私の平凡な人生

生まれてから74歳迄の平凡な人生記録。

工業高校卒業迄

2010年11月09日 | 日記
1938年(昭和13年)7月4日東京浅草に生まれる。
浅草駒形のY家の2男、2女の6人家族の次男に生まれる
父の職業は不明-サラリーマンではない事は確か。
母は専業主婦。
長女は病弱であったらしい。
1944年(昭和19年)父の実家がある秋田市に一家で疎開。
1945年(昭和20年)4月秋田市立国民小学校(当時)に入学。
1945年(昭和20年)8月19日父、腸チフスで死亡。
長男15歳、私7歳、姉10歳、妹4歳。
一家の大黒柱は15歳の兄一人が負う。
父死亡後、生活が出来ず、母の親戚がある山形県市東根市に一家で移住。
私は東根町立国民小学校(当時)3年生に転入。
住所は町から数キロ以上離れた集落で約20数軒ある農家は総て辻村姓であった。
余所者として苛めに会う。ある日、些細な事で彼ら数人と殴り合いの大喧嘩となり
その結果、仲間として認められる。
母は生活の為、持ち物(着物、装飾品等)を
米との物々交換(上物着物一式が玄米一升)と
騙される筍生活が1年間続けたが、身ぐるみはがされる。
もう金目の物が無くなった事を知ると
各農家は一切食べ物は勿論付き合いも無くなった。
兄の米軍基地(山形県天童市神町)で働く収入は僅かで
一家5人の生活は成り立たず。
この貪底生活の中で母の母(祖母)が死亡。
この貧乏生活は一家心中か蛾死かの何れかの道かの極限状態になる。
見かねた亡父の友人の世話で東京都南多摩郡横山村館町横山の
一軒家に(殆ど家賃なしで)家族一家で引越す事が出来る。
交通の便は悪く当時のJR八王子駅から1日数便のバスで
1時間更に徒歩30分の片田舎であった。
私は横山村立横山国民小学校(当時)の5年生に3度目の転入となる。
小学校6年生のとき余所者の私に優しくしてくれた女の子に
初恋らしい淡い気持を抱く。
東京に移転後、間もなく姉が栄養失調で死亡。
私は1年後に西八王子駅近くの八王子市立横山中学校(当時)に
進学となる。
当時は低い山を一つ越えて通学となるので徒歩で2時間強。
自転車で約30分の通学となる。
兄と母の生活苦を見ているので早くから大学進学は諦めていたが、
高校進学も家族から反対される。
中学時代、私は真空管式ラジオを
自分で組立て電気に大変興味があったので
電気関係の会社への就職を試みたが
中学卒では専門知識が認められず就職は困難。
家族の反対に合いながら都立小金井工業高校電気通信課(当時)に
進学する。
当時、自転車で浅川(現高尾)駅迄40分、国鉄中央線電車(当時)で
小金井駅迄50分、小金井駅から徒歩30分だった。
これを雨の日、雪の日も1日も休まず3年間続ける。
勉強とアルバイトに暮れる3年間の高校生活を終え日本電気株式会社に
入社する。

