ルート御案内
与那覇幹夫・以倉紘平↓第6号と第5号 瀬尾育夫・吉田文憲↓過去録 H氏賞・高木敏次↓「パーマネントプレス復刊準備号発行のお知らせ」より以前
転戦するメディア 詩の新聞
パーマネントプレス 第9号 予告
■詩■
石川為丸 沖縄の園芸作業 4月
石毛拓郎 犀蔵の断崖
井元霧彦 あなたへ
倉田良成 群牛図
坂井信夫 シンタイ
平 敏功 老婆の休日
福原恒雄 友へ 点の文字 ―― 滑る終章
■詩集情報*海山の情*若井信栄
若井 今回も私宛に送られてきた詩集が極めて少なかったため、ここで取り上げる詩集の大部分を為丸師匠に提供していただきました。ついでに前回同様に「対談」というかたちで参加してもらうことにしました。
石川 仕方ないなあ。あなた、しまり、なくなりましたなあ。今回が最後だよ、よいか若井よ。
若井 うーむ、いかん今回! (笑)「言葉遊び特集号」ではないんで、回文遊びはやめましょうね。まず、倉田良成詩集「山海物語集拾遺」(ワーズアウト、14・7・17発行)から。
石川 (笑)倉田は働く、ですね。去年「詩、耳袋――山海物語集の内」を出したばかりで、続いてこの「山海物語集拾遺」の発行ですからね。そしてどの詩も質の高度を保っている。「あとがき」に「一七編ほどから成る本作品集には、前作に同じく世の怪奇に類することがらも多いが、それよりもむしろ怪奇に限定されないこの世の外から到来するモノや感覚に、詩の記述の多くを割き、力を注いだ」とあります。いわば「外からの声」に耳を傾けたところから成り立つ作品集、ということ。
若井 ペラペラ、薄っぺらなものが主流となった時代だからこそ、この作品集は格別に、異彩を放っていますね。
石川 稀有な詩集です。多くの人に読んでもらいたく、特別に謝花屋でも、販売・取り扱いをすることに決めました。「山海物語集拾遺」1200円です。まだ手にしていない方はぜひ御購読の申し込みをしてください。謝花屋まで。
若井 個人的には巻頭の「杉山」が心に残る。倉田さんの詩では、杉山巡礼で「蓬髪の神」と出逢ったような不思議体験が書かれているんだが、私などにも感ずるところがある。杉山神社は横浜市鶴見川に沿った地域を中心に近辺の市町村に点在している神社で、倉田さんは、かつて若いころ、「この杉山神社を、まるで巡礼のようにたずねあるいたことがある」ということです。同じように私の飲み友達だった渡辺さんという方も、この杉山神社を探究していたんだな。私がまだ家庭を持っていた頃、近所にあった町田市つくし野の杉山神社の夏祭りに、その渡辺さんを呼んだことがある。ここの神社の印象は薄かったけど、もう一つ、町田市成瀬のほうの杉山神社は何か感ずるところがあったね。土地が古いんだ。神社の裏ての所から土器が拾えるということで、その渡辺さんの案内で、子連れで出かけたことがある。土器の出るところは教育委員会が発掘していて、柵があって入り込めなかったんだが、散らばっている土器片を棒きれでちょちょいとこちら側に引き寄せて、うまいぐあいに入手したりした。子どもにとってもある意味、大いにビンチョウになったと思う。
ところで、そこの神社の半日陰の所に橙色のきれいな野生の花の群落があったんです。植物好きの私であるからして、普段なら一つ採取して帰るところでしたが、何かそれを許さない雰囲気があったんだなあ。杉山神社とはそういうところです。
石川 妙に懐古的になるのは、若井くんもお年を召されたということかなあ(笑)。ま、若井くんにそういう思いを寄せさせるのも、倉田詩のもつ力だと言もえるでしょう。
集中でわしが私的に特別な思いをもって読んだ詩は「那覇にて」です。「面影」「焼けたるマリア」と、戦争による犠牲者の「鎮められない気」を扱った詩を続けて読んだあとだったので、少しほっとさせられるところもあった。詩で、「那覇についてからは、ヤマト出身だが名を変えてこの地に棲みついた友人とよく飲み歩いた」と書かれているのはわしのことでしょう。名を変えているのは経済にかかわる現実的な理由だったんだ(笑)。
若井 その点では苦労したみたいですね(笑)。経済といえば、この不況のあおりで、詩中の「公設市場のほうから直進してくる道が、百貨店の脇腹の「一」の部分を貫くさまなので、そこにりっぱな石敢当が設けられてある」というくだりの百貨店「三越」も、今年の九月でついに閉店したね。直接詩とは関係ないけど、思うところがあるね。詩で書かれている桜坂の店も今はないしね。
石川 三越消ゆとも石敢當は残る、でしょうね。外観はそのままで、ほかの業種が入るらしい。
この詩の中で、「見える」とか「霊的なもの」についての言及もあるんだけど、沖縄は、これがとても濃いんではないかね。実際にわしは崇元寺石門で、「見える人」になってしまったこともあったからね。道路を隔てた側に、わしはいたんだが、石門のいちばん右側のところ、おばあさんの拝んでいる後姿の隣に異風ないでたちの男が、ぼーっと陽炎みたいに顕っていたんだよ。二日酔いで幻を見たんだろうとか、精神的に疲れていたせいだとか言われたけど、違うと思う。
若井 たしかに沖縄は霊的に濃いね。迷うこともよく聞くね。お盆の時に不謹慎にも摩文仁の海で釣りをしたら思わぬ大漁だったそうな。後日、その場所に行こうとするんだが、どうしてもその場所にたどり着けなかったとか。
こうした体験は私にもありました。自転車で見知らぬ町筋を流すのが趣味で、あちこち行くのですが、たまたま、りっぱなフトモモの木を見つけたんです。花の咲くころに、写真を撮っておきたいと思って、再び行ってみたんだが、どうしてもその場所に辿り着けなかった。
石川 (笑)それは単なる勘違いじゃないの?
