やまざくらの日記

やまざくらの日々の出来事をつづっています。.

白洲正子対談集成

2010-09-30 15:38:07 | 読書
 目崎徳衛氏 1921年新潟県生まれ、元聖心女子大学教授、~歴史学の手法で、日本人の精神構造の祖形を古典文学を通して掘り下げる。俳人でもある。著書「紀貫之、漂白、数寄と無常、芭蕉のうちなる西行など。

・芭蕉は玄人
 
・西行の歌はわかりやすい
 上田秋成は、西行は本物だが、芭蕉は偽物である。と盛んにやっつけた、西行や宗祇の時代は、源平合戦とか応仁の乱とかあって、乱世ですから都におられなくても必然性があるけれども芭蕉の時代は、太平の世の中で、それぞれ生業にいそしんでいるのに、坊さんともつ

かず、俗人ともつかない芭蕉が、それを気取って歩くのはまやかしである。「こしえもの」であるといってるんですね、「こぞのしおり」という随筆に・・当時芭蕉亜流のものが芭蕉気取りの旅、ヒッチハイクのようなことをしていた。頭にきて・・・

・ 和歌の研究者は西行を買わない
 藤原定家あたりが中心になる。定家は大歌人で西行はどうしても素人だということになる白洲~たしかに素人なんですよ定家からみれば。でも西行は天才だったと思います。あの歌の美しさは比類がないですね。

目ー西行は「新古今集」では筆頭歌人ですよ、ただし、西行が「新古今」を代表しているかというとそうではない。
白洲ー「新古今」の中では一人だけ違うところにいるという感じ。平気で俗語なんか使っていますね。

・ 当時とすれば大変な旅
 目―われわれにとって西行の魅力というのはやはり漂泊といいますかしょちゅう旅をしているという印象があるということだと思いますね。大変な旅人。

・未知の世界を果敢に訪ねる。
目ー 西行の足跡を全部歩いていらっしゃる。全部ご自分で探して・・
白洲ー割に一人で、一人でないとねいろいろ考えながら行くものですから、大勢ではだめなんです。

目崎ー探していかれるというのが、それが好きだから、そうするというのは、まさに西行の生き方、いわゆる「数寄」とぴったりする心根ですね。西行がみちのくに最初にああいう長い旅をしたのも未知の世界を訪ねてみたいというすき心で・・・

白洲ー当時の「数寄」という詞には、好奇心の意味も含まれていますから・・
目崎ー西行は能因が残した足跡とか当時、都で話題になっていた東北の場所とかを、自分の足で踏んでみたいと思ったわけですね。そういう思いが強烈で、実際にその場所へ着いてみると、非常に感動してしまう。その感動のままを歌に詠んだ。それが形式にとらわれない和歌になってよかったのだと思います。

・身分を捨てた自由人
・目崎ー西行の歌の中に一族、親兄弟というものが出てくるのを排除している。芭蕉も一緒
・西行の旅は全部修行~~23歳で出家して廻国修行

・西行と芭蕉の共通点
・目崎ー結核を患って病床で自然と乱読をして芭蕉に行きついたようなわけなんです。
・ああ芭蕉からはいられたわけですか。
・芭蕉をやっておりますと、当然西行にも行きつく。芭蕉、特に前半生の芭蕉の句にはあらゆるところに西行の影がちらついていましてね。私も自然に西行にいきついたというようなわけなんです。
・白洲ーだから、先生のご本は、いわゆる研究所と違って、ほんとにおもしろい。わたくしが西行に興味を持ちましたのは、明恵上人を書いた時からなんです。明恵上人が、わたくしは大変好きでございましてね。

・目崎ーそうですね。この二人は仏法も共通ですし、個性もよく似ていますね。
・白洲ーただ、西行の場合は出家をしたといっても、いいかげんなものですが。
・目崎ーええ、仏教というよりは、大自然を相手にしていたということが言えるでしょうね

・白洲ーいずれにしても、それで旅に出ることを”修行”といっておりますし、これは芭蕉の場合も同じなんでございますね。
・目崎ーそうですね、「奥の細道」では「道祖神の招きにあひて」などと言っていますが、修行ですね。
・白洲ーこの二人もほんとによく似ていますよ。二人とも、まず偉くなろうとしなかったですよ。
・目崎ーそうですね。西行の場合は、当時は歌人として名を成すためには、宮廷に召されて歌合せというものをやらなければならなかった。そこで認められて、初めて歌人として生活できるわけですけれども、そういうものには一切出ていない。