日本電気株式会社勤務時代

2010年10月01日 | 日記
入社は1957年(昭和32年)4月であった。
3ヶ月間の実習を経て仮配属される。
入社当時は横山村舘町横山自宅から片道3時間掛けて
朝5時頃自宅を自転車で浅川(現高尾)駅迄行き
当時の国鉄中央線で八王子駅に出て
単線の横浜線で菊名へ行き更に東急東横線で
武蔵小杉駅に出て徒歩でNECの玉川事業所に通勤した。
会社には8時頃尽き始業時間の8時半には
何とか間に合わせたが帰宅は午後8時か9時頃迄働き
更に3時間掛けて夜11時か12時に帰宅する毎日であった。
神奈川県武蔵小杉にあるNEC玉川事業所半導体事業部で
上司は後に副社長となる人材。
当時、開発中のトランジスターの実験データの取得の為、
同じ実験を3ケ月間毎日実施した。
当時は土曜日は休日ではなく日曜日も出勤を求められ残業時間も
100H/月を超える状態だったので自宅からの通勤は困難であった。
当時の南武線の稲城長沼駅付近に部屋を借りて
漸く家族から独立したと思ったら
ある日兄が突然訪ねて来て今度世田谷上野毛に2部屋かりたので
一緒に暮らせてもらえないかとの相談であった。
私は迷ったが兄と母の苦労を身に染みて感じているので拒絶出来ず
同意する。
これは私が30歳の直前に結婚する迄の悪夢の始まりであった。
同居したら給料と賞与は全部母と兄に奉げ私の小遣いは
逆に戴く事になる。
僅かな小遣いを殆ど使わず貯金して10年間貯め自分の結婚費用は
一切この中から出した。
ささやかな公立の結婚式場で結婚し2泊3日の新婚旅行で北海道に行き
東府中の米軍基地前の6畳の木賃部屋で私達の新婚生活を始める。
話は戻るが本配属としては今迄の仮配属の経験とは
無関係の通信制御システム事業部となる。
ある日、配属先の上司が突然、実験中の私の所に来る。
通信制御装置は真空管を使った増幅器、発信器、変調器等のアナログ部分と
リレーを使った論理回路から成る。
との説明を受け、私はアナログ回路担当を希望する事を伝える。
半月後、配属が決まり別のアナログ担当の上司の指示で真空管を使った
アナログ回路の開発実験を始める。
アナログ増幅器は発信現象を起こし、
アナログ発信器は発信せず、アナログ変調器は変調動作をせず無動作。
真空管のラジオには慣れており多少の自信があったが、
アマ、プロの違いを実感した次第である。
半年後、先輩の指導の下に何とか必要なアナログ回路は開発出来た。
試作が終わり製品生産に入ったが試作品と量産品の違いを認識させられた。
何とか量産体制を確立したが、半導体の量産とは3桁も違う量産であった。
1年後に、真空管回路からリレーを使ったデジタル回路の開発を
担当してくれと言われ指導上司が変わった今度の上司は
デジタル回路の様に細かく論理的であったが
デジタル回路は理論と実際が一致するので
アナログの様な実験は必要ないと言われた。
そこで、指導に基づき計数回路、
論理和回路(OR、AND、フリップフロップ等)を机上で設計した。
そのデジタル回路をそのまま生産して製品化したが、
設計した様な動作が実現しない。
私は困ったが生産現場のベテラン技能者が私の指定した
リレー部品を各回路の動作毎に調整して
全く違う動作のリレーにしてくれた。
その結果、設計とは違ったが私が狙ったデジタル回路の動作を行い
製品は出荷出来た。然し、設計者としての私の存在意義は無かった。
こんな体験をした制御システム設計者の私が
数年後に制御システムの設計者として
営業と一緒にセールスエンジニアとして製品の売り込みに行った。
私が売込んだ製品が順調に稼働して実績が上がり
やがて海外へも輸出する事となり
私が初めてブラジルにセールスエンジニアとして売込みに行った。
この商談が成功してNEC通信制御装置の輸出第一号機となった。
この成功によって、私はNEC通信制御装置の海外ビジネスを
この後、二十数年担当する事になった。
このブラジルへの最初の出張の前に結婚をした。
私の最初の海外出張中に妻は
一人で府中に引っ越しをして更に何年後には私の何回目かの
海外出張中に又一人で府中から横浜に引っ越した。
この様に妻に苦労を掛けた私は妻に感謝せず妻に
肉体的、精神的苦労を掛け続けて今日に至っている。
話を仕事に戻すが最近のNEC通信制御装置は
総てアナログ、デジタル共超LSI(超高速高密度低消費電力半導体)
で構成されている。
私が入社当時実験した半導体の進歩は著しく
現在では当時の半導体とは異なり
小型軽量化された超LSIが安価に大量生産されて
アナログ、デジタル共超LSI(超高速高密度低消費電力半導体)
となって総ての電子機器に採用されている。
通信(Commnication)とコンピュータ(Computer)の合体
(C&C)を経営理念とするNECで
この両方に関わった通信制御システムの開発、
受注に携わったのは運が良かったと思っている。
世界を相手に苦労した客先は華僑とインド人、ユダヤ人であったが
その苦労体験がその後に生きている。
その後、府中事業所、横浜事業所
(私の海外出張中で先に記述した様に妻が一人で引っ越した)と
移ったが仕事の内容は変わらず、
横浜事業所勤務はその後のNECエンジニアリング時代を含めて
30数年になった。