若井 何言ってんの、石川くん。ちゃんと目印の建物を頭に入れて、その裏側の小路をまっすぐに行く、というふうにしっかり記憶しておいたんだよ。念のためにその周辺を自転車でぐるぐる回ってみたんだが、どうしても見つからなかった。
石川 (笑)じゃあ、家主がその木を切っちゃったんじゃないの?
若井 もう! おふざけも、いいかげんにしてくださいよ。
石川 はい、わかりました(笑)。でも、その沖縄の路地は霊的なものとは別に、迷いやすいよね。見当をつけて歩いて行ったら元の所に戻ってしまうとか。
あ、「迷う」と言えば、メインプレイスとかでの迷子のお知らせの放送がおもしろい。沖縄独特の言いまわし。「××小学校2年生の○○君が『迷っています』」、というの(笑)。
若井 (笑)聞いた、聞いた。内地では子供に対して「迷う」は使わないよね。なんか人生上の問題に行き迷っているという語感が内地ではあるよね。
石川 うんうん。で、話を戻しますが、わしは、倉田良成詩集「山海物語集」の世界にとことん踏み迷ってみることをパー・プレの読者にはお勧めしたいのです。「目に見えない世界」、「外からの声」を聞き届けてほしいと思います。お申し込みは本紙発行所まで。1200円、送料サービス。
若井 海東セラ詩集「キャットウォーク」(七月堂、14・8・1発行)は、めずらしく私宛にも届いた詩集です。
石川 私もいただきました。
若井 18篇からなりますが、いずれの詩も長いですね。しかし、「冗長」を感じさせない筆力がある。才気あふれる好詩集といっていいでしょう。パーマネントプレスの方向性とは違うけど。
石川 なんか若井くんの言い方は褒め言葉に思えないんだよね。ぜんたい、パー・プレに方向性とかあったのかね。
若井 暗黙の了解があるとは思うよ。私としては、この詩集の中で特に「複製の麗子」という詩に注目しました。
石川 うん、わしもこの詩には付箋を貼っている。ほら。
若井 詩の素材が独特ですね。岸田劉生の絵、「麗子像」を扱っている。
老成した笑まいを浮かべながら、麗子はその絵を親しく/見る、自分とおなじ女の子、ちっともかわいらしくない/のに飾られて、高い天井のレストランに、いかめしい、/ふさわしい、その絵はいつも黙っているので(「複製の麗子」第1連より)
石川 その「麗子像」、中学校のときの美術の教科書に載っていたが、同じく「ちっともかわいらしくない」と感じたものだね。

若井 モデルの麗子は岸田劉生の長女だったはず。表現するうえで、画家として妥協しないところがさすがではあるね(笑)。
石川 この詩の優れているところは、誰もが「ちっともかわいらしくない」と思ったであろう、そういう読む者の共感をもとに、ただそれだけでは終わらせずに、その複製画を見るもうひとりの麗子を登場させている、奥行きのある構成ですね。
水の輪の笑まいを浮かべ、麗子は壁の麗子をながめる、/自分とちがう女の子、潜められて、そっと親しい複製の/麗子も、麗子をさがし はじめる、ちょっと暗めのおかっ/ぱあたまの、無心なキューティクル、ゆれる(「複製の麗子」最終連より)
若井 若い人だと思うのだけど、この詩に限らず才気を感じさせる好詩集ですね。
同じく女性詩人で、迫力のある好詩集がありました。長嶋南子詩集「はじめに闇があった」(思潮社、14・8・6発行)。首相の安倍などが唱える家族観なんかをひょいと蹴っ飛ばすようなところのある、過激な詩集ですね。安倍が最初の首相就任直前に出版した『美しい国へ』の中で、彼は〈「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」という家族観と、「そういう家族が仲良く暮らすのが一番の幸せだ」という価値観は守り続けていくべきだと思う〉と書いていた。また、「美しい国」とは何かということで、彼は首相就任会見でこう答えていた。「その姿の一つは、美しい自然や日本の文化や歴史、伝統を大切にする国。そうした要素の中から培われた家族の価値というものを再認識していく必要がある」 だとよ。こういう古い価値観の押しつけが逆に家族を解体させてきたんだというのにね。
石川 例の人口に膾炙した回文だね。「美しい国」は憎いし苦痛、というの(笑)。
若井 この長嶋さんの詩集は最初から最後まで「家族の闇」でおおわれている。