 芭蕉も当時は素人の作った俳句に丸をつけたりする、いわゆる宗匠というプロですが、そいうことをやらないで、深川に引っ込んでしまった。世俗的な価値というものに背を向けてしまったわけです。
 そういう意味で、西行と芭蕉には大きな共通点があります。
・白洲ーもともと明恵も西行も芭蕉も武士ですから、根底に同じようなものがあったんでございましょうね。

目崎ー西行については今まであまり言われていないことですが、貴族階級ではない、一般庶民への関心も非常に強い人であったと思います。
・白洲ーそういえば、伊勢の海女ですとか、山びとですとか、非常にたくさんの働く人のことを詠んでいますね。

・西行の旅は全部修行
・白洲ー西行が出家するときに、子供を突き落としたという有名な絵巻物がございますが、これは実際はどうだったんでしょうか。
・目崎ー実際あったかどうかわかりませんが、西行の覚悟があのようなものであった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
 西行伝説の一つですが、白洲さんもいっておられる天野。ここはいわゆる女人高野なんです。西行は家族のつながりをすべて断ち切ったのではなく、奥さんはこの天野で尼になった。そういう伝説もあります。
・白洲ーこの天野は西行ゆかりの地の中で、いちばん当時のままにちかいよう気がいたします。
・目崎ーそうですか。しかし、われわれ日本人は西行が好きで、人によっては、その自由気ままなところにあこがれる場合もあるでしょうが、さっき白洲さんがおっしゃったように、西行の旅は全部修行なんですね。西行より少し後に、一編が全国を遊行していますが、一編

が歩いたのと比べると、西行は気ままだったというイメージがあると思います。しかし、一編が往生のお札を渡すのと西行が歌を詠んだのと、私は全く同じような次元のものだと解釈をしたいですね。
・白洲ーなるほど。
目崎ー実際、西行も大峯山の修行では命がけのことをやっていますし、全部が全部、自由気ままなのんびりとした旅だったわけではありませんからね。西行は非常に息長く廻国修行を続けたわけですね。西行は私などには伺い知れぬほどの信仰の高みに至っている。かれはまったく来世、浄土を信じ切っていますから、ここまで言ってしまうと、私にはとてもうかがい知れないという気持ちになってしまうんです。

・白洲ー仏教的な信仰の極みでありながら、伊勢へ行ったときには、(榊葉に心をかけて木綿(ゆふ)しでて 思へば神も仏なりけん)なんて、神様も一緒になってしまっている。そのあたりが、わたくしはすごいなと思ってしまうんですね。

 別なところでは、「風にたなびく富士の煙の空にきえて 行くへも知らぬわが思いかな」
と歌って、最後は虚空と一つになってしまいますね。

・芭蕉の旅は無念の挫折
目崎ーそうですね。芭蕉もおそらく同じようなところを目指したと思うんです。ただ、これは山本健吉さんが、よくおっしゃられたことなんですが、芭蕉は50歳で亡くなりました。


・白洲ー西行より20歳早いわけですね。
・目崎ーだから、あと20年生きていたらどうであったかと、山本健吉さんはしょっちゅう言っておられた。芭蕉は、有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯れ野を駆け廻る」というのを詠んで、これも現世への執着であると芭蕉が悔やんだ、ということを弟子の一人が書き留めていますが、返す返す悔やんだというんですね。つまり50歳の段階では、死にかかっているのに、まだ自分をつかまえようと探している。

 ところが西行のほうは、芭蕉より20年以上も生きるわけですから、最後のところは完全に芭蕉がこだわっていたものを飛び越えてしまっているわけです。

・白洲ー西行の場合は、最後は歌うこともよしてしまっていますものね。
・目崎ーすべて歌いきったということかもしれませんね。芭蕉の場合は、あれからまだ九州へ行こうとしていたわけで、いわば無念の挫折であったわけですから、余計にそういう思いが強かったのかもしれませんね。ただ、だからこそ私には西行よりも芭蕉のほうが近く感じられるといいますか、西行の高みになってしまうと、やはりうかがい知れない、という思い

にとらわれてしまうんです。白洲さんのように、私も西行のあとを全部歩いてみれば、西行のほうでも私に近づいてきてくれるのかもしれませんが、なかなか歩くこともできませんのでね。
・白洲ーところで先生、人はなぜ旅をするのでしょうかね。わたくしは、寂しいというか、もののあわれみたいなことを感じることだと思うんです。そういうチャンスは、家にいただけではなかなか感じられない。それにいろんな人にも会えますしね。

