思いつくままに

思いつくままに日々のあれこれを綴ります。

支持率

2016-10-29 04:17:29 | 日記
Essay-15 10/29 支持率

10月18日に行われた、第3回目の大統領選討論会も終わり、いよいよ11月8日の、選挙戦を待つばかりになった。 この3回,総ての討論会でクリントンの勝利という評価で終わり、支持率の差も、4%から更に広がり一部報道では、12%の差がついたとのこと。これではもう勝負あったといわねばならない。両候補の執拗な個人攻撃に終始した討論会だったが、二桁の差を聞くに至っては、もうこれ以上のスキャンダラスな個人攻撃は聞きたくない。えげつないという言葉があるが、アメリカ人も辟易としているだろう。尤もこの支持率については、以前から違和感を感じている。もともと支持率とは一つの統計理論から出された数字に過ぎないが、出てくる数字にかなり差がある。アメリカのTV局の数字でも、両候補の支持率の差が、下は4% から 上は8%が差あり、3回目の討論後は最大12%の差が生じたTV局と、いやまだ4~5%だと主張する局もある。 

日本においても、第2次安倍政権の支持率ではTV局4社の数字が最大16%の差が生じたこともある。 同じ方法で無作為に抽出した人々の賛成、反対を数字化する作業で、どうしてこのような差が出るのかわからない。アメリカの場合、各州により、共和党、民主等の識別が大きく、仮に州ごとの支持率であれば、かなりの差が生じることも理解できる。A局は民主党寄り、B局は共和党寄りだから、出てくる数字もそれが影響されているともっともらしい批評もある。 仮にそれが正しいとすれば、マスコミによる操作だが、それは許されないだろう。いずれにしても、その影響はすこぶる大きい。どちらか迷っている有権者にとり、最終的な投票の決定に支持率は大きな影響を与えるからだ。尤も反骨精神のある人は、かえってその支持率に反対投票する人もあるかもしれないが。 とにかくその影響は大きく、マスコミの意向(操作)が入っていることは、許されない。あまり気にしないようにするものの、数字は頭に残っている。

今後は予想どうりクリントンが勝利をするだろう。そして世界で一番実力を有するアメリカ大統領が誕生するのである。それでいいのだろうか? 納得できない人も多いだろう。8年前にオバマが選出された時、個々の問題点を指摘された事はあった。しかしオバマの人間性を疑う一般市民はほとんど見られなかった。しかしクリントンはどうだろう。彼女の信頼性に、(?)を投げかける国民が多いという不思議な大統領になるわけで、その先の運営に興味が持たれる。拒否権という絶大な天下の宝刀をもち、名実共に世界の将来をを牽引する立場にある人間である。深い洞察力とともに、何より大きな徳性を感じさせる人であらねばならない。人間性を疑われる大統領に、世界がついて行くのだろうか?

ひるがって、日本の総理大臣はどうだろう。2007年から毎年新しい総理大臣が、2年生に進級する事もなく、交代していった。安倍、福田、麻生、鳩山、官、野田。そして安倍政権の再浮上。当時、日本の総理大臣の名前を知っているアメリカ人が何人いただろう。尤もそういう不安定の政治の中においても、日本の政治が転覆することも無く続いていったということは、日本がそれほど安心、安全な国にであるとの証明なのかもしれない。今3年以上続く安部政権に多くの国民にがほっとしている。少しでも永く安倍政権が続いてほしい.. と思っているのは私だけであろうか。

さて、アメリカの大統領選は直接その大統領の名前で選挙され、各州ごとの選挙人の獲得数により決定されるが、一般市民の民意が反映され、その後の市民生活に大きな影響を与えることは確かだ。30年近いアメリカ生活を通じて、大統領の力の大きさ、そしてその影響力の大きさを大いに感じさせられた。従って市民の熱意も相当なもので,皆良く勉強している。 日本の場合はどうだろう、仮に自民党の小泉進次郎を総理大臣になってほしいと思っても、それ相当の年月と、それ相当の階段をのぼらなければならない。最低でも何度かの大臣経験が必要であり、党3役の一つでも経験したものが、到達しうる最後のポストなのである。しかし新次郎の時が来たと思ったとしても、その時の自民党政権が人気が無ければ、他党に持っていかれる。実に天の配剤がなせる業なのである。 小泉進次郎は若くそして弁舌さわやかな政治家で、その将来に期待しうる人物だと思う。政治学、経済学、国際学、その他等等、そして政治の世界の韜晦術を学ばねばならない。その韜晦術に慣れて、人間が練れてくるという人もいるが、その間にいい加減な妥協の人にならないでほしい。 血と涙、そしてなにより人情の人であってほしい。徳の人であらねばならないのはいうまでも無い。

