目崎徳衛氏 1921年新潟県生まれ、元聖心女子大学教授、~歴史学の手法で、日本人の精神構造の祖形を古典文学を通して掘り下げる。俳人でもある。著書「紀貫之、漂白、数寄と無常、芭蕉のうちなる西行など。
・芭蕉は玄人
・西行の歌はわかりやすい
上田秋成は、西行は本物だが、芭蕉は偽物である。と盛んにやっつけた、西行や宗祇の時代は、源平合戦とか応仁の乱とかあって、乱世ですから都におられなくても必然性があるけれども芭蕉の時代は、太平の世の中で、それぞれ生業にいそしんでいるのに、坊さんともつ
かず、俗人ともつかない芭蕉が、それを気取って歩くのはまやかしである。「こしえもの」であるといってるんですね、「こぞのしおり」という随筆に・・当時芭蕉亜流のものが芭蕉気取りの旅、ヒッチハイクのようなことをしていた。頭にきて・・・
・ 和歌の研究者は西行を買わない
藤原定家あたりが中心になる。定家は大歌人で西行はどうしても素人だということになる白洲~たしかに素人なんですよ定家からみれば。でも西行は天才だったと思います。あの歌の美しさは比類がないですね。
目ー西行は「新古今集」では筆頭歌人ですよ、ただし、西行が「新古今」を代表しているかというとそうではない。
白洲ー「新古今」の中では一人だけ違うところにいるという感じ。平気で俗語なんか使っていますね。
・ 当時とすれば大変な旅
目―われわれにとって西行の魅力というのはやはり漂泊といいますかしょちゅう旅をしているという印象があるということだと思いますね。大変な旅人。
・未知の世界を果敢に訪ねる。
目ー 西行の足跡を全部歩いていらっしゃる。全部ご自分で探して・・
白洲ー割に一人で、一人でないとねいろいろ考えながら行くものですから、大勢ではだめなんです。
目崎ー探していかれるというのが、それが好きだから、そうするというのは、まさに西行の生き方、いわゆる「数寄」とぴったりする心根ですね。西行がみちのくに最初にああいう長い旅をしたのも未知の世界を訪ねてみたいというすき心で・・・
白洲ー当時の「数寄」という詞には、好奇心の意味も含まれていますから・・
目崎ー西行は能因が残した足跡とか当時、都で話題になっていた東北の場所とかを、自分の足で踏んでみたいと思ったわけですね。そういう思いが強烈で、実際にその場所へ着いてみると、非常に感動してしまう。その感動のままを歌に詠んだ。それが形式にとらわれない和歌になってよかったのだと思います。
・身分を捨てた自由人
・目崎ー西行の歌の中に一族、親兄弟というものが出てくるのを排除している。芭蕉も一緒
・西行の旅は全部修行~~23歳で出家して廻国修行
・西行と芭蕉の共通点
・目崎ー結核を患って病床で自然と乱読をして芭蕉に行きついたようなわけなんです。
・ああ芭蕉からはいられたわけですか。
・芭蕉をやっておりますと、当然西行にも行きつく。芭蕉、特に前半生の芭蕉の句にはあらゆるところに西行の影がちらついていましてね。私も自然に西行にいきついたというようなわけなんです。
・白洲ーだから、先生のご本は、いわゆる研究所と違って、ほんとにおもしろい。わたくしが西行に興味を持ちましたのは、明恵上人を書いた時からなんです。明恵上人が、わたくしは大変好きでございましてね。
・目崎ーそうですね。この二人は仏法も共通ですし、個性もよく似ていますね。
・白洲ーただ、西行の場合は出家をしたといっても、いいかげんなものですが。
・目崎ーええ、仏教というよりは、大自然を相手にしていたということが言えるでしょうね
・白洲ーいずれにしても、それで旅に出ることを”修行”といっておりますし、これは芭蕉の場合も同じなんでございますね。
・目崎ーそうですね、「奥の細道」では「道祖神の招きにあひて」などと言っていますが、修行ですね。
・白洲ーこの二人もほんとによく似ていますよ。二人とも、まず偉くなろうとしなかったですよ。
・目崎ーそうですね。西行の場合は、当時は歌人として名を成すためには、宮廷に召されて歌合せというものをやらなければならなかった。そこで認められて、初めて歌人として生活できるわけですけれども、そういうものには一切出ていない。
芭蕉も当時は素人の作った俳句に丸をつけたりする、いわゆる宗匠というプロですが、そいうことをやらないで、深川に引っ込んでしまった。世俗的な価値というものに背を向けてしまったわけです。
そういう意味で、西行と芭蕉には大きな共通点があります。
・白洲ーもともと明恵も西行も芭蕉も武士ですから、根底に同じようなものがあったんでございましょうね。
目崎ー西行については今まであまり言われていないことですが、貴族階級ではない、一般庶民への関心も非常に強い人であったと思います。