・目崎ー私は日本人の旅というものは二つの種類があるのではないかと思うんです。一つは、「舟の上に生涯をうかべ」と芭蕉も書いているんですが、世の中を動いて回るのが生業(なりわい)だという人たちがあります。とくに中世は定住しない人たちが非常に多かったんです。例えば、漁民、海女、船人、筏師、こういうような人たちで移動することが仕事である人ですね。
 こういう人は定住地を持たない。遊女なんかもここに入れて考えられますし、西行も詠んでいますが山賊、海賊といったたぐいもそうですね。

 もうひとつ西行とか芭蕉に代表されるように、仮に定住地を持っていても、現世を生きていること自体が旅である。こういうことをよく自覚して、それを思想として打ち出した人。そういう二つの旅の形があると思います。その二つが密接に連関しながら、今日まで来ていると思います。

・目崎ー近代になりますと、三木清が「人生論ノート」の中で言っております。(何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へ行くのであるか。これが人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。いったい人生において、我々は何処へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊であるる」
・白洲ーああ、人生は未知のものへの漂泊ね。
・目崎ーそれと同時に「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみを問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の心の真の面白さを知らぬものといはれるのである。」こいうこともいっています。

・白洲ーお能の橋掛りや、歌舞伎の花道にしても同じことです。
・目崎ー私などまだ未熟ですから、人生の意味がどういうところにあるかということは言えませんが、考えてみますと、あくせく馬車馬のように働くだけではしようがない。もう少しゆとりのある人生を送りたい、そう考えるものですから、みんな、なんとなく旅にあこがれるのではないか。そういう風に思ってみたりするんですけどね。

・白洲ー人生というのは、どこまで生きても完結はありませんし、旅と一緒でございますね。
・目崎ー同じ旅といっても、何か目的があって、計画を立てて、予定通り行って用を済ませ、それで終わりというのは本当の旅とはいえないかもしれませんね。

・ 人生は旅の途中
・白洲ーところで西行の歌に、
  「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」 というのがありますね。 これは西行69歳の時の歌なんですが、40年以上も前に初めて小夜の中山を越えた日のことを思い出して、激しく胸に迫るものがあったんだと思うんですよ。その長い年月の経験が、積もり積もって、「命なりけり」の絶唱になったんじゃないでしょうか。

・目崎ー二度と来れないかもしれないいるんじゃないでしょうかねという思いもあったでしょうね。
・白洲ーそれもあるでしょうけれども、命という言葉は非常に重たい言葉でね、その一言の中にみな、入っているんじゃないでしょうかね。自分の命も、人の命も、生死みたいなものもね。
・目崎ーなるほど。
・白洲ーわたくし、小夜の中山峠に行ってみて、びっくりしちゃってね。今はわけなく越えられるんだけど、昔はたいへんなとこだったのです、戦前は。今はもう、峠を越えるという、ああいう苦しみがなくなるのは悲しいことです。

 それでね、さっき先生が三木清の言葉を引用されましたが、人生は旅と同じで、その日その日が大切なんだと思います。お寺の参道も花道や橋掛りとまったく同じことですね。参道を車で通過して、お寺へ乗りつけるのは、あれはまったく意味のないことです。

・目崎ーそうですね。参道を歩くうちにいろいろと思うことがあったりしましてね。
・白洲ーお釈迦様は「中有」ということをおっしゃいましたが、じんせいはほんとに、旅の途中だと思いますね。

・目崎ー百まで生きても百五十まで生きても、完結することはないんです。必ず人生は途中でプツンと切れるわけですから、三木清の言う通りだと思います。

・白洲ー小林秀雄さんは「モオツアルト」の中で、「大事なのは目的ではなくて、現在の歩き方だ」と言っているのも同じことでしょうね。わたくし比叡山の回峰行も取材をしたことがあるんですが、例の阿じゃ梨になるためのものですけれども、この最後のほうでは1日に85キロも歩くというものすごい修行があるんです。それがすむと、今度は断食ですから、見ているほうは大変だなよく続くなと感心してしまいます。