映画、ゴジラを見て。

2016-10-16 09:58:46 | 日記
Essay-14 10/16ゴジラ映画をみて
過日、家族4人で久しぶりに映画を見にいった。 日本ですでに公開され、評判の良いシン、ゴジラという映画だ。ゴジラの歴史はふるく、第1作は1954年制作で、私が生まれて2年後との事。その為かはわからないがゴジラは私にとって懐かしい映画の一つだ。ゴジラのあの叫び声は毒々しく、しかしどこか哀愁を帯びており、私の子供時代への懐かしさの呼び声でもある。その声を聞くたびに私の子供時代がなぜか髣髴される。 何時、誰とゴジラを見に行ったのは思い出せないが、強烈な思い出がある。ゴジラが出るまでの不気味さ、そしてその大きさ、町を自由自在に破壊する力に、感動したのを覚えている。特撮という言葉が流行ったのもゴジラだったと思う。その後は、数作続編を見に行ったが、内容はほとんど覚えていない。代1作のゴジラが、あまりにも刺激に満ちていたのだろう。 社会人になると、ゴジラも随分変わったなという程度で関心もなくなった。そして1998年アメリカ版ゴジラが上映され久しぶりに見に行った。ゴジラの上陸場所が、N,Y であり、全く以前と異なったゴジラの様相であった。まさにトカゲが進化した巨大でスピーディーなゴジラであり、それなりに面白かったが違和感を覚えた。そうそう、松田聖子が日本からの旅行者役で出演していた。また、2014年は渡辺健が博士役で出たゴジラがあった。 これもそれなりに面白かったが、内容はほとんど覚えていない。そして今回は、久しぶりの日本製の映画である。今までのゴジラとは違うとのことで、興味ぶかい。

夕方のラッシュを考慮して家を出たが、7時過ぎには映画館に着いた。大きくて立派な映画館で座席のすわり心地もなかなかよい。すでに数十人が入っており、平日7時半という時間帯にしては、まずまずの人気振りといえよう。家内の知人であるマイクも既に来ていた。彼は30台半ばのアメリカ人で、6フィート2,3インチはある大男だ。若い時からゴジラの大ファンで、ほとんどの映画をみているという。その為に日本語の勉強し、日本語は流暢に話す。日本でゴジラの映画を見たこともあり、ゴジラに関する本も持っているとの事。彼はゴジラの絵がらの法被を着て、興奮気味に開演を待っていた。  

さて、その映画だが、突然、東京湾に原因不明の爆発(?)が発生したと思われるシーンから始まる 総理大臣を初め関係閣僚が集まり、対策を協議するのだが、その正体が特定できずに進める会議が面白い。議題に関わりがありそうな各省のトップが、答弁に経つのだが、前例の無い事象(この言葉は最近良く使われる)の対処に関して、責任逃れの回答に近く、たらいまわしになる。最後には総理の判断が迫られ、決められていくが、総理の決定もその成り行きで進行しており、責任ある決定と呼ぶのはいささか遠い。それでも、テンポの速い会議にユーモアを感じる。会議の終わりの段階で、市民が取った現場のビデオのなかに、何か生物の尻尾のような映像が映り、その正体がいよいよ不明になるが、最終的に有害鳥獣駆除という名目で方針が決定する。ゴジラであることを知っている観衆(我々映画を見ている人々)になんとも可愛い有害鳥獣駆除を持ち出してくるところも愛嬌があって面白い。

中盤になって、この巨大生物の(この時にはゴジラと呼ぶことになっているが)活動の源が原子力ではないかとの疑いがあがり、その攻撃方法について、日本一国では決められず、アメリカを始め国際レベルの問題として対処することになる。有事における安全保障の問題となってきた。

またこの生物の残骸を、アメリカがほとんど独占して持ち帰るという話もでてきて、日本がいまだにアメリカの管理(保護)の下にいるということを印象つけている。最後にゴジラを殺す方法として、冷凍にする方法が決定するが、その為の液剤の製造期日とアメリカが要求する核攻撃のリミットとの時間の戦いになる。
その核攻撃の決定に対して、日本人の主人公は、核攻撃もやむなしとの考えにいたるが、日系2世のアメリカ人高官が、核攻撃を今回行えば、日本での3回目の核使用となる、とつぶやくシーンが出てくる。なるほど日本は世界で唯一の被爆国であることを再認識させてくれる。

