天気に恵まれて、歩きやすかった、もっとも急な階段には少々難渋した、何しろ階段の上り下りには、片手はいつも知子に取られていたので・・・途中まで降りて休んでいると放送があり、天気が急変するので降りるようにとの忠告である。丁度バスに乗るころには雨が降ってきた。宝石店でショッピング。説明を聞き・・一休み。低反発ほ枕、マット等の製品の説明を受けて、実際に購入した者も何人かいた。~蓑原さんも・・

夕食は麺などで、野菜が中心であった。

@ 6月8日@ 北京観光とショッピング

 市内の美術博物館に連れて行かれたが、立派な石や玉~~それらを高度技術で加工したものが陳列してある、それが花梨の飾棚へ飾ってあった。最後にこれは売り物で86万円ほどでニッポンに着くまで責任を持つという。もちろん6点かな、みな説明がつく。これをなんと蓑原さんが購入された。安さんは、ありがとうございますと何度も頭を下げておられ太。

中国のこうした製品を世界のみんなに分かってもらいたいという政府の方針に沿ってこの美術院もうんえいされているな^館内をずーと廻ってお茶の接待にありつく。

@ 故宮博物院 天安門広場に向かう、前回来た時は自転車の洪水であったが、今目の前を流れていくのは、多くの普通自動車の群である。 この早い変わりようには驚いた。
 ここに来ればいやでもあの悲惨な事件を思い出す。 しかし多くの観光客たちは写真を撮りこの中国の政治の中心、中国人の象徴的この広場を多くの人たちが行き来する。

 地下道を通って紫禁城へ~~故宮博物院に入っていくが暑さが厳しくかなりきつい歩行となる。写真を撮り、ラストエンペラーの場面をおもい出しながら、またここに立ったことが何と言うか暑さの中で15年まえのことを思い出しながら、同じ暑い差に耐えていた。

@ 天壇公園 祈年殿に参る前に資料館で中国の歴史のパネルによる解説があった。
 シルク店により実演がありまわた 絹の布団等洋服も沢山陳列されていた。シルクのパジャマはかわなかった。

@ 西太后は1888年北洋海軍の軍費を流用して作った、北京北西郊外の公園294万ん平方メートル、世界一長い廊下、 公園内に満州国皇帝薄儀に関係する者の掛け軸等の販売あり、蓑原さん2本購入
@ 夕食は全聚徳にて北京ダッグと北京料理


@ 6月9日北京動物園へパンダに逢いに行く、早朝なので観光客はまばらだった。笹の葉を食べている食べている、近くに歩いてくるのもいた。
@ 高速道路で天津へ向かう。途中一か所トイレ休憩。
  天津市内観光ー直轄区としての都会、昔ながらの古い街並み・旧租界としての西洋の雰囲気と様々な魅力が詰まっている。

 ここ天津も暑くてかなわぬ、マックに入ってソフトクリームとコーヒーを飲んでいると鹿児島の人と一緒になる、また安さんも2人連れて入ってきた。

バスに乗り次の繁華街に行く今度も暑くてかなわぬおおきなベランダのようなところで涼む、といっても暑い暑い、そうしていると安さんがジュースを持ってクルージングのためにやってきて乗船した。舟の中は冷房がきていて、景色もよく楽しめた。

@ 夕食は天津料理をみんな本気で食べた。下関の夫婦は中国の酒を頼んで。ゴルフもやったが10年前にやめたそうだ。2番テーブルの8人は顔なじみとなった。

@ ホテルは5つ☆ということで新しく立派であったが夜中にエアコンが効かず部屋替えしたり睡眠不足となった。

@ ホテルを7時ころに出発、10分少々で天津空港に到着出国の手続き中2人がチケット控えをなくしあわてて安さんを捜しに行ったが見当たらず帰ってきた、パスポートがあるから大丈夫だろうという大方のみんなの意見の通り難なく搭乗券をもらい一緒に待合室に向かう。

待合室でしばらく待っていたら、搭乗時間が10時10分に変更になった・こまったなあーこれが中国だよな^と思っていたら大連のほうが大雨ということだった。そのうちミネラルウオーターとケーキの配布があった。待合室でアメの残りがあったので周りの人に配った。

待合室では今までの海外旅行とかの話を蓑原さんに話したり、蓑原さんの主人の闘病生活の話、クルーザーの話なんだか大金持ちで正月などグワムに家族で行かれるそうだ。
帰国の便には天津に商談できておられた岩国の人が隣の席だった。7人の中小企業の人たちだった。