石川 これは出色の詩集ですね。一篇や二篇ならともかく全篇がこのテーマで貫かれているところが圧倒的ですね。強い、表現に向かう意志を感じる。
どの詩を採ってもいいのだけど、比較的短い「別の家族」がわかりやすいと思う。
早く死んでしまう夫も/暗い目をして引きこもっている息子も 食のない娘も/いっしょに住んでいるこの家族は/よその家族ではないかと疑いはじめた/夜になるとわたしの家族をさがしてうろつく//やっとさがしあてた家の/窓にはりついてヤモリになっていた/蚊帳のなかで小さい子が五人/団子ムシになって固まって寝ている/台所で母がわたしを呼んでいる/ここにいるよ とヤモリの声で叫ぶ/固まって寝ていたムシのなかの一匹が/くねくね這いだしてくる/ヤモリのわたしは無意識にとびついて食べてしまった/そんなからだになってしまって/ヒトが口にしないものまで食べてしまって/もうここにいるしかない と母がいう/おまえはいまだに居場所がわからないのか/バカだね と笑いながら/わたしをつまんで食べてしまった//母はこれから生まれようとしている/何年かのちに娘盛りになった母は/どんな男と出会うのか/わたしはどこに生まれでるのであろう/こんどこそホントの家族に巡りあえる//うろついている どこへともなく/夜の
若井 この詩以外にも「ホームドラマ」や「こわいところ」や「シゴト」や「雨期」など、引用して紹介したい詩はたくさんありますね。
石川 そうですねぇ、「おでん」もいいし「さよなら」もいいね。詩集の最後に収められている「階段」の最終行が、「おわりに闇があった」となっていて、実に徹底している。
若井 読者の皆さんにもお勧めしたいところですが、2200円と、けっこういいお値段なところが。
石川 まあね、表紙に絵画を使っているし、中表紙もしっかりしているしで、お金がかかっているのでしょう。わしら清貧の暮らし人にとっては、二千円を超えると、きついかもね。
若井 (笑)それを言うなら、「清貧」ではなく「赤貧」でしょう。
では、次は大先輩の津坂治男さんの詩集「従容」(土曜美術社出版販売、14・5・18発行)について。今年83歳ということです。
石川 「あとがき」によると冒頭の詩「ハルコガネバナ」は、「東北大震災の翌年に書き、昨年には曲も付きました」ということです。
枯れ枝のような茶色い腕から/グーと突き出したこぶし いくつも/垣根の赤いサザンカの火種を/じっと受け止め ふくらいでいく窓辺の山茱萸//2月の末から3月にかけ 黄色い花がびっしり開く/黄金の陸奥とうたわれた/地震・津波から年かけて立ち上がった/街々や海辺にこの匂いとどけと
(「ハルコガネバナ」第1連より ※詩集では横書き)
山茱萸は、一つ一つの花は小さくて地味だけど、かたまって「びっしり咲く」から遠目にも黄色が鮮やかなんだな。葉っぱがまだ出ないうちに黄色の花だけ咲くから余計目立つ。まさに「春黄金花」だね。若かりし頃、横浜の金沢自然公園で見たことあるよ。
若井 山茱萸の別名がハルコガネバナだったんだ。それなら昔、私も、盆栽用に実生苗を育てていたことがある。池上本門寺の御会式で買ったんだ。
石川 きみが若いうちから盆栽に凝り始めて心配したものだよ。そういう趣味の人は保守的な考えになってしまうからね。山茱萸は秋に鮮やかな、グミのような赤い実をつけるのでヤマグミとも呼ばれる。その鮮やかさから「アキサンゴ」とも。
炎える復興の夏のつぎには/熟したヤマグミ 別名アキサンゴ/1つ1つが 海に隠れて実った/数え切れない想いのように……
(「ハルコガネバナ」第4連より)
若井 いいフレーズが続くね。しかし最後が「花咲け 匂え 500キロ越え/絆を結んで 家の山茱萸……」と「歌」ってしまって終わるところが少しだけ残念だ。曲が付けられてるだけに、「歌詞」ということなのだろうね。
石川 「おまえは歌うな」ということかね。でもさ、最後の3点ダッシュで、津坂さんしっかり持ちこたえてるんではないかな。集中の「冬至」という詩が横溢する批判精神を感じさせるので、わしは一押しですね。
夏至と冬至がぼくはいちばん好き/ともに季節はいっそう厳しくなるが/1日1日指折り数えるうちに/いつか涼しさ温かさが芽を伸ばしている……//でも いつか 文明も正義も雪崩れはじめる/崩至いう日が来そうな気がして/いや もう来てしまっているのかも/そう言や、だんだんいかがわしいことも増えてきた?