アメリカ人は映画が面白くないと、その時点で映画館を出て行く。過去に幾度かそういう光景をみてきた。 しかしこの映画では私の前に座っていた、50台の男性が途中で退席し戻ってこなかったが、それ以外は途中で退席する人はいなかった。 70名前後いた歓客でその7~8割がアメリカ人だったとおもうが最後まで観戦していた。
政治的な発言で、日本がいまもなをアメリカに支配されている。また3回目の原子力仕様になるなど、アメリカ人がどう見たかは興味深い。因みに終わった時点で我が家の4人の感想は、大変面白かった、色々考えさせられる映画だったと評価は高かった。ゴジラおたくのマイクも、すごく面白かったとのことで、眼鏡のおくの瞼が、ニコニコしてた。ただしアメリカを批判した何箇所は面白くなかったとの事。その辺を詳しく聞いてみたいと思ったが、彼は大興奮の様子で、早速違う日に違う映画館でゴジラを見に行くとの事。 ここオレンジ、カウンティーでの公演は1週間しかないが、もう少し多くに人の見てもらいたいと思った。

話しは戻るが、ストーリーの展開や見事な特撮に見入っていたが、後半、ゴジラに対する自衛隊の攻撃が始まると、例の音楽が力強く始まった。あーこれこれ、この音楽だと嬉しくなり高揚した。これはまさに子供の時に興奮したあの感覚だ。音楽がその時代を彷彿させる。そこには60代の私ではなく、まさに子供の自分がいたようだ。懐かしさの原因はこの音楽にあったのだといまさら感心した。私は映画が好きで、親父からは日本映画、お袋からは西洋(特にアメリカ映画)の影響を受け、若い時は映画通を持って自認していた。しかし海外に出て35年、時々映画を見ているが、何せ言葉のハンディは避けられない。言葉の分からない場面はその前後から推察するしかない。それで映画好きの私も、時々映画を見る程度になり感動することも稀になった。だが昔見て感動した映画にはそのシーンを思い出させる音楽が必ずある。いわゆる映画音楽で、それを聞きに喫茶店に良く行ったものだ。ゴジラ映画を見たいと思ったその原因の一つがこの音楽にあったのだと再確認した。もう一回見たいなと思うのであるが、家内からは無視されている。

アメリカの新聞

2016-10-01 15:17:51 | 日記
Essay-13 10/1/2016 アメリカの新聞

毎朝、アメリカの新聞、(Los Angeles times, New York times)を読んでいる。読むといっても見出しを注意して眺める程度だが、日本に関する記事があれば一読する。そんな習慣も永いが、最近は日本に関する記事がほとんど見あたらない。 昔といっても20~30年前だが、それでも日本の記事はそれなりに掲載されていた。ひとつにはGDP 世界第2位であったこと自体が、それなりのNEWS VALUE を持っていたのだろう。政治記事もわずかながら載っていたように記憶するが、大半は経済記事で、他に文化、食べ物の記事も載っていた。日本特有の伝統、習慣に関する文芸記事も時々掲載された。それ等は経済記事を除き、世界の動向に影響を与える報道ではなく、珍しさという感覚で紹介されており、一種新聞上のスパイスという感覚だったと思う。

ところが2010年、中国が日本を抜いてGDP第2位になると、新聞紙上でも、中国が日本に取って代わった。また、その後の中国の世界各地における摩擦が明らかになるに付け、中国に関する記事が賑わってきた。日本の記事はほとんど見られない。

さて、9月20日、21日、22日と安部首相が訪米、国連での演説、そして大統領選たけなわのヒラリーと会合するというので、それなりの記事が掲載されると期待していた。しかし両紙を見たが、一切報じられていない。もっとも私の見落としかもしれないが、アメリカ在住の私としてはさびしい限りである。 日本では2000年代初頭の小泉政権以来、ある意味で力を持っている安部政権だと思うが、そんな総理でも取り上げられない。これが日本に対するアメリカの評価である。

特にヒラリーとの会議は、ヒラリーが安部首相をどうこの選挙戦に利用するのか、と期待していたが、それすら1行も見られなかった。News value に値しないのだろう。ひ弱な日本、北朝鮮に多くの人間が拉致されるという暴挙に対して、経済的制裁しか出来ない我が国だが、独立国として、海外的に認知されていないということか? 一国の首相が3日間訪米しているのだから、何がしのコメントがあってしかるべしと思うのだが?
GDPで2位の地位に落ちたのは、総人口のなせる技とはいえ、技術大国であるという日本の評判も落ちようとしているのは、いただけない。尤もサムソンが日本の技術を凌駕したとは思わない。しかし、いいたい放題の韓国に対し、常にアメリカに遠慮している日本。詳細を知らないアメリカ人は技術力さえ、韓国に抜かれてしまったと思っている人も多い。日本が思っている程、アメリカ人は日本の事情をしらずにいる。