NECエンジニアリング株式会社へ出向、移籍

2010年09月08日 | 日記
18歳で入社して32年、課長になって3年後だと思うが中国の商談から
帰国して出社したら子会社のNECエンジニアリング株式会社への出向を命じられた。
自分が中国から受注した通信制御装置の設計を持参しての子会社への
出向であった。
更に当時NEC横浜事業所構内に間借りしていた。
NECエンジニアリングの設計部隊約150名を
NEC事業所構外に移転させる事を実現して欲しいと言われた。
自分の仕事と一緒に移動先の部下も一緒にNECから出て行ってくれと事。   
役職は一段階昇格の部長であったが一人での出向は今日の親会社の部下は
明日の客先との感触であった。
NEC横浜事業所総務課から不動産屋の紹介を受け、
NEC横浜事業所正面の空き地地主との売買交渉を行う。
その結果、地主の息子の要望に沿ってその地に建物を建て
15年間の賃貸契約を結ぶ事にする。
建物完成迄の仮住いとして新横浜駅前のビルに入る契約も行う。
こんな苦労したが
出向先の部下は親会社からの私に最初から敵意を持っており
陰では落下傘の敵国上司と言っていた。
約150人の部下の半数以上は親会社に敵意を持っており
親会社からの私に協力する事をせず私は困った。
NECの海外業務で20年近く一緒に働いた
当時のNECエンジニアリング会社常務役員の了承を得て
私に最初から敵意を持った非協力グループのリーダー格3人の
外部への異動辞令を出し、
代わりに比較的私に協力的なグループのリーダー格3人を昇格させた。
この人事異動が功を奏し私の存在がようやく部下に認められた。
これで1件落着かと思ったが、部下が私のNEC時代の部下
即ち親会社の顔色を伺い私の指示を100%受け入れない。
この事実は私の設計部門のみでなく会社対会社
即ち、親会社対子会社に共通する問題と分かった。
この問題の解決を当時のNECエンジニアリング会社社長(NECからの出向、移籍)
とも相談して現在の100%NECからの下請け仕事以外に
NECには直接関係しない事業(自主事業)を少し始める事にした。
然し、永年親会社に頼った企業体質は直ぐには変わらず
当初通りの自主事業は中々進まず、
計画して2年目に漸く初受注(約一億円)が出来た。
この初自主事業を成功させる為、
組織変更をして自主事業専門部門を作り、専任の技術者2人を貼り付けた。
これが親会社の通信制御システム事業部の上司の怒りを引き起こす事になった。
NECエンジニアリング会社の自主事業を怒った当時の親会社の上司が
数年後にNECエンジニアリングの役員兼事業部長に出向となり
私の上司となりこの自主事業を引き継ぐ事になったのは
本人、私も想定外であった。
この機会に私も出向から移籍にになり事業部長代理となる。
私の部下も私と一緒にこの自主事業を進めて行く事を
漸く決めた様に思われる。

NECエンジニアリング株式会社退職後、自営業始める

2010年08月11日 | 日記
NEC勤務時代32年、NECエンジニアリング株式会社時代10年、
60歳で定年となり私のサラリーマン生活42年間も終わった。
定年後、ハローワークで失業保険を得ながら経営学の通信教育を
受講する。
1年間の通信教育受講後、
2000年6月社団法人日本経営士会に入会。
  経営士となる。
2000年10月 経営コンサルタント事務所を開設。
  神奈川県を中心に中小企業経営相談(コンサルタント業)を開始し
  今日に至る。
2004年5月 NPO企業再生支援メンバー加入
2006年6月 東京都介護サービス調査員 登録第13060167号
2007年2月 先哲研究会(先人の生き方、考え方を相互に学ぶ)に入会し
  今日に至る。
2007年3月(財)神奈川県中小企業センターアドバイザー登録
2007年4月 相模原市SOHO会員登録
2007年7月 ECO検定合格21-02504(東京商工会議所)
2007年8月 横浜市指定管理者第三者評価補助員証(19補-029)
2009年3月 社団法人日本経営士会を脱会する。
2009年10月 ITパスポート試験合格(第IP-2009-10-13143号)。

