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DAY by DAY

日々の出来事、覚書

11月13日-2

2023-11-13 22:46:57 | 日記

11月12日Part2

メモ、続き。

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下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。

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1985 - 南米コロンビアネバドデルルイス火山噴火

火山泥流で死者25千人。

オマイラ・サンチェスの悲劇が世界に衝撃を与えた。

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ネバド・デル・ルイス火山

コロンビア・カルダス県のアンデス山脈中にある活火山。

 

別名ラ・メサ・デ・エルベオ地元インディヘナの言葉でクマンダイとも呼ばれる。

 

同国の火山の中で最も北に位置し、赤道直下ながら山頂付近は雪に覆われており、

噴火のたびに融けた雪と火山噴出物による泥流(ラハール)が発生する。

 

1985年の噴火による災害アルメロの悲劇以降、近隣の住民から火山は「眠れる

獅子」と呼ばれるようになった。

 

1985年の噴火

過去に1595年と1845年に大噴火し、ラハールによりそれぞれ636人、約1000人

の死者を出していたが、1985年当時トリマ県アルメロの街は、1845年のラハールに

よる堆積物の上にあった。

 

1984年11月、ネバドデルルイスは約140年ぶりに噴火活動を開始。

翌1985年9月11日、水蒸気爆発によりラハールが発生して西側斜面を27km流

下した。西側にはマニサレスという人口約35万人の都市があったが、水系が異なる

こともあり被害は受けなかった。

 

10月7日、コロンビア国立地質鉱山研究所がアメリカの火山学者の指導の下にハザ

ードマップを作成・公表し、地方自治体や関係諸機関に配布したが、噴火が一時沈静

化していたことなどからほとんど評価されなかった。

 

アメリカ地質調査所(USGS)は新たに火山性地震の専門家を現地に派遣しようとして

いたが、コロンビア最高裁占拠事件の影響で中止された。

そして11月13日15時過ぎ、本格的な噴火が起き、21時頃に最高潮に達した。

 

噴火自体は「やや大規模(火山爆発指数3)」という程度のものだったが、この際発生

した火砕流により雪や氷が溶け、東側斜面に大量のラハールが発生した。

流下するラハールは最大幅50mに及び、発生から2時間半で100km以上の距離

を流下して麓のアルメロを直撃した。

 

その被害は甚大で、人口28,700人の約4分の3にあたる21,000人が死亡した。

これを含め噴火による被害は死者23,000人、負傷者5,000人、家屋の損壊

5,000棟となり、20世紀における火山噴火で2番目の被害者を出した。

(第1位はプレー山の噴火(1902年、約30000人))

 

生還を果たした人たちによると、再度の噴火の可能性等の警告が行われたが、以前

から偽情報が多く流れていたため、あまり聞き入れられなかった。さらに、市民のパニ

ックを恐れた市長(被災により死亡)がラジオで「噴火はない」と終始放送を続け、その

日の祭りのために近隣の住民が駆けつけたことも被害を大きくした。

 

このことから、2008年2月12日にUNESCOは国際惑星地球年の一環として、

「正確な知識の不足と情報伝達の不備による世界最悪の人災による悲劇」のワース

ト5の一つとしてこの噴火災害を認定している。

 

被災した市街は、1990年代の中頃になっても6m以上の火山灰や瓦礫に埋もれた

ままで、簡素な野生動物除けのフェンスに囲まれ小さな木が育ち始めていた。

地元の住民が建築資材として付近の石材を採取するたびに犠牲者の遺骨が見つか

り、この地に点在する霊廟へと納められた。

 

現在、アルメロの街は被災地の北約8kmに移転しており、旧市街地は再建されるこ

となく墓地として保全され、今でも多くの遺体が眠っている。

この災害の復旧には、その年のコロンビアのGNPの約20%にあたる77億ドルが

費やされた。

 

救援活動

この災害でアメリカは100万ドル以上の援助(現在の価値で240万ドル相当)を費

やし、コロンビア駐在の米国大使Charles S. Gillespie、Jrは25,000ドル(60,000

ドル)をコロンビアの災害援助機関に寄付した。

 

アメリカ合衆国国際開発庁(AID)はUSGSの職員1人とAID災害救援の専門家

およびパナマからの支援と医療関係者、12機のヘリコプターを派遣した。

その後、米国はテント500、毛布2250枚、テント修理キットと追加の航空機および

支援物資をコロンビアに送った。

 