 それで私が最も関心があるのは、たしかにものすごい修行ですけれども、それを済ませたときに安心をしてしまうと駄目なのね。

・目崎ーああ、われながら大したもんだ、と。
・白洲ーそう。そう思っちゃう人は、そのあとガタ落ちになってしまうんです。
・目崎ー阿者梨になることが目的ではないということですね。

・白洲ー阿者梨になったあとも、ずっと何かの形で修行を続けていかなくてはならない。ひどいのは自慢げに講演をしたりしている人もいますから、そういう人は完全に堕落してしまうことのなるんですね。
・目崎ー修行は一生だということですね。しかも一生かかっても終わるということがない。
・白洲ーそれが「生きている」ということでしょう。
・目崎ー人生は歩き続けなくてはいけない、というのが結論ですね。
    「致知」89年10月号・・・
 

山口県史講演会「森と神と人」筑波大学徳丸教授

2009-09-16 10:16:12 | 読書
 9月12日山口県史編纂専門委員の徳丸教授の講演会を山口県教育会館で2時間ばかり拝聴した。
 山口県の特徴的な民族のひとつとして「森神」にまつわる信仰である「森神信仰」をあげることができると先生はおっしゃる。

1 聖地としての森
 各地の神社の縁起を調べると、祭神の勧請に際して森や大樹の根元に御幣を挿して祭場としたり、あるいは祭神自らが、「森」や大樹に降臨・影向したとするものが多く見られます。

2民俗学における「森神信仰」研究の歩みと県下の「森上信仰」の位置づけ

  柳田国男、国分直一・・・・・・・
3 史料にみる「森上信仰」
  萩藩の社寺台帳である「寺社由来」神・・5000例のうち、そのほぼ1割が
  森神。 
4 淫祠解除(いんしとけのけ)
  天保改革の一環として行われ多くが伐採された。反ぱくを試みた学者もある。5 現代に生きる「森上信仰」と森神の伝承  

 伝承の性質について
① 「森神」を祀る人々が生活する地域を取り巻く地形、水利などの地理的条件およびそれに規定される生業形態の影響。

② 「森神」を祀る人々が生活する地域に維持されてきた、歴史的環境条件の影  響。
③ 人々が生活する地域を超えた大状況としての史実の「森神」の伝承への取り込 み。
④ 国家、あるいは藩の宗教政策の影響

⑤ その他祭祀に直接的に関わる人々の生活史的時間上のできごとの伝承への取  組。 


 翌日9月13日宮沢賢治の童話集を読んでいたら~~「雁の童子」これは巡礼のおじいさんの話、泉の後ろの小さな祠について語る・・須利耶圭と言う人名門の出だがおちぶれて、奥さんと2人写経、機織りをして生活・・従兄弟が鉄砲で雁を撃

つ雁がみるみる燃えて落ちて・・6人は罪があっていま雁の形を受けておりました
私どもは天に帰る、私の一人の孫は帰りません、お育てお願いします。そして引き受けたその子が祀ってある。・・・土地によってはこのような形で伝承されているものもあるかな!と思ったのである。


人生をたのしむ言葉、86歳こころ若く生きる・清川妙

2009-07-20 15:01:57 | 読書
 著者は1921年(大正10年)の生まれである。最初の本は山口の図書館で、2冊目は防府市の図書館で借りた。聖路加病院の日野原先生は1911年(明44年)の生まれである。両人とも山口県の出身である。

 清川先生は下関高等女学校から奈良女子高等師範(奈良女子大)を出られ、母校の下関高女の国語の先生に着任された、その後教職を退かれ文筆活動を始められた。
  万葉集、枕草子、等の講座をもっておられる。徒然草・・の言葉もよく引用されている。
 今日「 学んで楽しんで86歳こころ若く生きる」を読んでいて、花水木についてのエッセイには、偶然 30年前著者がドッグウッドの花咲く丘を訪れた事が書かれていた。

 「風と共に去りぬ」の舞台アトランタ。南北戦争の古戦場に生い茂る木は、弾薬箱や古い大砲をおおうように、花を充ち溢れさせていた。案内してくれた娘さんの言葉が忘れられない。

 「花の中で、ドッグウッドが一番好きです。静かな決意で、大空を下から支えている、優しい中につよさを秘めた花は、スカーレットとメラニーを合わせたような花ですもの」 そんな心も添えて贈られた花と思えば、はなみずき の見どころは

より深くなる。
 このエッセイを読んで、先日小倉に行った時買ったDVD「風と共に去りぬ」~~
 (ヴィヴィアンリーの演じるスカーレット・オハラ)を見たばかりで、本の虫もよくこんな偶然にしんから喜んで書いているのである。