・白洲ーそういえば、伊勢の海女ですとか、山びとですとか、非常にたくさんの働く人のことを詠んでいますね。
・西行の旅は全部修行
・白洲ー西行が出家するときに、子供を突き落としたという有名な絵巻物がございますが、これは実際はどうだったんでしょうか。
・目崎ー実際あったかどうかわかりませんが、西行の覚悟があのようなものであった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
西行伝説の一つですが、白洲さんもいっておられる天野。ここはいわゆる女人高野なんです。西行は家族のつながりをすべて断ち切ったのではなく、奥さんはこの天野で尼になった。そういう伝説もあります。
・白洲ーこの天野は西行ゆかりの地の中で、いちばん当時のままにちかいよう気がいたします。
・目崎ーそうですか。しかし、われわれ日本人は西行が好きで、人によっては、その自由気ままなところにあこがれる場合もあるでしょうが、さっき白洲さんがおっしゃったように、西行の旅は全部修行なんですね。西行より少し後に、一編が全国を遊行していますが、一編
が歩いたのと比べると、西行は気ままだったというイメージがあると思います。しかし、一編が往生のお札を渡すのと西行が歌を詠んだのと、私は全く同じような次元のものだと解釈をしたいですね。
・白洲ーなるほど。
目崎ー実際、西行も大峯山の修行では命がけのことをやっていますし、全部が全部、自由気ままなのんびりとした旅だったわけではありませんからね。西行は非常に息長く廻国修行を続けたわけですね。西行は私などには伺い知れぬほどの信仰の高みに至っている。かれはまったく来世、浄土を信じ切っていますから、ここまで言ってしまうと、私にはとてもうかがい知れないという気持ちになってしまうんです。
・白洲ー仏教的な信仰の極みでありながら、伊勢へ行ったときには、(榊葉に心をかけて木綿(ゆふ)しでて 思へば神も仏なりけん)なんて、神様も一緒になってしまっている。そのあたりが、わたくしはすごいなと思ってしまうんですね。
別なところでは、「風にたなびく富士の煙の空にきえて 行くへも知らぬわが思いかな」
と歌って、最後は虚空と一つになってしまいますね。
・芭蕉の旅は無念の挫折
目崎ーそうですね。芭蕉もおそらく同じようなところを目指したと思うんです。ただ、これは山本健吉さんが、よくおっしゃられたことなんですが、芭蕉は50歳で亡くなりました。
・白洲ー西行より20歳早いわけですね。
・目崎ーだから、あと20年生きていたらどうであったかと、山本健吉さんはしょっちゅう言っておられた。芭蕉は、有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯れ野を駆け廻る」というのを詠んで、これも現世への執着であると芭蕉が悔やんだ、ということを弟子の一人が書き留めていますが、返す返す悔やんだというんですね。つまり50歳の段階では、死にかかっているのに、まだ自分をつかまえようと探している。
ところが西行のほうは、芭蕉より20年以上も生きるわけですから、最後のところは完全に芭蕉がこだわっていたものを飛び越えてしまっているわけです。
・白洲ー西行の場合は、最後は歌うこともよしてしまっていますものね。
・目崎ーすべて歌いきったということかもしれませんね。芭蕉の場合は、あれからまだ九州へ行こうとしていたわけで、いわば無念の挫折であったわけですから、余計にそういう思いが強かったのかもしれませんね。ただ、だからこそ私には西行よりも芭蕉のほうが近く感じられるといいますか、西行の高みになってしまうと、やはりうかがい知れない、という思い
にとらわれてしまうんです。白洲さんのように、私も西行のあとを全部歩いてみれば、西行のほうでも私に近づいてきてくれるのかもしれませんが、なかなか歩くこともできませんのでね。
・白洲ーところで先生、人はなぜ旅をするのでしょうかね。わたくしは、寂しいというか、もののあわれみたいなことを感じることだと思うんです。そういうチャンスは、家にいただけではなかなか感じられない。それにいろんな人にも会えますしね。
・目崎ー私は日本人の旅というものは二つの種類があるのではないかと思うんです。一つは、「舟の上に生涯をうかべ」と芭蕉も書いているんですが、世の中を動いて回るのが生業(なりわい)だという人たちがあります。とくに中世は定住しない人たちが非常に多かったんです。例えば、漁民、海女、船人、筏師、こういうような人たちで移動することが仕事である人ですね。
こういう人は定住地を持たない。遊女なんかもここに入れて考えられますし、西行も詠んでいますが山賊、海賊といったたぐいもそうですね。