エクアドルは移動病院を派遣し、アイスランドの赤十字は4650ドル(11,200ドル)

の義援金を送金した。

フランスは1300のテントと医薬品を送った。

 

日本は125万ドル(現在の価値で301万ドル)と8名の医師、看護師、技術者、

さらに50,000ドル(123,000ドル)を国連を通じてコロンビアに送った。

ライオンズクラブは50,000ドル(123,000ドル)を寄付した。

 

24の国が災害の生存者の救助と支援に貢献した。

 

犠牲者

1985年の噴火では、アルメロの人々が火山灰の泥濘に埋もれ身動きが取れなく

なり、救助も行えないまま多くが死亡した。中でも、13歳の少女オマイラ・サンチェ

スは下半身が水中で挟まり、首と手だけが水の上に出た状態で救助を待ち続けた

が為す術がなく、3日後の11月16日に衰弱死した。

 

救助を待つサンチェスの写真と息を引き取った後水の中に沈んでゆく映像は世界

中に報道され、災害の衝撃と悲劇を伝えた。

 

 

オマイラ・サンチェス・ガルソン

1972年8月28日 - 1985年11月16日。

ネバドデルルイス火山の噴火により、トリマ県のアルメロで死亡した当時13歳の

コロンビア人女性である。

 

困難な救出活動

オマイラ・サンチェスは、父親のアルバロ・エンリケ・サンチェス、母親のマリア・ア

レイダ・サンチェス、兄のアルバロ、叔母のマリア・アデラ・ガルソンと一緒に暮らし

ていた。

 

噴火前、彼女の母親は仕事で首都ボゴタに行っており不在だった。

災害の夜、サンチェスと彼女の家族は、泥流が近づく音を聞いた時、噴火による降

雨を心配して目を覚ましていた。サンチェスは自宅のコンクリートや他の破片の下

に閉じ込められた。

 

救助隊が彼女を助けようとしたが、彼らは彼女の足が彼女の家の屋根の下に閉じ

込められていることに気づいた。

 

災害が発生してから最初の数時間、サンチェスの体はコンクリートに覆われていた

が、救助者は、彼女の手が瓦礫の山から突き出ているのに気づいた後、1日のうち

にタイルと木材を取り除いた。

 

救助隊は彼女を引き抜こうとしたが、その過程で、彼女の足を骨折させずに引き抜

くのは不可能であることが分かった。救助者が彼女を引っ張るたびに、水が彼女の

周りに溜まり、彼女を手放すと溺れる可能性があったので、救助隊員は彼女を浮か

せるために彼女の体の周りにタイヤを置いた。

 

ダイバーは、サンチェスの足がレンガとドアの下に引っ掛かり、叔母の遺体の腕が

彼女の足をしっかりと握っていることに気づいた。

 

非常に困難な状況の下で、サンチェスの救助活動は60時間にもわたって続けら

れた。足と腰を瓦礫に挟まれ、泥水に浸かったままの状態で、サンチェスは冷静

さを失わなかった。

 

サンチェスはボランティアで救助活動に参加していたジャーナリストのヘルマン・

サンタマリア・バラガンのインタビューを受けた。救助隊員は歌が好きなサンチェ

スのために歌を歌いながら作業を続けた。

 

サンチェスは甘い食べ物を求め、ソーダを飲んだ。時々、彼女は怖がって泣いた

り、祈ったりした。

 

災害から3日目の夜、サンチェスは「学校に遅刻したくない」と言って幻覚を起こ

し始め、数学の試験について語った。サンチェスの目は赤くなり、彼女の顔は腫

れ、手は白くなった。

 

サンチェスは死を覚悟したのか、救助隊員に現場から離れるよう懇願した。

「おじさんたちも疲れたでしょう。少し休んでちょうだい」。

 

泥沼と化した現場の地盤は非常に不安定であり、瓦礫を撤去するための重機を

現場に搬入することも不可能であった。水位を下げるためのポンプが現場に到

着した時、サンチェスはほとんど死にかけていた。

 

彼女の足は、ひざまずいているかのようにコンクリートの下で曲がっており、彼女

の足を切断せずに彼女を解放することは不可能であった。

切断手術を行うための医療器材は不足しており、また、水中で足を切断すれば

出血が止まらなくなるおそれがあったため、救助活動に参加した医師たちはサ

ンチェスを安楽死させる方がより人道的であるとの結論に達した。

 