あとがき より 著者自身への答え、読者へのアドバイス

 ① なによりも知的好奇心
 年を重ねてきていても、知らないことは多く、知りたいことは多すぎるほどです。いつも知的好奇心に燃え、すぐに調べましょう。この本の章では、「手の先に辞書」「200パーセントの準備」「振り返り作業」に書かれています。

 ② 感性を磨くことの大切さ
 完成の衰えこそ老化のはじめ。暮らしの中に喜びをみつけるには、ゆたかな感性がなにより必要なのです。「せめて見れば」「エッセイの部屋を閉じた日の最後のスピーチ」「子をほめる」などーまた「感性を研ぎ澄まして・今この時を深く味わう」にまとめた探章のかずかずは、ことにこの想いに根ざして書いています。

 ③ 年齢にしばられないこと
 自分を年齢から解き放ち、人生で今日がいちばん若い日、と自分を励ましましょう。「大間に合い」「「今もなお英語のレッスン」「目覚むる心地」などは力強い応援歌になると思います。

 ④ 思いきって旅も
 イギリスひとり旅の思い出に中に、楽しいエピソード、心に触れたことばなども、いろいろ散りばめました。私と一緒に旅をなさる思いで、アクテイブな生きかたを目指しましょう。

 ⑤ 愛する心こそ、すべての基礎
 「自分を育てあげる」「十六年目」では、人生の途次の忘れ得ぬ出会いを語りました。親友が残した手紙、異国の友の手紙も登場させ、手紙の魅力にも触れました。

 そして、この箇条書きのすべてを結ぶ大事なことは、つづけること。自分をあきらめず、思い捨てず、楽しみながら少しづつ、日々、育て続けていくことです。



 ② 


山嵐   今野敏

2009-07-06 08:23:17 | 読書
 集英社から2000年11月に発行された講道館の創始者加納治五郎と保科四郎の出会いから、四郎の亡くなるまでを描いた小説で会津出身の四郎の生きざまが印象に残った。

活路・北方謙三、世に棲む日日、司馬、大伴旅人、大友家持

2009-07-01 05:24:05 | 読書
 今朝がた活路を読み終えた、阿芙蓉(阿片)を巡り、若き剣士堀田兵庫が事件に巻き込まれていく、数人の刺客が活躍する、幕府中枢の権力争いが事件を引き起こして剣の達人たちが活躍する。
先週から「世に棲む日日」吉田松陰、高杉晋作を扱った小説だが何年振りかで再読した。後半は高杉晋作を中心に書かれている。活躍が生き生きと描かれている。井上馨のことも、湯田には井上家の旧邸あとが公園になっている、傷を負った井上を縫った所幾太郎、七卿の関連の碑文もある。

知られざる王朝物語の発見 ・雨滴抄・山本周五郎・杜甫~

2009-06-07 08:58:43 | 読書
 前月から、杜甫について改めて勉強している。杜甫は、中国8世紀、唐盛期の詩人である。昔から「詩聖」の名を持って呼ばれている。杜甫の詩の発見者元じんという人がいる。杜甫の詩の中には、古来の詩の伝統が、すべて生きて働いているというのである。

 そして杜甫の詩の新しさ、生々しい社会的事象や歴史的事実を取り上げて詩の題材としている。例えば出征兵士の悲しみを歌う「兵車行」の詩である。
 安禄山の乱時の作である「北征」こうしたことの叙述は、従来は賦と呼ぶ韻文と散文の中間にある文学形式でなされた。等興味を持たされた。

〇 知られざる王朝物語の発見  解説 黒川 洋一

 日本に現存する最古の漢詩集である「懐風藻」に詠まれた柘枝伝説の神仙的受容は興味を持って読んだ。「万葉集」の伝承歌と歌垣、菅原道真が取り上げた漢詩の典拠となった話、劉晨と元肇の異界訪問。

 歌物語とその尾根の行方 「たけくらべ」と「伊勢物語」と樋口一葉~~

〇 白州正子の「雨滴抄」を読み直しているといろいろなことを教えられる。鶴川日記に出てくる青山二郎のこと秋の七草に関して詠まれた古歌のこと、柿の木のこと、(隣村柿生、黒柿(黒檀のように硬い))楓のこと、在原業平のこと、琵琶の名手蝉丸のこと等興味は尽きない、何事にも好奇心の旺盛な彼女である。その孫がこの前テレビに出ていた。

