毎年、何十人、何百人という若い方と意見と意見を交換する場面がある。
セミナーであったり、採用の面接であったり、懇親会であったり。
そういった場で、多くの方が言葉にするのが
「自分のやりたいことが見つからない」
という言葉だ。
おそらくこういった「自分自身の人生の浮遊感」といったものは、常に人が抱えているもので、これに関してはひとりひとりが心の中で解決していくしかないようなものなのだろうと思う。
例えば、子供のころからの夢をかなえ、メジャーリーガーになった人間ですら、もしかしたら怪我をして引退を余儀なくされるかもしれないし、不振にあえいで引退を決意しなくてはならなくなるかもしれない。
「自分がやりたいことをやっている」という思いは、相対的なものでしかなく、社会環境の変化や自分自身の価値観の変化によって変わっていくのだろう。
そういう思いを持った人に出会ったときに、「ぜひ、読んでほしい」と勧めているのが、
「知っておきたかったこと--- What You'll Wish You'd Known by Paul Graham」
というエッセイだ。
ネット上のいろんなところに置かれてはいるが、公開可の文章なので、ここに載せておく。
この文章は私も何十回と読み返しており、思うところがあったりする。
続きは次回。
今日はここまで
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知っておきたかったこと
--- What You'll Wish You'd Known
Paul Graham, January 2005
Copyright 2005 by Paul Graham.
これは、Paul Graham:What You'll Wish You'd Known を、原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。
<版権表示>
本和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。
(「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。
Copyright 2005 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/hs.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
<版権表示終り>
このエッセイは、ある高校の講演依頼を受けて準備したものである。その高校のお偉いさん方が反対して、結局私の講演はキャンセルされたのだが。
こんど高校で講演することになったと言ったら、ぼくの友達はみんな興味を持って尋ねてきた。高校生に向かってどんな話をするんだい。だからぼくは逆に聞き返したんだ。君が高校生の時に、誰かがこのことを教えていてくれたらなぁ、と思うことってあるかい。そう聞くと、みんな自分のことを語りはじめたんだけれど、だいたい誰も同じようなことを思っていたんだ。そこで今日は、ぼくらがみんな、誰かに教えてもらいたかったなあと思っていることを話そうと思う。
まず、高校にいるうちは知らなくてもいいことから始めよう。人生で何を為すかってことだ。大人はいつも、君は人生において何を成し遂げたいかって聞くものだから、答えを考えておかなくちゃいけないなんて思っているんじゃないかな。実は大人がこの質問をするのは、単に会話を始めるためなんだ。君がどんな人間かを知りたくて、そしてこの質問をすればとにかく君は何かを話し出すだろう。潮溜りのヤドカリを突っついてどんな反応をするか見てみるのと同じさ。
ぼくが高校生に戻ってこの質問を受けたとしたら、まず何が可能かを学ぶことだと答えるだろう。人生を賭ける仕事を選ぶのに急ぐ必要なんてない。必要なのは、自分は何が好きなのかを発見することだ。上手くできるようになりたいなら、そのことが好きじゃなくちゃだめだからね。
何が好きかを決めるのなんて一番簡単なことだと思うかもしれない。でもやってみると、それはとても難しい。理由のひとつは、仕事で実際にどういうことをしているかっていうはっきりしたイメージを持つことが、多くの仕事では難しいからだ。例えば医者という仕事の実際は、テレビで描かれるようなものじゃない。もっとも医者の場合は、病院でボランティアをすれば本物の医者を見る機会が得られるけれどね [1]。
それどころか、今決して学ぶことが出来ない仕事っていうのもある。今はまだ誰もやっていないような仕事だ。ぼくがこれまでの10年間でやってきた仕事のほとんどは、ぼくが高校生の時には存在していなかった。世界はどんどん変化しているし、変化のスピードも速くなってる。こんな世界では、決まった計画を持つことはあまりうまくない。
それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。コンピュータの世界では、これに名前までついている。「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」
この言葉の真意は、士気を失うなってことだ。他の人に出来ることを自分は出来ないと思っちゃだめだ。それに、自分の可能性を過小評価してもいけない。すごいことを成し遂げた人を見て、自分とは人種が違うと思うかもしれない。しかも伝記ではそういう幻想はますます誇張される。伝記を書く人っていうのは対象となる人物にどうしても畏敬の念を抱くものだし、物語の結末がわかっているからそこに至るまでの人生のできごとをまるで運命に導かれたように、内なる天才が徐々に現れて来るように描きたくなるんだ。実際のところ、もし16歳のシェークスピアやアインシュタインが君と同級生だったとしたら、たぶん彼らは才能を現しているだろうけれど、それ以外は君の他の友達とさほど変わらないはずだとぼくは思う。
こう考えるのは、おっかないことだ。彼らがぼくらと同じなんだとしたら、彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらいすごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。
天才なんてない、って言ってるわけじゃないよ。でも、二つの理論を選ぶときに、一方は怠惰であることを正当化するものだとしたら、たぶんもう一方の理論が正しい。
ここまでで、卒業演説の「夢をあきらめるな」から、「他の誰かに出来たなら、きみにも出来る」が彫り出せた。でもこれはもっと彫り進めることができる。生まれついての能力の差というものは多少はある。過大評価されがちだけど、無くは無い。例えば背が120cmしかない人がいつかNBAでプレーしたいんだと言った時に、本当に頑張れば何でも出来るよというのは空々しく聞こえるだろう。 [2]
だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、泥をかき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。それに、これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?