サンチェスは11月16日の午前10時5分ごろ、壊疽または低体温症により

死亡した。

 

サンチェスの兄は災害を生き延びた。

彼女の父と叔母は亡くなり、ボゴタにいて難を逃れた彼女の母親は語った。

「それは恐ろしいことですが、私たちは生きることを考えなければなりません

...私は指を失っただけの息子のために生きます。」

 

サンチェスの死はコロンビアのみならず世界中に衝撃を与えた。

3日間に及んだ救助活動の一部始終はマスメディアによって全世界に報道された。

コロンビア政府はサンチェスの死に対し、国民に3日間の服喪を呼び掛けた。

 

ボランティアの救助隊員はシャベル、切削道具、担架などの基本的な装備が不足

しており、ラジオは全国放送で必要な物資の提供を呼び掛けていた。

長年にわたる内戦のためコロンビアは国情が不安定であり、コロンビア政府は反

政府軍との戦闘に追われていた。

 

不十分な消防体制がサンチェスを死なせたのだ、という批判に対して、コロンビア

の国防大臣ミゲル・ウリベは「コロンビアは、そのような装備を備えていない」

「未開発国だ」と述べた。

 

死後の影響[編集]

11月15日、コロンビア入りしたフランスのフォトジャーナリスト、フランク・フルニエが

「オマイラ・サンチェスの苦悶」と題してサンチェスの死の直前に撮影した写真は、

世界中の報道機関に掲載された。

後に1986年のワールド・プレス・フォト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

 

サンチェスは音楽、文学、記念記事などを通じて、大衆文化の中で不朽の存在となっ

ている。2008年、チリのパンク・ロックバンドは「オマイラ・サンチェス」を名乗った。

チリの作家イサベル・アジェンデの短編小説「AndofClayAre We Created」(「De

barro estamos hechos」)はサンチェスの悲劇をモデルにしている。

 

アジェンデは「彼女(オマイラ・サンチェス)の大きな黒い目は、まだ私の夢の中で私

を追いかけている。物語を書くことで彼女の幽霊を追い払うことができなかった」と

述べた。

 

このような災害の繰り返しを防ぐために、コロンビア政府は「DireccióndePrevenciónyAtencióndeDesastres(防災および準備局)」として知ら

れている「Oficina NacionalparalaAtencióndeDesastres(災害対策のための国立

事務所)」を創設した。

 

すべてのコロンビアの都市は、自然災害対策の計画を立てるように指示された。

 

アルメロの悲劇の地で見つかったコオロギの種は、2020年に新たに記述され、オマイラ・サンチェスを記念してGigagryllus omayraeと名付けられた。

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1990 - 新潟少女監禁事件新潟県三条市で少女が誘拐され、

92ヵ月後の2000128に発見・保護される。

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新潟少女監禁事件

1990年(平成2年)11月13日夕方に新潟県三条市の路上で、少女A(当時9歳

・小学校4年生)が男Sにより誘拐され、約9年2か月間にわたり同県柏崎市四谷

一丁目の加害者宅2階の一室に監禁された事件。

 

柏崎女性監禁事件三条市の女性監禁事件と呼称される場合もある。

 

約9年2か月後(3,364日後)の2000年(平成12年)1月28日、加害者である

男S(当時37歳)の母親から「息子の家庭内暴力に悩んでいる」と相談を受けた

医師や保健所の職員らが、男を強制入院させるために現場の住宅を訪れたところ、

同宅2階(男Sの部屋)で、19歳になっていた被害者少女Aを発見・保護した。

 

新潟県警によって逮捕された加害者Sは、被害者少女Aを誘拐して自宅に長期

監禁したとして、未成年者略取・逮捕監禁致傷罪で起訴されたほか、Aの監禁中

だった1998年(平成10年)10月上旬にAに着せるための衣類を万引きしたと

して、窃盗罪でも追起訴された。

 

刑事裁判では、被告人Sの量刑と、それに影響する併合罪の解釈をめぐって最高

裁まで争われたが、2003年(平成15年)に最高裁で懲役14年の刑が確定。

千葉刑務所に収監された受刑者Sは、2015年(平成27年)4月に刑務所を出所

したが、2017年(平成29年)ごろに千葉県内で病死した。

 

