己卯(つちのとう、きぼう) 大安「大いに安し」の意味。六曜の中で最も吉の日とされる。何事においても吉、成功しないことはない日とされ、特に婚礼は大安の日に行われることが多い。また、内閣組閣も大安の日を選んで行われるという。
誓文払(せいもんばらい)・夷講(えびすこう)=十月二十二日の恵比須祭を中心に行われる商家の蔵ざらえ。廉売デー。商人が平素の利得の罪ほろぼしのために、この日に限って、特に品物を安価に売って、神仏に謝罪しようとしたことから起ったと言われる。しかし、次第に、誓文払い用の特別廉価品を仕入れて売るようになり、期間も、五日間から一週間位にまでのばされて、売らんかなの催しになってしまった。
誓文とは、神に誓う起請文のことで、嘘いつわりの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いである。京都ではこれをえびす講という。
えびす講は商人が蛭子神をまつるもので、もと誓文払いとは別の存在であったのが、日を同じくするところからいつしか混同したのである。えびす講は、俗伝によると、推古天皇九年聖徳太子がはじめて市を設けて商売をはじめさせられた時、蛭子神を商鎮守の神としたのに始まるという。
文永十一年(1274)十月廿日、蒙古襲来し博多湾に上陸した。(文永の役)
蒙古から、親睦を結びたいという国書をはねのけた時の執権北条時宗はまだ18歳だった。怒った蒙古は、軍船900隻、兵士26000人で日本を目指した。まず対馬へ十月五日午後4時頃1000人の蒙古兵が上陸した。多くの島民の手に穴をあけ縄を通して捕虜にした。捕虜は食料にされたと言われている。
蒙古軍は、対馬に続いて壱岐や鷹島を襲った。その残虐ぶりは凄まじいものだったとそうだ。島々を蹂躙したあと、蒙古船団は舳先を博多へ向けた。
文永十一年十月廿日、蒙古の大船団は九州博多湾に進入した。沖の浜から上陸し、博多へ侵攻する動きを見せた。待ち受けていた3000の武士たちはただちに出陣した。毒矢や鉄砲(手榴弾)で武士はこっぱみじんにやられた。武士たちは崩壊し、太宰府まで退去した。
蒙古軍は、博多の町に火を放った。燃え上がる炎を見ながら武士たちは、明日の戦で、生き残る者はいないだろうと一晩中嘆いていたという。
ところが、一夜明けた十月廿一日には、蒙古軍は跡形もなく消え失せていたのだそうだ。
蒙古軍の第一次襲来はもともと威嚇のためのものに過ぎなかったと言われている。
鎌倉にいた時宗はその知らせ(がたがたにされ、一晩で消えたことなど)を十一月一日に知り、愕然とした。
蒙古は、4ヵ月後再度国書を日本に送った。国書は鎌倉の時宗に届けられた。さて、時宗は?