 

中国ハイナン島の旅

2011-02-28 13:54:31 | 旅行
 2011年2月21日14時50分福岡空港出発(中国南方航空)広州新白雲空港へ、機内では近畿ツーリストの一行(永田さん)と一緒だった。彼らは桂林へ行くので、やはり広州で乗り換えるそうだ。

 広州空港でHISの係員を見つけるまで空港の略図を頼りに出口2番へ向かう、そしてHIS の係員と一緒に3階に上り三亜(SANYA) q

白洲正子対談集成

2010-09-30 15:38:07 | 読書
 目崎徳衛氏 1921年新潟県生まれ、元聖心女子大学教授、~歴史学の手法で、日本人の精神構造の祖形を古典文学を通して掘り下げる。俳人でもある。著書「紀貫之、漂白、数寄と無常、芭蕉のうちなる西行など。

・芭蕉は玄人
 
・西行の歌はわかりやすい
 上田秋成は、西行は本物だが、芭蕉は偽物である。と盛んにやっつけた、西行や宗祇の時代は、源平合戦とか応仁の乱とかあって、乱世ですから都におられなくても必然性があるけれども芭蕉の時代は、太平の世の中で、それぞれ生業にいそしんでいるのに、坊さんともつ

かず、俗人ともつかない芭蕉が、それを気取って歩くのはまやかしである。「こしえもの」であるといってるんですね、「こぞのしおり」という随筆に・・当時芭蕉亜流のものが芭蕉気取りの旅、ヒッチハイクのようなことをしていた。頭にきて・・・

・ 和歌の研究者は西行を買わない
 藤原定家あたりが中心になる。定家は大歌人で西行はどうしても素人だということになる白洲~たしかに素人なんですよ定家からみれば。でも西行は天才だったと思います。あの歌の美しさは比類がないですね。

目ー西行は「新古今集」では筆頭歌人ですよ、ただし、西行が「新古今」を代表しているかというとそうではない。
白洲ー「新古今」の中では一人だけ違うところにいるという感じ。平気で俗語なんか使っていますね。

・ 当時とすれば大変な旅
 目―われわれにとって西行の魅力というのはやはり漂泊といいますかしょちゅう旅をしているという印象があるということだと思いますね。大変な旅人。

・未知の世界を果敢に訪ねる。
目ー 西行の足跡を全部歩いていらっしゃる。全部ご自分で探して・・
白洲ー割に一人で、一人でないとねいろいろ考えながら行くものですから、大勢ではだめなんです。

目崎ー探していかれるというのが、それが好きだから、そうするというのは、まさに西行の生き方、いわゆる「数寄」とぴったりする心根ですね。西行がみちのくに最初にああいう長い旅をしたのも未知の世界を訪ねてみたいというすき心で・・・

白洲ー当時の「数寄」という詞には、好奇心の意味も含まれていますから・・
目崎ー西行は能因が残した足跡とか当時、都で話題になっていた東北の場所とかを、自分の足で踏んでみたいと思ったわけですね。そういう思いが強烈で、実際にその場所へ着いてみると、非常に感動してしまう。その感動のままを歌に詠んだ。それが形式にとらわれない和歌になってよかったのだと思います。

・身分を捨てた自由人
・目崎ー西行の歌の中に一族、親兄弟というものが出てくるのを排除している。芭蕉も一緒
・西行の旅は全部修行~~23歳で出家して廻国修行

・西行と芭蕉の共通点
・目崎ー結核を患って病床で自然と乱読をして芭蕉に行きついたようなわけなんです。
・ああ芭蕉からはいられたわけですか。
・芭蕉をやっておりますと、当然西行にも行きつく。芭蕉、特に前半生の芭蕉の句にはあらゆるところに西行の影がちらついていましてね。私も自然に西行にいきついたというようなわけなんです。
・白洲ーだから、先生のご本は、いわゆる研究所と違って、ほんとにおもしろい。わたくしが西行に興味を持ちましたのは、明恵上人を書いた時からなんです。明恵上人が、わたくしは大変好きでございましてね。

・目崎ーそうですね。この二人は仏法も共通ですし、個性もよく似ていますね。
・白洲ーただ、西行の場合は出家をしたといっても、いいかげんなものですが。
・目崎ーええ、仏教というよりは、大自然を相手にしていたということが言えるでしょうね