〇 山本周五郎の短編の多くは私の生まれた頃書かれたものが多い。昨日日経済に白石とかいう新進の作家が山本周五郎賞を受賞していた、周五郎の与之助の花の短編を読んでいる。面白い、時間が欲しい、ながい坂も読み始めた。

 8月10日周五郎の「菊月夜」を読む、10編ばかりが収められているが、とくに菊月夜の小房の命をかけた生き方には感動した、読み終わった後で主人公の信三郎と絢子が心に期した一生懸命生きよう、とその感動が伝わってくる。

 〇 黄昏近くなった廊下を、しずかに近づいてくる足音が聞こえた。若いはしたの一人が白菊の花束をささげてしづかにそこへ膝をついた。信三郎と絢子はその花を見守った。・・・雪のように清浄な白菊である、むせるほどの香りの高い大輪の

花の中から、一枚の短冊が出てきた。
 〇 心おきなくゆく道や菊月夜     智信  (小房の名であろうか・・)

楽しい古事記  阿刀田高著  角川文庫  H15・18

2009-05-08 19:38:08 | 読書
 イザナギ・イザナミの国づくり、アマテラスの岩戸隠れ、八俣の大蛇。伝説の主役たちが、嫉妬に狂い、わがままを言い、ご機嫌をとる~神々と歴代の天皇が織りなす武勇伝や色恋の数々は、壮大にして奇抜、そして破天荒。古代日本の神様はとても人間的だった。

 古事記の伝承の表と裏をやさしく読み解く。
〇 出久根達郎の後記「まぐはひ」せむも面白かった。!

 古事記の名は知っていても、原文で読んだ方は少ないのではあるまいか~~
 本当の原文は、変体の漢文で記されている。
 上巻の書き出し

 「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神・・・・」
 一行見ただけで、普通の人はうんざりだろう。この訓み下し文はというと、
 「天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、となる。次から次へと神の名が出てくる。・・・

 幸田文、という作家がいる。エッセイスト、青木玉さんの母上である。更に言えば、同じくエッセイストの青木奈緒さんの祖母に当たる。
 文は、明治の文豪、露伴の娘である。「こんなこと」というタイトルで父の思い出をつづっている。その中にこんな話がある。

 女学生の文は、登下校の際に隅田川の堤防工事をしている男たちに、ひわいな言葉を投げつけられる。美人で、目立ったであろう。来る日も来る日も、からかわれる。父に訴えると、こうさとされた。

 「そんなことぐらいでおまえは閉口していては、いまにもし応酬しなくてはならない場合があったら一体どうするつもりでいるんだ」露伴は、こう続ける「きたなく言えば無際限にきたなくなって遂には乱に及ぶ因にもなるのだから、ことばを択

まなくてはいけない、それが秘訣なのだと教えられ、古事記一冊が教科書として与えられた」何と古事記を読みなさい、とこんなところで勧められるのである。

 文もびっくりしたが、父の言葉には素直に従う娘だから、読んだのである。叔父の歴史学者・成友の注釈した古事記である。

 さて、その後日談。相変わらず、文をなぶる助平どもに、彼女は、タンカを切る。「そんなむきつけなことばでなく、もっときれいにお話しになって頂戴。みとのまぐはひとおっしゃいよ」助平どもはあっけにとられている。

 「父は大いに笑ったが、私が古事記からおぼえたものはその一語よりほかないと聞いて、いよいよ大笑いに笑った」みとのまぐはひ、は、原文で「美斗能麻具波比」とある。注釈に、みとは御所で、結婚の場所、まぐはひは、交接の意とある。

旅路の果てーモンゴメリーの庭で 

2009-04-28 15:00:09 | 読書
 人気作家・牧師婦人・優しい母親という役割をすべて果たし、人々に崇拝された「赤毛のアン」の作者モンゴメリー。しかしその人生の内側には、肉親の温もりに欠けた少女時代、愛情薄い結婚生活と夫の病気、愛する者との別れ、そして「アン」を超える作品を生み出せない作家としての苦悩など、希望に満ちた作品世界と

は裏腹な深い<闇>が隠されていた・・・。自立した女性として激動の時代を生き抜いたモンゴメリーの晩年を、ある少女の目から描く、モンゴメリーへの鎮魂歌。
                             (レクイエム)
 著者はカナダ中世西部のサスカチュワン州生まれのメアリー・フランシスコ・コーデイ、西隣アルバータ州育ち、トロント在住、教師や教科書編集の仕事