もうひとつ西行とか芭蕉に代表されるように、仮に定住地を持っていても、現世を生きていること自体が旅である。こういうことをよく自覚して、それを思想として打ち出した人。そういう二つの旅の形があると思います。その二つが密接に連関しながら、今日まで来ていると思います。
・目崎ー近代になりますと、三木清が「人生論ノート」の中で言っております。(何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これが人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊であるる」
・白洲ーああ、人生は未知のものへの漂泊ね。
・目崎ーそれと同時に「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみを問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の心の真の面白さを知らぬものといはれるのである。」こいうこともいっています。
・白洲ーお能の橋掛りや、歌舞伎の花道にしても同じことです。
・目崎ー私などまだ未熟ですから、人生の意味がどういうところにあるかということは言えませんが、考えてみますと、あくせく馬車馬のように働くだけではしようがない。もう少しゆとりのある人生を送りたい、そう考えるものですから、みんな、なんとなく旅にあこがれるのではないか。そういう風に思ってみたりするんですけどね。
・白洲ー人生というのは、どこまで生きても完結はありませんし、旅と一緒でございますね。
・目崎ー同じ旅といっても、何か目的があって、計画を立てて、予定通り行って用を済ませ、それで終わりというのは本当の旅とはいえないかもしれませんね。
・ 人生は旅の途中
・白洲ーところで西行の歌に、
「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」 というのがありますね。 これは西行69歳の時の歌なんですが、40年以上も前に初めて小夜の中山を越えた日のことを思い出して、激しく胸に迫るものがあったんだと思うんですよ。その長い年月の経験が、積もり積もって、「命なりけり」の絶唱になったんじゃないでしょうか。
・目崎ー二度と来れないかもしれないいるんじゃないでしょうかねという思いもあったでしょうね。
・白洲ーそれもあるでしょうけれども、命という言葉は非常に重たい言葉でね、その一言の中にみな、入っているんじゃないでしょうかね。自分の命も、人の命も、生死みたいなものもね。
・目崎ーなるほど。
・白洲ーわたくし、小夜の中山峠に行ってみて、びっくりしちゃってね。今はわけなく越えられるんだけど、昔はたいへんなとこだったのです、戦前は。今はもう、峠を越えるという、ああいう苦しみがなくなるのは悲しいことです。
それでね、さっき先生が三木清の言葉を引用されましたが、人生は旅と同じで、その日その日が大切なんだと思います。お寺の参道も花道や橋掛りとまったく同じことですね。参道を車で通過して、お寺へ乗りつけるのは、あれはまったく意味のないことです。
・目崎ーそうですね。参道を歩くうちにいろいろと思うことがあったりしましてね。
・白洲ーお釈迦様は「中有」ということをおっしゃいましたが、じんせいはほんとに、旅の途中だと思いますね。
・目崎ー百まで生きても百五十まで生きても、完結することはないんです。必ず人生は途中でプツンと切れるわけですから、三木清の言う通りだと思います。
・白洲ー小林秀雄さんは「モオツアルト」の中で、「大事なのは目的ではなくて、現在の歩き方だ」と言っているのも同じことでしょうね。わたくし比叡山の回峰行も取材をしたことがあるんですが、例の阿じゃ梨になるためのものですけれども、この最後のほうでは1日に85キロも歩くというものすごい修行があるんです。それがすむと、今度は断食ですから、見ているほうは大変だなよく続くなと感心してしまいます。
それで私が最も関心があるのは、たしかにものすごい修行ですけれども、それを済ませたときに安心をしてしまうと駄目なのね。
・目崎ーああ、われながら大したもんだ、と。
・白洲ーそう。そう思っちゃう人は、そのあとガタ落ちになってしまうんです。
・目崎ー阿者梨になることが目的ではないということですね。
・白洲ー阿者梨になったあとも、ずっと何かの形で修行を続けていかなくてはならない。ひどいのは自慢げに講演をしたりしている人もいますから、そういう人は完全に堕落してしまうことのなるんですね。
・目崎ー修行は一生だということですね。しかも一生かかっても終わるということがない。
・白洲ーそれが「生きている」ということでしょう。