監禁期間が約9年2か月という長期にわたっていたことや、事件に関わる新潟県

警の捜査不備・不祥事(#新潟県警の不祥事を参照)が次々と発覚したことなどか

ら社会的注目を集めた。

 

また、犯人が長期の引きこもり状態にあったことから、同様の状態にあった男が同

年(本事件発覚後)に起こした西鉄バスジャック事件とともに、引きこもり問題の社

会的認知度を大きく高めた事件ともなった。

 

新潟県の県紙『新潟日報』(新潟日報社)は、2000年の「県内10大ニュース」の

1位および、「国内10大ニュース」の8位として、本事件とそれに関連する県警

の不祥事を選出したほか、第一審・控訴審の判決が言い渡された2002年(平成

14年)には「県内10大ニュース」の6位として本事件を選出した。

 

事件当事者のその後

三条市教育委員会は2000年3月16日、被害者女性Aの社会復帰を支援する

ための募金窓口「三条市愛の支援募金」を三条郵便局に開設し、同年5月末まで

に1,563件、2002年1月18日までに2,017件の募金(額は非公表)が全国か

ら寄せられた。

 

少女Aの保護から1年10か月後の2001年12月1日に『新潟日報』が報じた

記事では、「被害者少女Aは事件後成人式に出席したほか運転免許を取得し、

家族と新潟スタジアムへサッカー観戦に赴いたり家族旅行に出かけるなど、日常を

取り戻しつつある」と伝えられている。

 

また『週刊新潮』は2010年末、Aの祖母の「Aは現在は元気になって学校にも通っ

ているが、現在も事件のことを考えると気がおかしくなると言っている」という旨の

証言や、近隣住民の「たまに散歩しているAの姿を見るが、カメラが好きなのか田

んぼの花を一生懸命撮影するなどしている」という旨の証言を報じ、2015年には

A(当時30歳代)について、近隣住民の声を引用して「家族とともに明るく平穏に

生活している」と報じている。

 

なお、Aの父親は2007年(平成19年)10月に事故死している。

 

2004年(平成16年)の刑法改正[施行:2005年(平成17年)1月1日]により、

逮捕監禁致傷罪の懲役の長期上限が10年から15年に引き上げられた。

現行法では本件のように併合罪が適用された場合、7年6か月(15年の半分)

が加算されるため、最大で22年6か月が上限となる。

 

懲役14年の刑が確定した男Sは千葉刑務所に収監されたが、『週刊新潮』

(2015) によれば、刑務作業を怠ったり、職員(刑務官)の指示を聞かないなど、

服役態度は不真面目だった。

 

また公判中から減少していた体重がさらに減り、歩行に介助が必要な状態となり、

八王子医療刑務所に移され治療を受けたと伝えられた。服役中のSと文通など

をしていた窪田順生は、Sは2009年(平成21年)末に獄中で溜め込んでいた

アイドル写真などの所持品が一杯になったことから、それを刑務所によって没収

されたことによって精神的に不安定になり、最終的には隣房の受刑者と揉め事を

起こしたことで、2010年(平成22年)10月ごろまで懲罰的な保護房に250日間

入れられていたが、そのような処置に対し「人権侵害」「ゲバ刑(「暴力刑務所」の

意味)の横暴」と不満を漏らしていたと述べ、Sはまったく更生しておらず再犯の

可能性も高いとして、出所後速やかに何らかの施設に入れるべきだと主張してい

た。

 

『週刊新潮』 (2015) はそれらの出来事以外にも、Sが服役中に障害者手帳(2級)

を取得したと報じている。

 

受刑者Sは2015年(平成27年)4月に52歳で刑期満了を迎え、出所後は故郷

の新潟に戻らず千葉県内で障害者福祉施設からの支援を受け、生活保護を受給し

ながらアパートで1人暮らししていた。

 

2017年(平成29年)ごろ、元受刑者S(当時54-55歳)はアパートの自室で病死

(孤独死)しているのを発見され、事件発覚から20年目となる2020年(令和2年)

1月23日に『新潟日報』(新潟日報社)や『柏崎日報』(柏崎日報社)でその事実が

報道された。

 

また加害者Sの母親は、息子Sの収監後に認知症が進み、老人介護施設に入所

したため、2003年(平成15年)ごろからは面会に訪れなくなり、Sの服役中に死亡

した。事件現場となった加害者S宅はSの母親名義のままで、2021年2月時点

でも事件当時のまま空き家となっている。

 