 ・訳者 田中奈津子  東京外語卒

サムライジャパンに刺激されて

2009-04-24 08:54:21 | 読書
 1テッド・Y/フルモト著 (日系カナダ2世)の「バンクーバー朝日軍」は今年3月に出版された本だが、日系人に対する差別や排斥運動の嵐が吹き荒れていたカナダで人種の違いを超えて、多くの人々を熱狂させた日系人野球チームがいたとは

驚きだった。いまやメジャー入りして数々のタイトルを手にした日本人選手「スズキ・イチロー」をはじめ多くの選手が活躍しているが、戦前にこんなチームがあったとは本当に驚いた。2003年「朝日軍」のカナダ野球殿堂入りが決まった・・

・・生存していたチームメイトは8名だった。

 魚住孝至著 宮本武蔵 ~~「兵法の道」を生きる~~岩波新書

 誰もが知る存在でありながら、じつは信用できる史料が極めて少ない武蔵。小説や伝説に隠されてきた実像はいかなるものだったか。すべての勝負に勝ってなお生涯追求し続けた、「兵法の道」とは何か?新史料も用いながら生涯を追うとともに、極めて合理的かつ具体的に書かれたその思想を、「五輪書」を核に精細に読み解く。

 「五輪書」の思想
 五巻の構成
 武蔵が後世に遺そうとした兵法の道理というものは、いかなるものであったのか。本章では、「五輪書」の内容を全体にわたって精細に読みながら、武蔵の思想を捉えていく。「五輪書」は「地・水・火・風・空」の五巻からなる。

 最初の地の巻に、武蔵は五巻のそれぞれの意味と全体の構成を予めまとめて書いている。これまで書いてきた剣術書の枠を越えて武士の生き方を含む兵法論へと大きく展開したために、五巻を貫くものをはっきり示す必要を感じて書いたものであろう。

 「地・水・火・風・空」は、仏教で言う「五輪」であるが、「五輪書」ではこれとは別の意味で、五つの巻の内容に見合った武蔵独特の意味で用いられている。
「地の巻」は、「直なる道」の地盤を固める巻で、兵法が剣術だけでなく、武士の法のすべてに関わるものであることを述べる。

 「水の巻」は、入れる器に従って変化し、一滴となり、大海ともなる水のイメージによりながら、兵法の道の核であり、さまざまに応用できるものとして、「剣術一通りの理」を説くのである。

 「火の巻」は、小さな火でもたちまちのうちに大きく燃え広がる火のイメージによって、剣術の一での勝負の理が、万人の合戦の場面にもそのまま通じることを示す。

 「風の巻」は、「その家々の風」として、世にある他の流派の間違っているところを書く。

 「空の巻」は、究極では「道理を得ては、道理を離れ」、「おのれと実の道に入ることを、空の巻にして書きとどむるもの也」とまとめている。

 「五輪書」は、以上の五巻により、剣術の理を核として武士のあり方全体にわたる「兵法の道」を示そうとしたものである。

 改めて興味を持って読み進んだ。

 火・風・空の三巻では、武蔵の流派の名称が以前からの「二刀一流」のままであるが、地と水の巻では「二天一流」という新しい名称になっていること、地と水の巻はよく整理されているところから見て、一旦五巻全体を書いてから、地の巻、水の巻に手を加えたと考えられる。

 近代以前の著作で、このように最初にその全体の構成を明確に書いているものは珍しい。この点にも、武蔵の思想の体系性と独創性が表れているといえる。

 1 地の巻ーー剣術一通りにしては、まことの道を得がたし~~
  ・ 「士農工商」それぞれの道~~
  ・ 「死の覚悟」とは~~
  ・ 武士の精神~~
  ・ さまざまな「武具の利」~~
  ・ なぜ剣術なのか~~「兵法の核」~~
  ・ さまざまな「道」~~ 
  ・ 「道をおこなふ法」地の巻末尾には、「我兵法を学ばんと思う人は、道をおこなふ法あり」として次の九カ条を掲げている。

「第一に、よこしまなき事をおもふ所
「第二に、道の鍛練する所
「第三に、諸芸のさはる所
「第四に、諸職の道を知る事
「第五に、物事の損得をわきまゆる事
「第六に、諸事目利きを仕覚る事
「第七に、目に見えぬ所をさとってしること
「第八に、わづかなる事にも気を付くること
「第九に、役に立たぬ事をせざる事」