・目崎ー人生は歩き続けなくてはいけない、というのが結論ですね。
「致知」89年10月号・・・
・芭蕉は玄人
・西行の歌はわかりやすい
上田秋成は、西行は本物だが、芭蕉は偽物である。と盛んにやっつけた、西行や宗祇の時代は、源平合戦とか応仁の乱とかあって、乱世ですから都におられなくても必然性があるけれども芭蕉の時代は、太平の世の中で、それぞれ生業にいそしんでいるのに、坊さんともつ
かず、俗人ともつかない芭蕉が、それを気取って歩くのはまやかしである。「こしえもの」であるといってるんですね、「こぞのしおり」という随筆に・・当時芭蕉亜流のものが芭蕉気取りの旅、ヒッチハイクのようなことをしていた。頭にきて・・・
・ 和歌の研究者は西行を買わない
藤原定家あたりが中心になる。定家は大歌人で西行はどうしても素人だということになる白洲~たしかに素人なんですよ定家からみれば。でも西行は天才だったと思います。あの歌の美しさは比類がないですね。
目ー西行は「新古今集」では筆頭歌人ですよ、ただし、西行が「新古今」を代表しているかというとそうではない。
白洲ー「新古今」の中では一人だけ違うところにいるという感じ。平気で俗語なんか使っていますね。
・ 当時とすれば大変な旅
目―われわれにとって西行の魅力というのはやはり漂泊といいますかしょちゅう旅をしているという印象があるということだと思いますね。大変な旅人。
・未知の世界を果敢に訪ねる。
目ー 西行の足跡を全部歩いていらっしゃる。全部ご自分で探して・・
白洲ー割に一人で、一人でないとねいろいろ考えながら行くものですから、大勢ではだめなんです。
目崎ー探していかれるというのが、それが好きだから、そうするというのは、まさに西行の生き方、いわゆる「数寄」とぴったりする心根ですね。西行がみちのくに最初にああいう長い旅をしたのも未知の世界を訪ねてみたいというすき心で・・・
白洲ー当時の「数寄」という詞には、好奇心の意味も含まれていますから・・
目崎ー西行は能因が残した足跡とか当時、都で話題になっていた東北の場所とかを、自分の足で踏んでみたいと思ったわけですね。そういう思いが強烈で、実際にその場所へ着いてみると、非常に感動してしまう。その感動のままを歌に詠んだ。それが形式にとらわれない和歌になってよかったのだと思います。
・身分を捨てた自由人
・目崎ー西行の歌の中に一族、親兄弟というものが出てくるのを排除している。芭蕉も一緒
・西行の旅は全部修行~~23歳で出家して廻国修行
・西行と芭蕉の共通点
・目崎ー結核を患って病床で自然と乱読をして芭蕉に行きついたようなわけなんです。
・ああ芭蕉からはいられたわけですか。
・芭蕉をやっておりますと、当然西行にも行きつく。芭蕉、特に前半生の芭蕉の句にはあらゆるところに西行の影がちらついていましてね。私も自然に西行にいきついたというようなわけなんです。
・白洲ーだから、先生のご本は、いわゆる研究所と違って、ほんとにおもしろい。わたくしが西行に興味を持ちましたのは、明恵上人を書いた時からなんです。明恵上人が、わたくしは大変好きでございましてね。
・目崎ーそうですね。この二人は仏法も共通ですし、個性もよく似ていますね。
・白洲ーただ、西行の場合は出家をしたといっても、いいかげんなものですが。
・目崎ーええ、仏教というよりは、大自然を相手にしていたということが言えるでしょうね
・白洲ーいずれにしても、それで旅に出ることを”修行”といっておりますし、これは芭蕉の場合も同じなんでございますね。
・目崎ーそうですね、「奥の細道」では「道祖神の招きにあひて」などと言っていますが、修行ですね。
・白洲ーこの二人もほんとによく似ていますよ。二人とも、まず偉くなろうとしなかったですよ。
・目崎ーそうですね。西行の場合は、当時は歌人として名を成すためには、宮廷に召されて歌合せというものをやらなければならなかった。そこで認められて、初めて歌人として生活できるわけですけれども、そういうものには一切出ていない。
芭蕉も当時は素人の作った俳句に丸をつけたりする、いわゆる宗匠というプロですが、そいうことをやらないで、深川に引っ込んでしまった。世俗的な価値というものに背を向けてしまったわけです。
そういう意味で、西行と芭蕉には大きな共通点があります。
・白洲ーもともと明恵も西行も芭蕉も武士ですから、根底に同じようなものがあったんでございましょうね。
目崎ー西行については今まであまり言われていないことですが、貴族階級ではない、一般庶民への関心も非常に強い人であったと思います。
・白洲ーそういえば、伊勢の海女ですとか、山びとですとか、非常にたくさんの働く人のことを詠んでいますね。
・西行の旅は全部修行