・白洲ーいずれにしても、それで旅に出ることを”修行”といっておりますし、これは芭蕉の場合も同じなんでございますね。
・目崎ーそうですね、「奥の細道」では「道祖神の招きにあひて」などと言っていますが、修行ですね。
・白洲ーこの二人もほんとによく似ていますよ。二人とも、まず偉くなろうとしなかったですよ。
・目崎ーそうですね。西行の場合は、当時は歌人として名を成すためには、宮廷に召されて歌合せというものをやらなければならなかった。そこで認められて、初めて歌人として生活できるわけですけれども、そういうものには一切出ていない。

 芭蕉も当時は素人の作った俳句に丸をつけたりする、いわゆる宗匠というプロですが、そいうことをやらないで、深川に引っ込んでしまった。世俗的な価値というものに背を向けてしまったわけです。
 そういう意味で、西行と芭蕉には大きな共通点があります。
・白洲ーもともと明恵も西行も芭蕉も武士ですから、根底に同じようなものがあったんでございましょうね。

目崎ー西行については今まであまり言われていないことですが、貴族階級ではない、一般庶民への関心も非常に強い人であったと思います。
・白洲ーそういえば、伊勢の海女ですとか、山びとですとか、非常にたくさんの働く人のことを詠んでいますね。

・西行の旅は全部修行
・白洲ー西行が出家するときに、子供を突き落としたという有名な絵巻物がございますが、これは実際はどうだったんでしょうか。
・目崎ー実際あったかどうかわかりませんが、西行の覚悟があのようなものであった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
 西行伝説の一つですが、白洲さんもいっておられる天野。ここはいわゆる女人高野なんです。西行は家族のつながりをすべて断ち切ったのではなく、奥さんはこの天野で尼になった。そういう伝説もあります。
・白洲ーこの天野は西行ゆかりの地の中で、いちばん当時のままにちかいよう気がいたします。
・目崎ーそうですか。しかし、われわれ日本人は西行が好きで、人によっては、その自由気ままなところにあこがれる場合もあるでしょうが、さっき白洲さんがおっしゃったように、西行の旅は全部修行なんですね。西行より少し後に、一編が全国を遊行していますが、一編

が歩いたのと比べると、西行は気ままだったというイメージがあると思います。しかし、一編が往生のお札を渡すのと西行が歌を詠んだのと、私は全く同じような次元のものだと解釈をしたいですね。
・白洲ーなるほど。
目崎ー実際、西行も大峯山の修行では命がけのことをやっていますし、全部が全部、自由気ままなのんびりとした旅だったわけではありませんからね。西行は非常に息長く廻国修行を続けたわけですね。西行は私などには伺い知れぬほどの信仰の高みに至っている。かれはまったく来世、浄土を信じ切っていますから、ここまで言ってしまうと、私にはとてもうかがい知れないという気持ちになってしまうんです。

・白洲ー仏教的な信仰の極みでありながら、伊勢へ行ったときには、(榊葉に心をかけて木綿(ゆふ)しでて 思へば神も仏なりけん)なんて、神様も一緒になってしまっている。そのあたりが、わたくしはすごいなと思ってしまうんですね。

 別なところでは、「風にたなびく富士の煙の空にきえて 行くへも知らぬわが思いかな」
と歌って、最後は虚空と一つになってしまいますね。

・芭蕉の旅は無念の挫折
目崎ーそうですね。芭蕉もおそらく同じようなところを目指したと思うんです。ただ、これは山本健吉さんが、よくおっしゃられたことなんですが、芭蕉は50歳で亡くなりました。


・白洲ー西行より20歳早いわけですね。
・目崎ーだから、あと20年生きていたらどうであったかと、山本健吉さんはしょっちゅう言っておられた。芭蕉は、有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯れ野を駆け廻る」というのを詠んで、これも現世への執着であると芭蕉が悔やんだ、ということを弟子の一人が書き留めていますが、返す返す悔やんだというんですね。つまり50歳の段階では、死にかかっているのに、まだ自分をつかまえようと探している。

