Cosmos

 徒然に委ねて自己と宇宙との対話メモ

護 岸

2009年09月27日 | Weblog
 
 此国における保守層の思考原理は現実と逆転した固陋な思い込みがつよく、アメリカ合州国が一方的に日本を守ってくれているのだといつも声高に喧伝するが、事実はそうではない。ほとんどその逆で日本があちらを体を張って守り、そのうえ資金面までもバックアップしているのである。彼国は体格が大きくて並み外れた強力な膂力と知力を兼備しているけれども、それと匹敵するくらい身勝手で臆病な精神構造を所有している。広大な太平洋を有効・有利な国防上の遮断線として活用できる恵まれた立場にありながらそれでもなを不安を解消できず、日本列島を防波堤として思いのまま利用しながら、それを「守ってやっている」とは随分厚かましい詭弁である。実際はそのように明言していないのに、此国民を説得する目的でこちら側の指導者が慮って代弁する論立てであろう。合衆国自身を守るために、防人を常駐させ此国を世界戦略の重要な橋頭保として気ままに使用するこの現実を、唯々諾々と受け入れている実態こそ自虐行為の最たる事例である。それは単に場所と費用を提供するだけではなく、極めて深刻なのは戦時の戦場化と命令通りの行動を避けられない事態である。日本に出張っている借家人でありながら家賃はおろかユーティリティーまで家主に負担させ用心棒として常駐してあげているのだとはまさか言えない筈である。「此国は彼国に守ってもらっているのだから対等な関係であるはずがない」とはよく聞くが、対等な関係でないの部分は完全にそのとおりである。単純明快に表現すれば、「捨石・人身御供」に甘んじている点において極度に不利な非対等関係である。  

無意味

2009年09月23日 | Weblog

 わが生は始まるよりそうでなかった方が比較不能な大きさでましであった。反快は∞で快は∞分の一であればそのようにならざるを得ない。この思いと刹那主義とが自己の中心部で綯い交ぜとなって縁戚関係を結んでいるようである。生きる意味があるから生きているのではない。なくても生きられるし、現に生きている。生きなければならない理由はなおさらない。理由や意味はどのようにでもつけられる。この身は受胎されていらい無意味を重ねつづけ未だにフルストップを打っていない。この状況は究極の無意味である。

罰当り

2009年09月22日 | Weblog
 
 心が受けた傷をいつまでも払拭できずそれと付合い苦しむのは最悪の反生産行為でいくえにも幾重にも大きな損失で、そこから得られる生産物は苦痛の拡大のみ。過去に苦しんだだけでも十分な過酷さであるうえ、それを繰り返しくり返し再現する要はなく、してはならないのに苦痛の再生産をつづけている。心傷の原因を清算する機会は絶対になくpayoff,revengeを熱欲してもそれは不可能で打つ手皆無を充分に認識していながら、この闇路を踏み越えられない自己の姿は当に成仏得脱できずに苦しむ罰あたりである。

「神の責任」

2009年09月21日 | Weblog
 そちらの存在を承認しない者が、たとえ言の葉のうえだけであってもそれを持ち出すのは不条理かつ支離滅裂ではあるが、一言吐いてもかまいはしないだろう。人がそちらの被造物であるのならこんな忌まわしき活物をなにゆえに創造したのか。ガラクタくらいなら殆ど害悪をださないけれども、とてつもない害毒を絶えず産出しつづけているそんなものをつくったのだからrecallの責任を果たす義務がある。少なくともそれをしなければ、全知全能の尊崇を受ける値打ちはない。とにかく発生原因主としてふさわしい対応を強く求めたいところだが、これは抗議の鉾先違いであった。貴殿にも創造主がいて、それがそちらの被造物とされている他ならぬ人間であるのだから然もありなんと頷ける。だまし狙った獲物が罠にかかれば快哉し、魂胆が外れると落胆する。この、邪悪・どんよく・卑劣・ぐれつ・蒙昧でふしだらな醜悪極まりない人と呼ぶ動物が案出した代物なれば。