風上
この問題の解法は、反対側からやってみることだ。ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。
卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより増えるものを選ぶってことだ。
時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。面白いと思えて、選択肢が増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを選ぶかなんて後で考えればいいんだ。
たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと迷っているとする。この場合はね、数学の方が選択肢がひろがるんだ。数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、数学の大学院へ進むのは難しい。
グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、風上に向かって進もうとすると高度を大きく失うことになる。着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。「風上をめざせ」。
でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。
もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。風上を知る方法のヒントをいくつかあげよう。賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。ごまかしがたくさんあるからだ。
大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。教授たちはみんな手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を発表している。でもね、確かに難しい考えがいっぱい詰まっているせいで理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。こんなふうに言うと中傷に聞こえるかもしれないけれど、これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。ある物理学者が、人文科学者の論文には、知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものがしばしばあると考えた。そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、人文科学の学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。
一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。小説を書くことは難しい。小説を読むことは簡単だ。難しいということは、不安を感じるということだ。自分が作っているものが上手くいかないかもしれないとか、自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を感じていないなら、それは難しくない問題だ。ドキドキするスリルがなくちゃ。
ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。不安を感じなくちゃダメだなんて。そうだね。でもこれはそんなに悪いことじゃない。不安を乗り越えれば歓喜が待っている。金メダルを勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。
幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。ただ、不安の中にも、そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。
野望
「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」ということだった。そして、君は今日からそれを始めることができる。ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。
たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと思う。いわゆる現実社会では、この要求はとても強い力なんだ。しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。やらされていることが偽物だからだ。ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の仕事なんだって思ってた。だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、学校でいい成績をあげることだと思ってた。
その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自身に責任を持つということだ。生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。昼間の仕事のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、自分をウェイターだとは思わないだろう [3]。同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。
高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに無駄にしたってね。君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと思っているなら、きっと後悔することになるよ[4]。
これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。ぼくはそうは思わない。高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに「遊んで」いたはずだ。やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。
今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。子供であることに飽きてきたんだ。
友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さなロボットになるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。時々食べるからおいしい。毎食チョコレートケーキを食べていたら、たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。高校で感じる不安感はまさにそれ、精神的な吐き気なんだ [5]。
良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、『課外活動』のことだと思うかもしれない。でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。チャリティの寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、それは難しいことじゃない。何かを成し遂げるってことじゃないからだ。何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、コンピュータをプログラムできるようになるとか、工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。この手の活動は、大学入試願書に一行で書けるようなものにはなかなかならない。
堕落
大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない相手っていうのは、概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、きみの合否を決めるのは教授じゃなくて入学管理者[訳註1]で、彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。きみがどれだけ賢いかなんて彼らに分かりはしない。私立の進学校が存在することが、その証明になっている。
入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。私立の進学校は、入試に受かるための学校であることを明示している。でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、私立の進学校は入試のプロセスをハックできるってことだ [6]。
君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるようになることだと思っているだろうね。でもそれは、自分の人生を空っぽのプロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどのプロセスに押し込めていることになる。シニカルになるのも無理ないよ。君が感じている不快感は、リアリティTVのプロデューサーやタバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。君の場合は給料をもらっているわけでもないのにね。
じゃあどうしようかね。ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。ぼくは反抗した。それは間違いだった。ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、なにか臭いものを感じていた。だから全部投げ出したんだ。世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。
教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、ぼくはこれでおあいこだと思った。そんな授業でいい点数をもらってどんな意味があるっていうんだ。
今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。ただゲームを続けるんだ。
きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。そう、きみが思っているように、授業で習うほとんどのことはクソだ。そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。でも、反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない [7]。だから、ただゲームを続けるんだ。
反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。言われたからただやる、でもなく、言われたからやらない、でもない。かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと考えれば学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを内職しててもいい。
--続く
セミナーであったり、採用の面接であったり、懇親会であったり。
そういった場で、多くの方が言葉にするのが
「自分のやりたいことが見つからない」
という言葉だ。
おそらくこういった「自分自身の人生の浮遊感」といったものは、常に人が抱えているもので、これに関してはひとりひとりが心の中で解決していくしかないようなものなのだろうと思う。
例えば、子供のころからの夢をかなえ、メジャーリーガーになった人間ですら、もしかしたら怪我をして引退を余儀なくされるかもしれないし、不振にあえいで引退を決意しなくてはならなくなるかもしれない。
「自分がやりたいことをやっている」という思いは、相対的なものでしかなく、社会環境の変化や自分自身の価値観の変化によって変わっていくのだろう。
そういう思いを持った人に出会ったときに、「ぜひ、読んでほしい」と勧めているのが、
「知っておきたかったこと--- What You'll Wish You'd Known by Paul Graham」
というエッセイだ。
ネット上のいろんなところに置かれてはいるが、公開可の文章なので、ここに載せておく。
この文章は私も何十回と読み返しており、思うところがあったりする。
続きは次回。
今日はここまで
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知っておきたかったこと
--- What You'll Wish You'd Known
Paul Graham, January 2005
Copyright 2005 by Paul Graham.