 ところが西行のほうは、芭蕉より20年以上も生きるわけですから、最後のところは完全に芭蕉がこだわっていたものを飛び越えてしまっているわけです。

・白洲ー西行の場合は、最後は歌うこともよしてしまっていますものね。
・目崎ーすべて歌いきったということかもしれませんね。芭蕉の場合は、あれからまだ九州へ行こうとしていたわけで、いわば無念の挫折であったわけですから、余計にそういう思いが強かったのかもしれませんね。ただ、だからこそ私には西行よりも芭蕉のほうが近く感じられるといいますか、西行の高みになってしまうと、やはりうかがい知れない、という思い

にとらわれてしまうんです。白洲さんのように、私も西行のあとを全部歩いてみれば、西行のほうでも私に近づいてきてくれるのかもしれませんが、なかなか歩くこともできませんのでね。
・白洲ーところで先生、人はなぜ旅をするのでしょうかね。わたくしは、寂しいというか、もののあわれみたいなことを感じることだと思うんです。そういうチャンスは、家にいただけではなかなか感じられない。それにいろんな人にも会えますしね。

・目崎ー私は日本人の旅というものは二つの種類があるのではないかと思うんです。一つは、「舟の上に生涯をうかべ」と芭蕉も書いているんですが、世の中を動いて回るのが生業(なりわい)だという人たちがあります。とくに中世は定住しない人たちが非常に多かったんです。例えば、漁民、海女、船人、筏師、こういうような人たちで移動することが仕事である人ですね。
 こういう人は定住地を持たない。遊女なんかもここに入れて考えられますし、西行も詠んでいますが山賊、海賊といったたぐいもそうですね。

 もうひとつ西行とか芭蕉に代表されるように、仮に定住地を持っていても、現世を生きていること自体が旅である。こういうことをよく自覚して、それを思想として打ち出した人。そういう二つの旅の形があると思います。その二つが密接に連関しながら、今日まで来ていると思います。

・目崎ー近代になりますと、三木清が「人生論ノート」の中で言っております。(何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これが人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊であるる」
・白洲ーああ、人生は未知のものへの漂泊ね。
・目崎ーそれと同時に「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみを問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の心の真の面白さを知らぬものといはれるのである。」こいうこともいっています。

・白洲ーお能の橋掛りや、歌舞伎の花道にしても同じことです。
・目崎ー私などまだ未熟ですから、人生の意味がどういうところにあるかということは言えませんが、考えてみますと、あくせく馬車馬のように働くだけではしようがない。もう少しゆとりのある人生を送りたい、そう考えるものですから、みんな、なんとなく旅にあこがれるのではないか。そういう風に思ってみたりするんですけどね。

・白洲ー人生というのは、どこまで生きても完結はありませんし、旅と一緒でございますね。
・目崎ー同じ旅といっても、何か目的があって、計画を立てて、予定通り行って用を済ませ、それで終わりというのは本当の旅とはいえないかもしれませんね。

・ 人生は旅の途中
・白洲ーところで西行の歌に、
  「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」 というのがありますね。 これは西行69歳の時の歌なんですが、40年以上も前に初めて小夜の中山を越えた日のことを思い出して、激しく胸に迫るものがあったんだと思うんですよ。その長い年月の経験が、積もり積もって、「命なりけり」の絶唱になったんじゃないでしょうか。

・目崎ー二度と来れないかもしれないいるんじゃないでしょうかねという思いもあったでしょうね。
・白洲ーそれもあるでしょうけれども、命という言葉は非常に重たい言葉でね、その一言の中にみな、入っているんじゃないでしょうかね。自分の命も、人の命も、生死みたいなものもね。
・目崎ーなるほど。
・白洲ーわたくし、小夜の中山峠に行ってみて、びっくりしちゃってね。今はわけなく越えられるんだけど、昔はたいへんなとこだったのです、戦前は。今はもう、峠を越えるという、ああいう苦しみがなくなるのは悲しいことです。

 それでね、さっき先生が三木清の言葉を引用されましたが、人生は旅と同じで、その日その日が大切なんだと思います。お寺の参道も花道や橋掛りとまったく同じことですね。参道を車で通過して、お寺へ乗りつけるのは、あれはまったく意味のないことです。

・目崎ーそうですね。参道を歩くうちにいろいろと思うことがあったりしましてね。
・白洲ーお釈迦様は「中有」ということをおっしゃいましたが、じんせいはほんとに、旅の途中だと思いますね。