その他

本事件は同年に起こった西鉄バスジャック事件とともに、引きこもりの社会的認知度

を一気に高めた。これ以前から引きこもり問題に取り組んでいた精神科医の斎藤環

が本事件について、「人が死ぬか誘拐でもされないと、メディアも取り上げず誰も知ろ

うとしない、政府も動かないのは、日本社会の病理の一つでしょう」と述べた上で、

「引きこもりは、初期には犯罪者予備軍と誤解され、識者と呼ばれる方にすら『怠け』

『甘え』と批判されました。実情を知らずに印象だけで語る人たちとの戦いが、まず

私の仕事でした」と述懐している。

 

医療ジャーナリストの月崎時央も本事件について、引きこもりや不登校児、心の病の

子供を持つ家庭が、家庭ごと社会からひきこもってしまうという「典型的なケースだ

った」とした上で、監禁が長期化した背景について次のように論じている。

 

母親は、どんなに理不尽なことが起きても「私さえ我慢すれば。息子がこの家

にいるかぎりは世間にも迷惑はかけない。手許にいればなんとかできる」と

自分を納得させた。

 

そうして思考停止状態になることで、精神のバランスを保っていた六十五~

七十四歳の老母にとって、A子さんの監禁された密室は、家の中に作られた

闇であり、死角だった。

そしてこの闇を内包していた母子カプセルは、息子の暴力がエスカレートす

る度に母親の自己犠牲という感情に支えられ、近所の人や警官の巡回パトロ

ールぐらいでは、とうてい破たんなどしないくらい、どんどん強固なものに

なっていったのだろう。

なぜもっと早く発見できなかったのかという思いは誰もが持つし、警察の度

重なる捜査ミスという困った要因も確かにそこにはあった。甘やかしと一言

で片付ける人もいるだろう。しかし、これは社会に適応できない子を持つ母

親の情念のようなものが作り出した、家庭という独特の閉鎖空間で起きた事

件なのだ。そしてそこに他人が立ち入ることの難しさを前提にして、ひきこ

もりの子を持つ老いた母親の心情に寄り添わないと、理解しえない部分が多

くあるように私には思えた。

 

なお、2001年2月9日には、Sの母親が精神治療について相談していた病院の

院長以下12名が、4年間にわたり無診察でSへの投薬を行っていたとして書類

送検された。

 

これに対して院長は「主治医の判断は間違っていないと思う。保健所や警察の手

に負えず、病院に助けを求められた特殊なケースで誰がどう対処したらいいのか

逆に司法の判断を仰ぎたい」と述べたが、この件については12名全員が起訴猶

予処分となった。

 

後に院長は、基本的に無診察投薬はすべきではないと前置きした上で「この事件

について言えば、最大限の注意を払っての投薬により、無診察ではあったが、本

人の激しい興奮状態が落ち着いたから、少女Aはあの危機的状況下で無事で

あった。そして、母親と医者との間には信頼関係ができていたからこそ、母親は

当院を頼ってきていたし、最終的に入院を委ねられたのだと考えている」と主張

した。

 

一方では「小康状態を保ったことがかえって事態を長引かせ、問題を先送りしたので

はないか」との批判もあり、月崎時央の取材では「患者を診ない医療行為はおかしい。

母親がSの入院を渋った上で薬を懇願するなら、措置鑑定から措置入院という手段

の説明と提案が必要ではなかったか。その場をしのぐための安易な対応は結局問題

をこじれさせる。場合によっては病院から県に家族の同意が得られないことを伝えて、

措置鑑定を要請することがあってもいい」という医師の談話が紹介されている。

 

また、精神医療の現場では無診察での薬の処方が蔓延しており、一度安易に

薬を入手できた家族は、以後それに頼り切ってしまうという問題も指摘された。

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2001 - アフガニスタンの首都カーブル北部同盟により制圧。

ターリバーン政権が事実上崩壊。

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アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線、通称で北部同盟

1996年9月のターリバーンのカーブル制圧ののち、反ターリバーン政権としてアフ

ガニスタン北部を統治した勢力。

 

南部同盟であるターリバーンに対して、「北部同盟」と呼称されたものが外国のマス

メディアに浸透したことでこう呼ばれるようになった。

 