苦痛の無限膨張

2009年09月20日 | Weblog
 
 楽しかったこと、現にそうであることはないが、仮にそれがあったとしても余りに微弱なため瞬時に消えてしまい当人の記憶に至らない。無間地獄よりも一層過酷な世界である無限(苦痛・反快)の方は意識ある限り燃え盛り心身を苛みいたぶり通す。原因発生から時の経過につれて徐々に弱まり緩和するのではなく、事態はその逆でますます鮮明に激化がつのるばかりである。そのうえさらに、命ある限りは日々新規のそれらが参入して合同で増殖運動をつづける。これはまさに苦痛膨張の宇宙である。未来の分についてはそれを体験していないが、生ある間は続行するものと推定可能でそれからも脱走は不可能である。

裏付け

2009年09月13日 | Weblog
 
 語彙はあってもその実体がない場合を気になりだすとその理を知りたくてその時にしていることが手に付かず、暫し中断状態を強いられる。ありふれ過ぎて話材のほかとはいえ、自由・平等・時間など。これらは抽象名詞だから五感で確認できないのは当然で、それをもって実体がないとは面妖なバカゲタことを言うものだ。と、感じるなら取り違えである。ここで謂う実体のあるなしは抽象・具象の次元ではなく、抽・具を超えて、観念世界で拵えられ、そこでのみ存在するものを対象にしている。わざわざそれを言葉だけでも現実世界へ引きずりだす意図は、いくら{この世に不存在}とは言え誰かに何としても伝えたい場合には言葉にしてそれに依存するしか手段がないのが一つ。あと一つには、空想する理想郷と実世界とを比べる尺度として願望を言葉につくり、託す。そして、現実との距離やずれを計測し照合する手掛かりとするために。

天下り

2009年09月11日 | Weblog
 官僚は古代ローマより遙かに以前から存在し、国家にとってそれは不可欠だからである。bureaucrat,technocratがいない国家形態は考えられない。ただし、平均的な国民の実態から異常に浮き上がり肥大化した特権階層としての現状は即刻改変しなくてはならない。加えて大きな問題点はこれらが退官した後の出来事である。つまり悪名たかき「天下り」である。ここでの本筋定義は、そこへおさまる者を筆頭にして関係・関連者達を除いては全く無用の受け皿機構である「天国」を自ら構築して、高額の処遇を保証することである。言い換えれば税金を原資とする国家予算の一部を合法的に私有化する行為である。それとは本質的に大きく異なるけれども定義枠を拡大すれば、政党へ流れて自民・民主の議員として活動をしているさまざまな元官僚たちも「天下り」の一種と言えなくはないが、これは容認可能なものであろう。両党の議員で官僚上がり・崩れを合わせた比率はどちらが高いのであろうか。中枢部分は互角のように見える。

卑屈の清算

2009年09月06日 | Weblog
 日本人の少なくない人たちが、心中に抱える通奏低音として、アングロ・サクソンに対する侍女志向(嗜好)性がある。この出生は何所で何故なのか知りえないけれども美しい姿ではない。一週間前の総選挙で日本国の政権は、純保守政党から若干リベラルな準保守政党へと移行した。まだその中身は明白でないにも拘らず、宗主国は些か程度に苛立ちをあらわにしている。これから担う政権党に対し、早々と釘をさし、「おどし・ゆさぶり」の先手をかけているが、それはあっちにとって日本の存在は現状において極めて重要な証左である。この上なく従順で使い勝手のよい下僕であるこの国の性状がわずかでも自国にとって不都合になれば不快である。「奴」は自己主張をする知恵と権利意識をつけてはいけない。この国の「えらい」さん達は、「主人家」が機嫌をそこねないようにとばかり腐心しているが、その根底をなす基板を取り換えなければならない。強き者に媚、物・心を貢ぎ至上の歓喜とする習性から脱却し清算しなければ幸せではない。「奴隷思考」を廃棄する勇気と、その呪縛から自由になってから卑屈なき友好関係を構築できる。日本が彼国を必要としている以上にあっちは、こっちを必要としている点を見落としては大きな誤謬である。