 まず第一に、邪しまなことを思わず、専門とする道を日々鍛練することが大事である。そして諸芸の道に触れ、いろいろな職の道を知り、広く物事を知ることは、専門の道を追求することにも役立つ。けれども単なる物知りであってはならず、自分にとって実際に役に立つか否か損得を弁え、さまざまなことにおいて「目利」を

して真価を見分けなければならない。目に見えないところをさとって知り、僅かなことにも気をつけ、役に立たないことはしないというのである。

 ここに示された教えは、兵法のみならず、日本の芸道や職人の道などすべてに通ずることであろう。武蔵自身の経験に基づき、しかも「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし」と言い切れる自身もあったゆえ、武蔵は諸道に通貫する道の追求の仕方を、このように明確に表すことができたといえよう。


 〇 最後に兵法の道を追求する心意気を・・絶えず兵法に心を置き、直なる道を努めていけば、「手にて打ち勝ち、目に見る事も人に勝ち」、また鍛練することにより全身自由に動くようになるので、「身にても人に勝ち」、さらに兵法の道に馴れたる心であるから、「心をもっても人に勝つ」。技において人に勝つにみならず、見ることにおいても、身においても、心においても、すべてにおいて人に優るはずである。ここに至れば、どうして人に負ける道があろうか。


 更に続けて大将の「大きなる兵法」では、「善き人を持つ事に勝ち、人数をつかふ事に勝」つまり優れた人材を持つことに勝ち、家臣たちをそれぞれの適所に配して使うことに勝つ。

 そして、「身をただしくおこなふ道に勝ち、国を治ることに勝ち、民をやしなふ事に勝ち、世の例法を行い勝ち、いずれの道においても、人に負けざる所を知りて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也」というのである。

 武蔵にとって、「武士の精神」とは、死の覚悟などではなく、あくまで「すべてにおいて勝つこと」であった。武蔵においては「道をおこなふ法」に掲げられた道の思想と、この武士の精神が、「兵法の道」として独特の形で結びついているのである。

2 水の巻ーー身も足も心のままにほどけたる

  「見るとは思わず、習うと思わず」 
 水の巻は、「兵法の道」の核となる剣の術理を論じる。まず五箇条で術の基礎を論じ、次の八箇条で太刀遣いの理を示し、以下二三箇条で敵と打ち合う実戦的な心得をまとめて書いている。 

  〇 4月26日の読売新聞12版 文化の欄では{本よみうり堂~NONライン倶楽部では「吉川英治の巻」で縄田一男の「武、武蔵に蔵は生きている」が載っていた。

 国民作家・吉川英治に、代表作は多い。鳴門秘帖等の初期作品と、新・平家物語等のせんごの歴史小説の間に位置する記念碑的な作品が「宮本武蔵」だ。

 実際、武蔵に関しては資料面でも不明な部分が多く、今日私たちが武蔵が行ったこととして認識しいているのは、実は吉川英治が書いたことであったりする。

 「宮本武蔵」は、いわゆる”戦時下の文学”として大衆の間に浸透。読者はそのストイックな求道的な生き方に共感を抱きつつ、苦しい戦争を生き抜いたのである。ところが敗戦を迎えるや、一部の知識人たちから、この作品は、太平洋戦争を支えた保守的な価値観や忍従の思想の拠りどころとなったのではないか、と言う批判が起こる。だがこの件に関する限り、一般大衆の方が知識人より、一歩二歩も先を進んでいたというべきだ。

 戦後、作者のもとに読者から届いた手紙には、武蔵ぐらいの心ができていれば、敗戦なんか問題ではありません。日本の建設は武蔵からと申しても過言ではありません。等々の文言が記されていたという。一部の知識人の杞憂をよそに大衆は変わりゆく時代の中で、明日を切り拓いてくれる心の糧として「宮本武蔵」を読みかえていったのである。

 そして今日、私たちは明らかに武蔵 の末裔を見る。たとえば北京五輪で、体力の限界を超え、二日で三試合413球を投げ、日本を勝利に導いたソフトボールの上野由岐子選手の快挙はどうであろうか。加えて、政治の無策、非情にしん吟する中で、今、どれだけの名もなき”武蔵”たちが耐えていることか。「宮本武蔵」は決して古くなることのない小説なのだ。{文芸評論家}