2021年8月のカーブル陥落によって、北部同盟の元指導者およびその他の反ター

リバーン勢力は民族抵抗戦線として再編された。

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2015年 - パリ同時多発テロ事件が発生、120人以上が死亡。

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パリ同時多発テロ事件

2015年11月13日(日本時間14日)にフランスのパリ市街と郊外(バン

リュー)のサン=ドニ地区の商業施設において、ISIL(イスラム国ないしIS)

の戦闘員と見られる複数のジハーディストのグループによる銃撃および爆発

が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者300名以上を生んだテロ事件で

ある。

 

事件発生時、サン=ドニにあるスタジアムスタッド・ド・フランスでは、男子サッカーの

フランス対ドイツ戦が行われており、フランスのオランド大統領とドイツのシュタインマ

イアー外務大臣も観戦していた。

 

現地時間(CET)21時(日本時間14日5時)ごろ、同スタジアムの入り口付近や近隣

のファストフード店で爆弾とみられる爆発音が3回響き、実行犯とみられる人物が自爆

テロにより4人死亡、1人が巻き込まれて死亡した。

 

その後、21時30分ごろよりパリ10区と11区の料理店やバーなど4か所の飲食店

で発砲し、多くの死者が出た。犯人らはイーグルス・オブ・デス・メタルのコンサートが

行われていたバタクラン劇場を襲撃し、劇場で観客に向けて銃を乱射したあと、観客を

人質として立てこもった。

 

14日未明にフランス国家警察の特殊部隊が突入し、犯行グループ3人のうち1人を

射殺、2人が自爆により死亡したが、観客89人が死亡、多数の負傷者が出た。

 

事件の主な影響[編集]

テロ事件とそれに伴う捜査、軍事的対応を除く。

  • サッカーの親善試合の行われた13日朝、ドイツ代表の宿泊するホテルに匿名で爆破予告の電話が入り、代表はホテルからの退去を余儀なくされた。スタジアム外で爆発が起こったあとも試合は最後まで続けられ、2-0でフランスが勝利。試合後は安全が確認されるまで30分以上サポーターをフィールドに入れるなどして、スタジアム内に留まり続けたドイツ代表はフランス戦の試合中に発生した今回の事件により安全面を考慮して宿舎へ戻ることを取りやめ、試合会場のスタッド・ド・フランスで夜を明かしたあと、15日までパリ市内に滞在する予定を切り上げ翌14日に帰国の途に就いた。

 

  • フランス政府当局の指示などもあり、週末となる11月14日および15日にパリ市およびその周辺で開催が予定されていた各種スポーツ大会などが中止される措置がとられた。

 

 

  • ボルドーで開催されていたフィギュアスケートのエリック・ボンパール杯は、14日に実施される予定であった男女シングル・ペア・アイスダンスの各種目のフリー演技が中止された。また11月29日から開催の世界ジュニア卓球選手権には日本チームは派遣を見送った。

 

  • 11月17日夜、ロサンゼルスからパリに向かっていたエールフランス65便、およびダラスからパリに向かっていたエールフランス55便に爆弾が搭載されているとの情報があり、65便はソルトレイクシティに、55便はハリファックスに緊急着陸した。

 

 

  • 欧州などでイスラム教の聖典・コーランが燃やされ、イスラム教スンニ派の最高権威機関・アズハルの指導者・ダイブは、イスラム教への偏見拡大を阻止するため、欧州など世界各地に16の代表団を派遣すると表明した。

 

  • 日本の警察では8都道府県警の特殊急襲部隊(SAT)に自動小銃が配備されているが、当事件を受けて大都市を抱える警察本部の銃器対策部隊にも配備されることが決まった。

 

事件後の情勢

11月30日からパリにおいて国連の地球温暖化対策に関する会議(COP21)が開か

れることになっており、会議には日本、アメリカなど各国の首脳が出席する予定である

ことから、治安対策としてフランス政府当局は入国管理を厳重にする方針を明らかに

するなど、フランス国内でのテロ活動に対する監視態勢を強化していたという。

 

この事件により、フランス政府は全国に非常事態宣言を出し、テロリストの侵入を抑制

するために国境封鎖を決めたほか、市民に不要不急の外出を控えるように呼びかけ

た。また、1,500人以上の兵士を動員し警戒にあたらせた。

 