これは、Paul Graham:What You'll Wish You'd Known を、原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。
<版権表示>
本和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。
(「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。
Copyright 2005 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/hs.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
<版権表示終り>
このエッセイは、ある高校の講演依頼を受けて準備したものである。その高校のお偉いさん方が反対して、結局私の講演はキャンセルされたのだが。
こんど高校で講演することになったと言ったら、ぼくの友達はみんな興味を持って尋ねてきた。高校生に向かってどんな話をするんだい。だからぼくは逆に聞き返したんだ。君が高校生の時に、誰かがこのことを教えていてくれたらなぁ、と思うことってあるかい。そう聞くと、みんな自分のことを語りはじめたんだけれど、だいたい誰も同じようなことを思っていたんだ。そこで今日は、ぼくらがみんな、誰かに教えてもらいたかったなあと思っていることを話そうと思う。
まず、高校にいるうちは知らなくてもいいことから始めよう。人生で何を為すかってことだ。大人はいつも、君は人生において何を成し遂げたいかって聞くものだから、答えを考えておかなくちゃいけないなんて思っているんじゃないかな。実は大人がこの質問をするのは、単に会話を始めるためなんだ。君がどんな人間かを知りたくて、そしてこの質問をすればとにかく君は何かを話し出すだろう。潮溜りのヤドカリを突っついてどんな反応をするか見てみるのと同じさ。
ぼくが高校生に戻ってこの質問を受けたとしたら、まず何が可能かを学ぶことだと答えるだろう。人生を賭ける仕事を選ぶのに急ぐ必要なんてない。必要なのは、自分は何が好きなのかを発見することだ。上手くできるようになりたいなら、そのことが好きじゃなくちゃだめだからね。
何が好きかを決めるのなんて一番簡単なことだと思うかもしれない。でもやってみると、それはとても難しい。理由のひとつは、仕事で実際にどういうことをしているかっていうはっきりしたイメージを持つことが、多くの仕事では難しいからだ。例えば医者という仕事の実際は、テレビで描かれるようなものじゃない。もっとも医者の場合は、病院でボランティアをすれば本物の医者を見る機会が得られるけれどね [1]。
それどころか、今決して学ぶことが出来ない仕事っていうのもある。今はまだ誰もやっていないような仕事だ。ぼくがこれまでの10年間でやってきた仕事のほとんどは、ぼくが高校生の時には存在していなかった。世界はどんどん変化しているし、変化のスピードも速くなってる。こんな世界では、決まった計画を持つことはあまりうまくない。
それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。コンピュータの世界では、これに名前までついている。「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」
この言葉の真意は、士気を失うなってことだ。他の人に出来ることを自分は出来ないと思っちゃだめだ。それに、自分の可能性を過小評価してもいけない。すごいことを成し遂げた人を見て、自分とは人種が違うと思うかもしれない。しかも伝記ではそういう幻想はますます誇張される。伝記を書く人っていうのは対象となる人物にどうしても畏敬の念を抱くものだし、物語の結末がわかっているからそこに至るまでの人生のできごとをまるで運命に導かれたように、内なる天才が徐々に現れて来るように描きたくなるんだ。実際のところ、もし16歳のシェークスピアやアインシュタインが君と同級生だったとしたら、たぶん彼らは才能を現しているだろうけれど、それ以外は君の他の友達とさほど変わらないはずだとぼくは思う。
こう考えるのは、おっかないことだ。彼らがぼくらと同じなんだとしたら、彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらいすごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。
天才なんてない、って言ってるわけじゃないよ。でも、二つの理論を選ぶときに、一方は怠惰であることを正当化するものだとしたら、たぶんもう一方の理論が正しい。
ここまでで、卒業演説の「夢をあきらめるな」から、「他の誰かに出来たなら、きみにも出来る」が彫り出せた。でもこれはもっと彫り進めることができる。生まれついての能力の差というものは多少はある。過大評価されがちだけど、無くは無い。例えば背が120cmしかない人がいつかNBAでプレーしたいんだと言った時に、本当に頑張れば何でも出来るよというのは空々しく聞こえるだろう。 [2]
だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、泥をかき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。それに、これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?