・白洲ー西行が出家するときに、子供を突き落としたという有名な絵巻物がございますが、これは実際はどうだったんでしょうか。
・目崎ー実際あったかどうかわかりませんが、西行の覚悟があのようなものであった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
西行伝説の一つですが、白洲さんもいっておられる天野。ここはいわゆる女人高野なんです。西行は家族のつながりをすべて断ち切ったのではなく、奥さんはこの天野で尼になった。そういう伝説もあります。
・白洲ーこの天野は西行ゆかりの地の中で、いちばん当時のままにちかいよう気がいたします。
・目崎ーそうですか。しかし、われわれ日本人は西行が好きで、人によっては、その自由気ままなところにあこがれる場合もあるでしょうが、さっき白洲さんがおっしゃったように、西行の旅は全部修行なんですね。西行より少し後に、一編が全国を遊行していますが、一編
が歩いたのと比べると、西行は気ままだったというイメージがあると思います。しかし、一編が往生のお札を渡すのと西行が歌を詠んだのと、私は全く同じような次元のものだと解釈をしたいですね。
・白洲ーなるほど。
目崎ー実際、西行も大峯山の修行では命がけのことをやっていますし、全部が全部、自由気ままなのんびりとした旅だったわけではありませんからね。西行は非常に息長く廻国修行を続けたわけですね。西行は私などには伺い知れぬほどの信仰の高みに至っている。かれはまったく来世、浄土を信じ切っていますから、ここまで言ってしまうと、私にはとてもうかがい知れないという気持ちになってしまうんです。
・白洲ー仏教的な信仰の極みでありながら、伊勢へ行ったときには、(榊葉に心をかけて木綿(ゆふ)しでて 思へば神も仏なりけん)なんて、神様も一緒になってしまっている。そのあたりが、わたくしはすごいなと思ってしまうんですね。
別なところでは、「風にたなびく富士の煙の空にきえて 行くへも知らぬわが思いかな」
と歌って、最後は虚空と一つになってしまいますね。
・芭蕉の旅は無念の挫折
目崎ーそうですね。芭蕉もおそらく同じようなところを目指したと思うんです。ただ、これは山本健吉さんが、よくおっしゃられたことなんですが、芭蕉は50歳で亡くなりました。
・白洲ー西行より20歳早いわけですね。
・目崎ーだから、あと20年生きていたらどうであったかと、山本健吉さんはしょっちゅう言っておられた。芭蕉は、有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯れ野を駆け廻る」というのを詠んで、これも現世への執着であると芭蕉が悔やんだ、ということを弟子の一人が書き留めていますが、返す返す悔やんだというんですね。つまり50歳の段階では、死にかかっているのに、まだ自分をつかまえようと探している。
ところが西行のほうは、芭蕉より20年以上も生きるわけですから、最後のところは完全に芭蕉がこだわっていたものを飛び越えてしまっているわけです。
・白洲ー西行の場合は、最後は歌うこともよしてしまっていますものね。
・目崎ーすべて歌いきったということかもしれませんね。芭蕉の場合は、あれからまだ九州へ行こうとしていたわけで、いわば無念の挫折であったわけですから、余計にそういう思いが強かったのかもしれませんね。ただ、だからこそ私には西行よりも芭蕉のほうが近く感じられるといいますか、西行の高みになってしまうと、やはりうかがい知れない、という思い
にとらわれてしまうんです。白洲さんのように、私も西行のあとを全部歩いてみれば、西行のほうでも私に近づいてきてくれるのかもしれませんが、なかなか歩くこともできませんのでね。
・白洲ーところで先生、人はなぜ旅をするのでしょうかね。わたくしは、寂しいというか、もののあわれみたいなことを感じることだと思うんです。そういうチャンスは、家にいただけではなかなか感じられない。それにいろんな人にも会えますしね。
・目崎ー私は日本人の旅というものは二つの種類があるのではないかと思うんです。一つは、「舟の上に生涯をうかべ」と芭蕉も書いているんですが、世の中を動いて回るのが生業(なりわい)だという人たちがあります。とくに中世は定住しない人たちが非常に多かったんです。例えば、漁民、海女、船人、筏師、こういうような人たちで移動することが仕事である人ですね。
こういう人は定住地を持たない。遊女なんかもここに入れて考えられますし、西行も詠んでいますが山賊、海賊といったたぐいもそうですね。
