声なきに聴き 形なきに視る・・目をとじれば 耳をすませば・・  ~孤掌難鳴~人の振り見て我が振り直せ・・日々雑感

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飛耳長目・・・・・かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 吉田松陰

2017年07月17日 | 人の振り見て我が振り直せ・・温故知新・歴史・人から学ぶ 昔の人は偉かった

飛耳長目
 耳をそばだてて良く聞きなさい。目をしっかり開いてよく見なさい。”世の中の出来事に常に敏感であれということです”
長い先まで目を行き届かせる。つまり、日本や世界の最新の情報を仕入れて日本のために生かす。
吉田松陰が塾生に教えたことです。
ですから、松蔭は積極的に旅をしました。短いときでも1か月、長いときは4か月にわたり日本全国を旅したという記録があります。

 松蔭は、金子重之助と嘉永7年にペリーが再来日したとき(3月3日に日米和親条約)、伊豆下田港の沖合に停泊しているペリー艦隊の黒船に近づき乗船しました(3月28日午前2時ごろ)。
「アメリカに連れて行ってもらいたい」。松蔭は国法を犯し、密航を企てたのです。
しかし、ペリーはこの松蔭の希望を認めませんでした。
 松蔭と金子は泣く泣く海岸に送り戻されました。

松蔭はいさぎよく自首しました。江戸に護送され、伝馬町の獄につながれました。この時、死を覚悟した松蔭は次の歌を詠みました。

 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

その後、長州藩に身柄を引き渡され、野山獄に幽閉されました。金子は岩倉獄へつながれました。野山獄は武士の犯罪者を、岩倉獄は百姓・町人の罪人を収容する獄でした。
この2つの獄の待遇差は相当ありました。金子は、旅の途中で、病にかかり、松蔭は道一つ隔てた隣の獄の金子を励まし続けましたがそのかいもなく死んでしまいます。松蔭はその死を激しく悲しみました。

1年後、野山獄を仮出所しました。父の元に帰った松蔭は、近親のものたちを集めて古典の講義を行いました。松下村塾の始まりです。

 

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