人生3毛作

2010年07月08日 | 日記
2010年7月4日で私は満72歳になった。
生涯現役も良いが、私は人生3毛作で生きたいと思う。
今、私の息子2人は其々独立して親には近づかない。
長男とは色々あって連絡を絶っている。
次男は親に内緒で最近結婚したが
相手は30歳の年増看護婦らしい。
看護婦は夜勤が多く、30歳迄結婚しなかったのは
何故かその理由を知りたい。
しかも、次男は女房の云う通りで本籍は移すは
更に女房の勤務地の近く住居を移すで全く呆れる。
自分の会社には毎日片道1時間要して通勤し
女房は徒歩通勤。
私の家(次男の実家)は遠くなった。
このままでは次男は女房実家がある長野市に連れて行かれると思う。
私は
NEC時代の人脈は自営業の時代に
意識的に私から連絡を絶った。
又、経営コンサルタント時代の人脈も
これから連絡を断とうと思っている。
私は無神論者であるので
「葬儀、戒名、墓は要らないと」考えている。
今は自分の両親、妻の両親も亡くなり
自分の兄弟、親戚とも色々あって今は連絡を絶っている。
私の74歳迄の人生良かったか悪かったか、分からない。
この先に孤独死があるのか、
穏やかな死があるのかも分からない。
こんな詩を作っている。

1.一つの命が生まれる。
  この命の役割は。
  命って何んなのだろう。
2.一つの命は他の一つの命を
  犠牲にして命を保つ。
  命って何んなのだろう。
3.一つの命が消えた。
  この命の役割は終わったのか。
  命って何んなのだろう。

1.余命3年と告げられたら
  1年で仕事を整理し
  2年目は愛する家族に尽くし
  3年目は自分記録を残し
  愛する家族に見守らる中で
  一人静かに死んで行く。
2.余命3年と告げられたら
  今迄真面目に生きて来たが
  良き事無かったので
  本能のままに生きて
  借金残し
  借金取りの怒声の中で
  一人静かに死んで行く。
3.余命3年と告げられたら
  今迄の生き様を反省し
  自分の余命は人の為と使い
  苦しい息で自己満足を味わい
  人々の涙の中で
  一人静かに死んで行く。

1.川の流れの様に
  緩かに月日は
  過ぎて行き。
2.川の流れの様に
  穏かに月日に
  この身を任せ。
3.川の流れの様に
  静かに月日の
  ささやきを聴く。

私がこの様な虚無感を持つ遠因を考えると
①父親無き後の幼児期の極貧。
②NEC入社後の会社人間。
 (家庭を犠牲にした仕事人生)
③NEC子会社出向移籍中の苦労
  (NEC横浜事業所構内からの追い出し)
  この為NEC正門前の空地に建物を建て
  15年間の賃貸契約を行う。
  (自主事業の立ち上げとその後の展開)
④42年間のNEC退職後のNEC横浜事業所の閉鎖と売却
  現在は横浜ララポ-トとなって当時の面影全く無し、
  私が苦労したNECエンジニアリング横浜事業所の建物も
  現在は全く無くなっている。
⑤同時期に進出した松下通信工業の発展とNECの衰退。
⑥2011年2月28日、胃の診断受けた結果の摘出手術を受け医者に
  告げられて限られた寿命を何と無く自覚。
⑦次男の親に内緒の気に入らない突然の結婚。
  以上の体験によって自分の人生は何だったのかの自問自答。

追伸:最近自分の生き方を反省して
    他人の事を優先する様に心掛けています。