・目崎ー百まで生きても百五十まで生きても、完結することはないんです。必ず人生は途中でプツンと切れるわけですから、三木清の言う通りだと思います。

・白洲ー小林秀雄さんは「モオツアルト」の中で、「大事なのは目的ではなくて、現在の歩き方だ」と言っているのも同じことでしょうね。わたくし比叡山の回峰行も取材をしたことがあるんですが、例の阿じゃ梨になるためのものですけれども、この最後のほうでは1日に85キロも歩くというものすごい修行があるんです。それがすむと、今度は断食ですから、見ているほうは大変だなよく続くなと感心してしまいます。

 それで私が最も関心があるのは、たしかにものすごい修行ですけれども、それを済ませたときに安心をしてしまうと駄目なのね。

・目崎ーああ、われながら大したもんだ、と。
・白洲ーそう。そう思っちゃう人は、そのあとガタ落ちになってしまうんです。
・目崎ー阿者梨になることが目的ではないということですね。

・白洲ー阿者梨になったあとも、ずっと何かの形で修行を続けていかなくてはならない。ひどいのは自慢げに講演をしたりしている人もいますから、そういう人は完全に堕落してしまうことのなるんですね。
・目崎ー修行は一生だということですね。しかも一生かかっても終わるということがない。
・白洲ーそれが「生きている」ということでしょう。
・目崎ー人生は歩き続けなくてはいけない、というのが結論ですね。
    「致知」89年10月号・・・
 

平城遷都1300年祭

2010-09-28 09:17:48 | 旅行
 平城遷都1300年祭が奈良の平城宮跡会場で4月24日から11月7日まで開催されており、厳島会防府支部の旅行でこの1300年祭に参加して、約3時間天候に恵まれて旅程を終えることができた。

 9月26日7時50分17名の参加者はみな元気で近鉄バス(ガイド吉岡)にて防府駅を出発した。
 宮島SA~姫路西IC~姫路:灘菊酒造で昼食酒蔵の2階で沢山の席が設営されていた、ここでは当酒造の何種類かの清酒も出た。食事の後階下の売店、試飲コーナーで何種類か飲んだが36度の清酒は、土井さんの話では添加しているのだろう、醸造酒では19度が精いっぱいだと思うとお酒の話に花が咲いた。

 ここで記念撮影をしたみんな元気だが寄る歳波はかくせないなあ。と感じた次第。
 バスは京都はずれ湯の花温泉なので丹南篠山口(ささやま)ICで降りて、山奥に工場のできた、新光悦:井筒八ツ橋本舗~でお土産を買い~*西国33所の一つである穴太寺を訪ねた。この寺は天台宗で21番札所である。大涅槃像が有名である。像の前に立って静かな

寝像に触れさせてもらう時は万の悩み事解消、如何なる難症の病気も消滅していただけるように思われる偉大な慈悲あふれるご仏像である。。。亀岡市曽我部町

 湯の花温泉:渓山閣 宿には舞妓はんがいて写真撮影。宴会にもあいさつにご来場。
 宴会は料理もヘルシーで会は盛り上がったが。早々にというか時間道理に終わって後は幹事の部屋で焼酎の飲み直し、健康というか病気の話、中国の尖閣列島を犯した漁船船長の釈放の話といろいろの意見が出された。

 27日は8時に宿を出発、豆屋黒兵衛でお土産屋に寄ったが、先に出た防長バス2台が後から現れるというハプニングがあった。この団体とはコースが同じで昨日は風呂に沢山押しかけてきたということであった。

 平城遷都1300年祭の会場につき記念撮影の後各自自由行動。)
 朱雀門をくぐり、復元なった大極殿に向かう、長い列の後について左に迂回しながら進むが、曇り空と微風で汗はかかない。飲み物は持って歩きなかまに水分補給をする。

 大極殿、東院庭園広場、遺構展示館、体験学習広場(当時の服装を借りて記念撮影もできる。)会場の中を近鉄奈良線が走っている。平城宮跡資料館(天平びとの声を聞く~木簡のすべて、研究室コーナーもあった。199番では周防国から調として納められた塩の荷札があった。大島郡美敢郷凡部海。二斗(八升、約一四,四リットル)

 駆け足の一三〇〇年祭見学であった。

心のふるさと 童謡唱歌  野ばら社

2010-06-19 10:36:57 | 日記
 数年前姪の結婚式へ出席のため名古屋に行き、その折兄弟で明治村に行った、その折に明治村の中で買ったのがこの本である。めだかのがっこう、はじめたくさんの童謡がのっている。
 三木露風の赤とんぼ、西條八十のかなりや・・たくさんある懐かしい童謡、ページをめくっていると、「まどみちを」のいちねんせいになったら、山羊さんゆうびん、ふしぎなポケット、ぞうさん、つりかわさん、そして、「葛原しげる」の羽衣、電車、お山の細道、電

車、キューピーさん、夕日、と沢山作詞されている。これ徳山の葛原さんと関係あるかな!?


