1938年(昭和13年)7月4日東京浅草に生まれる。
浅草駒形のY家の2男、2女の6人家族の次男に生まれる
父の職業は不明-サラリーマンではない事は確か。
母は専業主婦。
長女は病弱であったらしい。
1944年(昭和19年)父の実家がある秋田市に一家で疎開。
1945年(昭和20年)4月秋田市立国民小学校(当時)に入学。
1945年(昭和20年)8月19日父、腸チフスで死亡。
長男15歳、私7歳、姉10歳、妹4歳。
一家の大黒柱は15歳の兄一人が負う。
父死亡後、生活が出来ず、母の親戚がある山形県市東根市に一家で移住。
私は東根町立国民小学校(当時)3年生に転入。
住所は町から数キロ以上離れた集落で約20数軒ある農家は総て辻村姓であった。
余所者として苛めに会う。ある日、些細な事で彼ら数人と殴り合いの大喧嘩となり
その結果、仲間として認められる。
母は生活の為、持ち物(着物、装飾品等)を
米との物々交換(上物着物一式が玄米一升)と
騙される筍生活が1年間続けたが、身ぐるみはがされる。
もう金目の物が無くなった事を知ると
各農家は一切食べ物は勿論付き合いも無くなった。
兄の米軍基地(山形県天童市神町)で働く収入は僅かで
一家5人の生活は成り立たず。
この貪底生活の中で母の母(祖母)が死亡。
この貧乏生活は一家心中か蛾死かの何れかの道かの極限状態になる。
見かねた亡父の友人の世話で東京都南多摩郡横山村館町横山の
一軒家に(殆ど家賃なしで)家族一家で引越す事が出来る。
交通の便は悪く当時のJR八王子駅から1日数便のバスで
1時間更に徒歩30分の片田舎であった。
私は横山村立横山国民小学校(当時)の5年生に3度目の転入となる。
小学校6年生のとき余所者の私に優しくしてくれた女の子に
初恋らしい淡い気持を抱く。
東京に移転後、間もなく姉が栄養失調で死亡。
私は1年後に西八王子駅近くの八王子市立横山中学校(当時)に
進学となる。
当時は低い山を一つ越えて通学となるので徒歩で2時間強。
自転車で約30分の通学となる。
兄と母の生活苦を見ているので早くから大学進学は諦めていたが、
高校進学も家族から反対される。
中学時代、私は真空管式ラジオを
自分で組立て電気に大変興味があったので
電気関係の会社への就職を試みたが
中学卒では専門知識が認められず就職は困難。
家族の反対に合いながら都立小金井工業高校電気通信課(当時)に
進学する。
当時、自転車で浅川(現高尾)駅迄40分、国鉄中央線電車(当時)で
小金井駅迄50分、小金井駅から徒歩30分だった。
これを雨の日、雪の日も1日も休まず3年間続ける。
勉強とアルバイトに暮れる3年間の高校生活を終え日本電気株式会社に
入社する。
浅草駒形のY家の2男、2女の6人家族の次男に生まれる
父の職業は不明-サラリーマンではない事は確か。
母は専業主婦。
長女は病弱であったらしい。
1944年(昭和19年)父の実家がある秋田市に一家で疎開。
1945年(昭和20年)4月秋田市立国民小学校(当時)に入学。
1945年(昭和20年)8月19日父、腸チフスで死亡。
長男15歳、私7歳、姉10歳、妹4歳。
一家の大黒柱は15歳の兄一人が負う。
父死亡後、生活が出来ず、母の親戚がある山形県市東根市に一家で移住。
私は東根町立国民小学校(当時)3年生に転入。
住所は町から数キロ以上離れた集落で約20数軒ある農家は総て辻村姓であった。
余所者として苛めに会う。ある日、些細な事で彼ら数人と殴り合いの大喧嘩となり
その結果、仲間として認められる。
母は生活の為、持ち物(着物、装飾品等)を
米との物々交換(上物着物一式が玄米一升)と
騙される筍生活が1年間続けたが、身ぐるみはがされる。
もう金目の物が無くなった事を知ると
各農家は一切食べ物は勿論付き合いも無くなった。
兄の米軍基地(山形県天童市神町)で働く収入は僅かで
一家5人の生活は成り立たず。
この貪底生活の中で母の母(祖母)が死亡。
この貧乏生活は一家心中か蛾死かの何れかの道かの極限状態になる。
見かねた亡父の友人の世話で東京都南多摩郡横山村館町横山の
一軒家に(殆ど家賃なしで)家族一家で引越す事が出来る。
交通の便は悪く当時のJR八王子駅から1日数便のバスで
1時間更に徒歩30分の片田舎であった。
私は横山村立横山国民小学校(当時)の5年生に3度目の転入となる。
小学校6年生のとき余所者の私に優しくしてくれた女の子に
初恋らしい淡い気持を抱く。
東京に移転後、間もなく姉が栄養失調で死亡。
私は1年後に西八王子駅近くの八王子市立横山中学校(当時)に
進学となる。
当時は低い山を一つ越えて通学となるので徒歩で2時間強。
自転車で約30分の通学となる。
兄と母の生活苦を見ているので早くから大学進学は諦めていたが、
高校進学も家族から反対される。
中学時代、私は真空管式ラジオを
自分で組立て電気に大変興味があったので
電気関係の会社への就職を試みたが
中学卒では専門知識が認められず就職は困難。
家族の反対に合いながら都立小金井工業高校電気通信課(当時)に
進学する。
当時、自転車で浅川(現高尾)駅迄40分、国鉄中央線電車(当時)で
小金井駅迄50分、小金井駅から徒歩30分だった。
これを雨の日、雪の日も1日も休まず3年間続ける。
勉強とアルバイトに暮れる3年間の高校生活を終え日本電気株式会社に
入社する。