私の平凡な人生

生まれてから74歳迄の平凡な人生記録。

日本電気株式会社勤務時代

2010年10月01日 | 日記
入社は1957年(昭和32年)4月であった。
3ヶ月間の実習を経て仮配属される。
入社当時は横山村舘町横山自宅から片道3時間掛けて
朝5時頃自宅を自転車で浅川(現高尾)駅迄行き
当時の国鉄中央線で八王子駅に出て
単線の横浜線で菊名へ行き更に東急東横線で
武蔵小杉駅に出て徒歩でNECの玉川事業所に通勤した。
会社には8時頃尽き始業時間の8時半には
何とか間に合わせたが帰宅は午後8時か9時頃迄働き
更に3時間掛けて夜11時か12時に帰宅する毎日であった。
神奈川県武蔵小杉にあるNEC玉川事業所半導体事業部で
上司は後に副社長となる人材。
当時、開発中のトランジスターの実験データの取得の為、
同じ実験を3ケ月間毎日実施した。
当時は土曜日は休日ではなく日曜日も出勤を求められ残業時間も
100H/月を超える状態だったので自宅からの通勤は困難であった。
当時の南武線の稲城長沼駅付近に部屋を借りて
漸く家族から独立したと思ったら
ある日兄が突然訪ねて来て今度世田谷上野毛に2部屋かりたので
一緒に暮らせてもらえないかとの相談であった。
私は迷ったが兄と母の苦労を身に染みて感じているので拒絶出来ず
同意する。
これは私が30歳の直前に結婚する迄の悪夢の始まりであった。
同居したら給料と賞与は全部母と兄に奉げ私の小遣いは
逆に戴く事になる。
僅かな小遣いを殆ど使わず貯金して10年間貯め自分の結婚費用は
一切この中から出した。
ささやかな公立の結婚式場で結婚し2泊3日の新婚旅行で北海道に行き
東府中の米軍基地前の6畳の木賃部屋で私達の新婚生活を始める。
話は戻るが本配属としては今迄の仮配属の経験とは
無関係の通信制御システム事業部となる。
ある日、配属先の上司が突然、実験中の私の所に来る。
通信制御装置は真空管を使った増幅器、発信器、変調器等のアナログ部分と
リレーを使った論理回路から成る。
との説明を受け、私はアナログ回路担当を希望する事を伝える。
半月後、配属が決まり別のアナログ担当の上司の指示で真空管を使った
アナログ回路の開発実験を始める。
アナログ増幅器は発信現象を起こし、
アナログ発信器は発信せず、アナログ変調器は変調動作をせず無動作。
真空管のラジオには慣れており多少の自信があったが、
アマ、プロの違いを実感した次第である。
半年後、先輩の指導の下に何とか必要なアナログ回路は開発出来た。
試作が終わり製品生産に入ったが試作品と量産品の違いを認識させられた。
何とか量産体制を確立したが、半導体の量産とは3桁も違う量産であった。
1年後に、真空管回路からリレーを使ったデジタル回路の開発を
担当してくれと言われ指導上司が変わった今度の上司は
デジタル回路の様に細かく論理的であったが
デジタル回路は理論と実際が一致するので
アナログの様な実験は必要ないと言われた。
そこで、指導に基づき計数回路、
論理和回路(OR、AND、フリップフロップ等)を机上で設計した。
そのデジタル回路をそのまま生産して製品化したが、
設計した様な動作が実現しない。
私は困ったが生産現場のベテラン技能者が私の指定した
リレー部品を各回路の動作毎に調整して
全く違う動作のリレーにしてくれた。
その結果、設計とは違ったが私が狙ったデジタル回路の動作を行い
製品は出荷出来た。然し、設計者としての私の存在意義は無かった。
こんな体験をした制御システム設計者の私が
数年後に制御システムの設計者として
営業と一緒にセールスエンジニアとして製品の売り込みに行った。
私が売込んだ製品が順調に稼働して実績が上がり
やがて海外へも輸出する事となり
私が初めてブラジルにセールスエンジニアとして売込みに行った。
この商談が成功してNEC通信制御装置の輸出第一号機となった。
この成功によって、私はNEC通信制御装置の海外ビジネスを
この後、二十数年担当する事になった。
このブラジルへの最初の出張の前に結婚をした。
私の最初の海外出張中に妻は
一人で府中に引っ越しをして更に何年後には私の何回目かの
海外出張中に又一人で府中から横浜に引っ越した。
この様に妻に苦労を掛けた私は妻に感謝せず妻に
肉体的、精神的苦労を掛け続けて今日に至っている。
話を仕事に戻すが最近のNEC通信制御装置は
総てアナログ、デジタル共超LSI(超高速高密度低消費電力半導体)
で構成されている。
私が入社当時実験した半導体の進歩は著しく
現在では当時の半導体とは異なり
小型軽量化された超LSIが安価に大量生産されて
アナログ、デジタル共超LSI(超高速高密度低消費電力半導体)
となって総ての電子機器に採用されている。
通信(Commnication)とコンピュータ(Computer)の合体
(C&C)を経営理念とするNECで
この両方に関わった通信制御システムの開発、
受注に携わったのは運が良かったと思っている。
世界を相手に苦労した客先は華僑とインド人、ユダヤ人であったが
その苦労体験がその後に生きている。
その後、府中事業所、横浜事業所
(私の海外出張中で先に記述した様に妻が一人で引っ越した)と
移ったが仕事の内容は変わらず、
横浜事業所勤務はその後のNECエンジニアリング時代を含めて
30数年になった。