風上
この問題の解法は、反対側からやってみることだ。ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。
卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより増えるものを選ぶってことだ。
時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。面白いと思えて、選択肢が増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを選ぶかなんて後で考えればいいんだ。
たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと迷っているとする。この場合はね、数学の方が選択肢がひろがるんだ。数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、数学の大学院へ進むのは難しい。
グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、風上に向かって進もうとすると高度を大きく失うことになる。着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。「風上をめざせ」。
でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。
もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。風上を知る方法のヒントをいくつかあげよう。賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。ごまかしがたくさんあるからだ。
大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。教授たちはみんな手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を発表している。でもね、確かに難しい考えがいっぱい詰まっているせいで理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。こんなふうに言うと中傷に聞こえるかもしれないけれど、これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。ある物理学者が、人文科学者の論文には、知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものがしばしばあると考えた。そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、人文科学の学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。
一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。小説を書くことは難しい。小説を読むことは簡単だ。難しいということは、不安を感じるということだ。自分が作っているものが上手くいかないかもしれないとか、自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を感じていないなら、それは難しくない問題だ。ドキドキするスリルがなくちゃ。
ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。不安を感じなくちゃダメだなんて。そうだね。でもこれはそんなに悪いことじゃない。不安を乗り越えれば歓喜が待っている。金メダルを勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。
幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。ただ、不安の中にも、そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。
野望
「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」ということだった。そして、君は今日からそれを始めることができる。ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。
たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと思う。いわゆる現実社会では、この要求はとても強い力なんだ。しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。やらされていることが偽物だからだ。ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の仕事なんだって思ってた。だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、学校でいい成績をあげることだと思ってた。
その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自身に責任を持つということだ。生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。昼間の仕事のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、自分をウェイターだとは思わないだろう [3]。同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。
高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに無駄にしたってね。君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと思っているなら、きっと後悔することになるよ[4]。
これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。ぼくはそうは思わない。高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに「遊んで」いたはずだ。やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。
今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。子供であることに飽きてきたんだ。
友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さなロボットになるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。時々食べるからおいしい。毎食チョコレートケーキを食べていたら、たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。高校で感じる不安感はまさにそれ、精神的な吐き気なんだ [5]。
良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、『課外活動』のことだと思うかもしれない。でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。チャリティの寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、それは難しいことじゃない。何かを成し遂げるってことじゃないからだ。何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、コンピュータをプログラムできるようになるとか、工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。この手の活動は、大学入試願書に一行で書けるようなものにはなかなかならない。
堕落
大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない相手っていうのは、概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、きみの合否を決めるのは教授じゃなくて入学管理者[訳註1]で、彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。きみがどれだけ賢いかなんて彼らに分かりはしない。私立の進学校が存在することが、その証明になっている。
入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。私立の進学校は、入試に受かるための学校であることを明示している。でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、私立の進学校は入試のプロセスをハックできるってことだ [6]。
君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるようになることだと思っているだろうね。でもそれは、自分の人生を空っぽのプロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどのプロセスに押し込めていることになる。シニカルになるのも無理ないよ。君が感じている不快感は、リアリティTVのプロデューサーやタバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。君の場合は給料をもらっているわけでもないのにね。
じゃあどうしようかね。ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。ぼくは反抗した。それは間違いだった。ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、なにか臭いものを感じていた。だから全部投げ出したんだ。世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。
教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、ぼくはこれでおあいこだと思った。そんな授業でいい点数をもらってどんな意味があるっていうんだ。
今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。ただゲームを続けるんだ。
きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。そう、きみが思っているように、授業で習うほとんどのことはクソだ。そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。でも、反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない [7]。だから、ただゲームを続けるんだ。
反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。言われたからただやる、でもなく、言われたからやらない、でもない。かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと考えれば学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを内職しててもいい。
--続く