青木健作について

2010-06-19 09:58:11 | 日記
 先日徳山に行った折「月刊まるごと周南」6月号を手に入れ青木健作の特集号の内容を今日興味深く読んだ。新南陽地区に生まれる。(永源山公園の北側の河内町に8人兄弟の3男として明治16年に生まれた)

 ふるさと・周南を舞台に小説を書き続けた作家、青木健作。夏目漱石、芥川龍之介らに絶賛され、明治~大正期に活躍。

 多感な青年時代、山頭火と同級生だった中学時代、健作の作品の礎となった高校時代。
 22歳で山口高等学校を卒業した健作は、東京帝国大学に進学する。

 田舎者的文学の誕生。~~処女作ーいたち 鼬 --千葉県成田中学教員~~

 虻 、お絹、漱石門下の鈴木三重吉~~広島出身教頭~~
  富田西小学校校歌~井本健作 作詞 山田和男(NHK交響楽団の指揮者)健作の知人

 機会があれば作品を読んでみよう。!

東京近郊ぶらり文学散歩

2010-02-05 16:28:10 | 日記
 評論家 山本容郎の文学散歩を読んでいたら、何回も行きたくなる千住とか鎌倉、そして歌に歌われ。、綴られる港町横浜、鎌倉の多くの文士のこと中也のこと等興味は尽きなかった。
 図書館に本を返し(財)松風会の発行する会報(NO39)松陰先生没後150年に際してという理事長 河村太市先生の巻頭言を読んで、21年11月に行われた研修旅行、伊豆下田、韮山、鎌倉方面~これの紀行文、中間市の桜井氏は鎌倉駅から松陰が四度訪れた夢想国

師開山の名刹瑞泉寺を訪れ案内され、竹院禅師の真筆・・・のことなど興味を持った。
 その後新しく借る本を抱えていると、河村先生にばったり会い、元気そうであったが、三年前に心臓病を患い、それ以後ゴルフはやっていないとか。・あれは死んだね・・中山氏のことだった。

 家に帰りテレビをつけると開国のまち浦賀をやっていた、浦賀の海から千葉の鋸山が見えるのを映していた。浦賀は狭く、実際は久里浜にぺりーは上陸した。

 泰平の眠りを覚ます蒸気船  たった四はいで夜も眠れず
 鎌倉方面の文学散歩にまた興味がわいてきた。

2009-11-19 15:57:43 | 日記
 「メープル結婚相談所」を開設しました。

 所在地 山口県防府市清水町8-35(松本歯科となり)

 TEL  0835-38-5700

 携帯 090-1337-8598

 特徴 アドバイザー2名で相談に応じます。個人情報は厳重に管理します。
 
    入会金および会費は無料、お見合いのとき5千円程度いただきます。

    現在約450名の方がいらっしゃいます。

2009-11-19 15:33:58 | 日記
 「メープル結婚相談所」を次の通り開設しました。

 所在地 山口県防府市清水町8-35(松本歯科となり)

 TEL  0835ー38-5700

 特徴 アドバイザー2名で相談に応じます。個人情報は厳重に管理します。

    初婚、再婚問いません、県外在住の方もOKです。

    入会金および会費無料、お見合いの時5千円程度いただきます。

九重夢大吊橋と湯布院旬グルメの旅

2009-11-01 09:41:08 | 旅行
 昨日は晴天に恵まれて、九重夢の大吊橋は長さ390M高さ173Mあり紅葉の中の九酔渓の天空にふわりと浮かんでいた。吊橋を往復したがかなり揺れて大変だった。橋を渡って展望台にも上がり、さらに白鳥神社にもお参りした。これは田村さんと二人だけだったようだ。お店で地元で採れた焼き栗を飼って帰った。かなり好評。・・・
橋を渡るのに五〇〇円支払うのだが、もう建設費はとうに回収しているとのことであった。