もうひとつ西行とか芭蕉に代表されるように、仮に定住地を持っていても、現世を生きていること自体が旅である。こういうことをよく自覚して、それを思想として打ち出した人。そういう二つの旅の形があると思います。その二つが密接に連関しながら、今日まで来ていると思います。
・目崎ー近代になりますと、三木清が「人生論ノート」の中で言っております。(何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これが人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊であるる」
・白洲ーああ、人生は未知のものへの漂泊ね。
・目崎ーそれと同時に「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみを問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の心の真の面白さを知らぬものといはれるのである。」こいうこともいっています。
・白洲ーお能の橋掛りや、歌舞伎の花道にしても同じことです。
・目崎ー私などまだ未熟ですから、人生の意味がどういうところにあるかということは言えませんが、考えてみますと、あくせく馬車馬のように働くだけではしようがない。もう少しゆとりのある人生を送りたい、そう考えるものですから、みんな、なんとなく旅にあこがれるのではないか。そういう風に思ってみたりするんですけどね。
・白洲ー人生というのは、どこまで生きても完結はありませんし、旅と一緒でございますね。
・目崎ー同じ旅といっても、何か目的があって、計画を立てて、予定通り行って用を済ませ、それで終わりというのは本当の旅とはいえないかもしれませんね。
・ 人生は旅の途中
・白洲ーところで西行の歌に、
「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」 というのがありますね。 これは西行69歳の時の歌なんですが、40年以上も前に初めて小夜の中山を越えた日のことを思い出して、激しく胸に迫るものがあったんだと思うんですよ。その長い年月の経験が、積もり積もって、「命なりけり」の絶唱になったんじゃないでしょうか。
・目崎ー二度と来れないかもしれないいるんじゃないでしょうかねという思いもあったでしょうね。
・白洲ーそれもあるでしょうけれども、命という言葉は非常に重たい言葉でね、その一言の中にみな、入っているんじゃないでしょうかね。自分の命も、人の命も、生死みたいなものもね。
・目崎ーなるほど。
・白洲ーわたくし、小夜の中山峠に行ってみて、びっくりしちゃってね。今はわけなく越えられるんだけど、昔はたいへんなとこだったのです、戦前は。今はもう、峠を越えるという、ああいう苦しみがなくなるのは悲しいことです。
それでね、さっき先生が三木清の言葉を引用されましたが、人生は旅と同じで、その日その日が大切なんだと思います。お寺の参道も花道や橋掛りとまったく同じことですね。参道を車で通過して、お寺へ乗りつけるのは、あれはまったく意味のないことです。
・目崎ーそうですね。参道を歩くうちにいろいろと思うことがあったりしましてね。
・白洲ーお釈迦様は「中有」ということをおっしゃいましたが、じんせいはほんとに、旅の途中だと思いますね。
・目崎ー百まで生きても百五十まで生きても、完結することはないんです。必ず人生は途中でプツンと切れるわけですから、三木清の言う通りだと思います。
・白洲ー小林秀雄さんは「モオツアルト」の中で、「大事なのは目的ではなくて、現在の歩き方だ」と言っているのも同じことでしょうね。わたくし比叡山の回峰行も取材をしたことがあるんですが、例の阿じゃ梨になるためのものですけれども、この最後のほうでは1日に85キロも歩くというものすごい修行があるんです。それがすむと、今度は断食ですから、見ているほうは大変だなよく続くなと感心してしまいます。
それで私が最も関心があるのは、たしかにものすごい修行ですけれども、それを済ませたときに安心をしてしまうと駄目なのね。
・目崎ーああ、われながら大したもんだ、と。
・白洲ーそう。そう思っちゃう人は、そのあとガタ落ちになってしまうんです。
・目崎ー阿者梨になることが目的ではないということですね。
・白洲ー阿者梨になったあとも、ずっと何かの形で修行を続けていかなくてはならない。ひどいのは自慢げに講演をしたりしている人もいますから、そういう人は完全に堕落してしまうことのなるんですね。
・目崎ー修行は一生だということですね。しかも一生かかっても終わるということがない。
・白洲ーそれが「生きている」ということでしょう。
・目崎ー人生は歩き続けなくてはいけない、というのが結論ですね。
「致知」89年10月号・・・