さて、変わって翌週9月26日は、ヒラリー対トランプの第1回目の討論会が有った。
これは、今年初めから始まった選挙戦の一つの山場ということで、全米で8400万人がテレビを見たとのこと。結果は大方の予想どうり、準備万端用意したヒラリーが勝利したようだ。俺の力でねじ伏せてやるとでも思っていたトランプは、無手勝流にも似て、臨んだが、ヒラリーからの挑発に乗って、自らのイメージを下げてしまった。。CNN はヒラリーの勝利(62%対27%)と翌日の新聞に記載された。タイムスはわずかながらトランプの勝利と書いていたが、見方の違いがあっておもしろい。しかし何を判断するのかというと、個々の政策での比重は少なく、言わば取るに足らない要素を含め数え上げての評価であり(笑顔の有無、話の途中で邪魔をした、服装がどうだった、目がどうこう動いた、等) あらゆる要素を分析、そして総合判断するアメリカ式の採点法に興味を覚え、同時に失望した。柔道の1本勝負にたいして、有効、技あり、云々の小手先の形に変わってしまったようだ。

しかしこの討論会までの世論調査で2%程度、ヒラリーがリードしており、いまだ投票者の2~3割がその態度を決定していない段階で今回の討論会に占める比重は大きい。
しかし両氏の政策云々より、このような判断で世界のリーダーが決められると思うと、怖くなる。なにかスポーツの中継をしているようだ。

そのそも、我々日本人は、単一人種、共通の文化、宗教、習慣でなりたっている。そして多くの言葉を必要としない。それに反して異文化、異人種の間で、相手を論理的に納得させる為の討論が必要なアメリカとは、発想法が異なるのだ。それゆえ我々日本人は討論会そのものに対して不慣れである、また、日本人の気質として、あいつは口舌の徒であるとか、沈黙は美徳である、はたまた男はだまってサッポロビールなんて宣伝もあったが、議論で相手を言い負かすという文化はそれほど重要視されていない。 腹芸、阿吽の呼吸とう言葉さえある。これは多くのアメリカ人には理解されないだろう。

アメリカで育った私の子供立ちは、顔は日本人であれ、アメリカ人である。言葉の問題もなく、白、黒の観点から物事を論理的に判断する思考方法は、論理的でアメリカ的である。(こういうと怒られそうだが)そしてわかり易い。 日本人の判断には、その白黒を見る場合、人間そのもののグレーゾーンを考慮する。時には正しく、また時には悪事も起こしうる人間を、単純に白黒判断する事は難しい。従ってあいまいな結果になることも多い。故に私の考えと子供たちのそれは根本的に違う点もある。ただ3人とも大学を卒業して各々アメリカ社会で仕事をもっており、独自に生計を立てているので、私も意見を挟む事はまれになった。私の知らない苦労をしているのだと理解して彼らの生き方を尊重しいる。ただ救いは子供たちが父親である私の考えを一つの考え方として、理解しようとしている事である。ふーン、こんな考え方もあるんだ、と言う顔で私の考え方を聞いてくれる。それでよいと思っている。参考にしてくれれば良い。

話は戻るが、ヒラリーが女だから、私の見方は偏重していると、身内から言われる。
そのような意識が働いているのは否めない。討論会でのヒラリーの態度、とくにどや顔した彼女の笑顔に素直に喜べないのだ。そこになにか人間の大きさ、徳の表れを感じられない。まして相手を立てるなどは微塵もない。討論会なのでそれはやむをえないのだが。。やはりこれは好き嫌いの問題で、私は好きになれないのである。ちなみに違う女性が立候補した場合はどうだろう。 それは見てみなければ分からない。性別に関係なく支持するかもしれない。 因みにヒラリーに対してマイナス点を数えるが、トランプ氏に対しては、全くお話にならない。人間としてどうかと首をかしげることも多い。しかし、アメリカ人にとって、我々日本人が重んじる、礼節、寛容、高潔などいわゆる徳のある人は求めれる重要な要素ではないようだ。この人が大統領として何ができるか、私達に何をしてくれるだろうかのほうが重要なのだろう。 世界一の実力者としてのアメリカ大統領には、アメリカのみならず、世界規模の視野にたって、何がこの地球にとって大切なのかを十二分に問い詰め、物事を大局的に判断するという大きな人間であってほしいと思うが、もっと身近な問題に如何に対処してくれるかが、問題なのだろう。

人をしてよらしむべし。との言葉がある。あの人のいう事であれば、たとえ結果として間違っていたとしても、私は付いていく。というのがその概略であるらしい。しかし過半数の国民から信用されないといわれている両氏に黙って付いていくというには無理がある。どちらが大統領に選出されようとも、そのアドバイザーの動きを含め、上院、下院の理性ある討論で大統領を正しい選択に導かなければならない。

最後に今回の選挙、ヒラリー、クリントン、いずれか二人のなかから大統領を選ばなければならない。 これはきわめて難しい選択となる。 私は何時もは決断の早い人間だが、今会は11月8日の投票日まで、私も優柔不断にまだ残る選挙戦に注目していきたい。ほとんど気持ちはすでにどちらか一方に片寄っているが。。