フランスのオランド大統領は14日、テレビを通じて演説し、「今回のテロは、IS(イスラ

ミック・ステート、イスラム国)の軍事部門が実行した」と述べた。同日、ISは「ISフラン

ス州」の名義で犯行声明を出した。それによると、実行犯8人がISから送り込まれて

いた。

 

フランスの地元メディアは、「戦後最悪のテロ」や「パリ中心部の戦争」と報じている。

 

フランス政府による国家緊急体制の構築

オランド大統領は13日夜には事件現場の一つであるバタクラン劇場を視察し、

「前例のないテロだ」と犯行を非難した。

そして緊急閣議を開催、翌朝の国家安全保障会議に臨み、その後に非常事態

宣言を布告した。

 

同日、国民議会は緊急の会合を開いた。議会でマニュエル・ヴァルス首相は

「フランスはテロリストとイスラム過激派との戦争に突入した」と演説した。

一方でヴァルス首相は「フランスはイスラームとムスリムとは戦争をしない」と

も発言した。

 

議会では冒頭に黙祷が捧げられたが、その後、誰ともなしにフランス国歌『ラ・

マルセイエーズ』が歌われだし大合唱となった。議会で国歌が歌われたのは

第一次世界大戦終結以来である。

 

オランド大統領は14日には同日から3日間を国民服喪の日とすることを発

表した。またオランド大統領はトルコのアンタルヤで開催予定のG20の出席

を取りやめた。17日にはヴェルサイユ宮殿で元老院と国民議会の両院合同

会議を開催した。

 

オランド大統領は演説で、「フランスは戦争をしている」と述べ、テロと戦うこと

を宣言、すでに行われている軍事行動について説明したうえで非常事態宣言

の期間延長のための法改正を訴えた。

またテロ対策として憲法の改正も視野に入れていることを発表した。

 

軍事的対応

フランス軍はロシア軍やアメリカ軍と連携し、シリアのラッカにあるISの司令室、

訓練所、弾薬庫などを空爆し、ISのメンバー数人が死亡した。

 

捜索中の銃撃戦

2015年11月18日4時半(日本時間12時半)、警察がサン=ドニにある事件の

主犯格(指示役)とみなされているアブデルハミド・アバウドのアパートを捜索してい

た際、数人の男女が立てこもって警察官に発砲して銃撃戦となり、1名が自爆、アバ

ウドは警察官に射殺され、アバウドの従妹も死亡、計3人の被疑者が死亡し、警察

官5人が負傷した。

 

警察は作戦開始から約6時間後に制圧完了し、8人の被疑者を拘束した。

 

犠牲者

この事件の死亡者数は少なくとも130人、負傷者数は352人になっている。

フランスのヴァルス首相は日本時間11月15日、犠牲者のうち「103人の身元を特

定できた」と発表した。

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2021 - 将棋の藤井聡太三冠(王位、叡王、棋聖)が、豊島将之竜王に挑戦

した34期竜王戦七番勝負4連勝を飾り、竜王のタイトルを獲得。

193か月で、史上最年少四冠を達成した。

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藤井 聡太

2002年〈平成14年〉7月19日 - 。

日本の将棋棋士。杉本昌隆八段門下。棋士番号は307。愛知県瀬戸市出身。

 

2016年に史上最年少(14歳2か月)で四段昇段(プロ入り)を果たすと、そのまま

無敗で公式戦最多連勝の新記録(29連勝)を樹立した。その後、五段を除く昇段、

一般棋戦優勝、タイトル挑戦、獲得、二冠から八冠までのそれぞれの達成、名人

獲得など多くの最年少記録を塗り替えた。

 

さらに、史上初の八冠独占、史上初の6年連続での年度勝率8割以上(継続中)、

タイトル戦番勝負における初登場からの連続獲得で歴代1位の19回(継続中)、

史上初の一般棋戦年間グランドスラムなど数多くの記録を残している。

 

デビューからの29連勝などは各メディアが広く取り上げて大きな話題になった。

藤井の活躍により将棋ブームが起こり、社会現象的な人気は「藤井フィーバー」

とまで呼ばれている。

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2023年、今日。

昼・・・飯ぬきだった・・・。

何の為に生きているのか、わからなくなった。

夜、中華料理屋でチンジャオロース。

この為に生きているのだ、と確信した。

明日は絶対に昼を食べる。



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