(「冬至」第2連、第3連より)
(笑)言葉遊びなんだが「崩至」とやってくれたところが効いていますね。
若井 うーむ、「崩至」ときましたか。世相を振り返ってみれば、「崩至」はもう来てしまっていますなぁ。嘆かわしいことです。
石川 だからよ、老骨に鞭打って、わしら、闘わずにはなるまいよ。
若井 一九四七年生まれ、団塊の世代に当たる堀内統義さんの詩集「ずっと、ここに」(創風社出版、14・8・20発行)はどこかしら懐かしいものがありますね。
石川 わしらは団塊の世代の次のシラケ世代というのに括られるらしいけど、まあ時代的に近いところがあるので、分かりやすいではあるね。
ラジオからは/おじさんが好きだった/東京アンナが流れ */汽車の窓からハンケチを振る */(おじさんもハンケチといった)高原列車も走る/戦争尋ね人を/読み上げる声も…
(「ぼくの大好きなバーバー」より)
詩の素材がわしらの少年時代と重なるところがあるね。註に「昭和二十九年、爆発的なヒットとなった岡本敦郎の代表曲「高原列車は行く」は汽車の窓からハンケチふれば、と始まった。」とある。わしらはこれの替え歌で「〽汽車の窓からフンドシふれば~、牧場の乙女が鼻くそ投げる」とか得意になって歌ったものだよ(笑)。
若井 (笑)私などは育ちがよかったものだから、それはちょっと違ったな。私が懐かしいというのは詩を書き始めた若かりし頃、堀内さんの第一詩集「罠」を友達から借りて読んだことがあったからさ。感覚的な詩を書いていらっしゃったという印象。当然その頃と詩風はずいぶん変わったけれど、この詩集の「もののふ」はいいですね。
石川 うん、これはいい作品ですね。道路工事の現場から勝手に三角コーンを持ち出してきて、勝手に並べ替える作業に没頭する、「うつつから夢へ、夢からうつつへ。あやうい橋をおぼつかない足どりで往還する父の姿」を描いている。
若井 「すめらみくにの、もののふは、いかなる事をか、つとむべき。 ただ身にもてる、まごころを、 君と親とに、つくすまで。」と古い唱歌をくちずませたところが、父の時代への静かな批判になっていると思います。
石川 「あぁーんっ」という詩での言葉遊びもなかなか巧みですね。歯医者の「歯科医 良好」というの(笑)。
若井 同じく団塊の世代に入る樋口武二さんの「異譚集Ⅱ」(誌的現代出版部、14・5・5発行)を読むことができました。
石川 一九四七年生ですね。去年「異譚集」を出していますから、この方の創作意欲も並々ならぬものを感じます。
若井 この世代は退職して時間的にも、また年金が降りるので生活的にも余裕があるので、集中してお文学に向かえるのでいいよね。詩人って、教員や公務員だった人がなぜか多いよな。共済組合加入だから老後は楽勝だ。
石川 この年で生活の心配をしなければならぬわしら無保証者がそれを言うと、僻みにしか聞こえないので、やめれ! 暇があっても書けない人は書けないのだから、結局詩作は努力の賜物なのですよ。
若井 なに言ってんの、石川くん、大した詩も書いていないくせに、偉そうによくいうよ。
石川 若井くんねぇ、「自らの窮屈な日常ばかりを追っていると、どうしても見えるものしか見えなくなります」よ(笑)。これは樋口さんの詩集の「あとがきにかえて」の一文ですが、見えないものの中にこそ詩は存在すると彼は考え、そういうところに書くエネルギーを傾注するために、「ひたすら迷い道に入っていった」ということです。詩集では特に「水路に入る」や「野茨の向こうに」などがそうした事情がよくわかるすぐれた作品だと思いました。
若井 「鬼灯奇譚」「狐の嫁入り」も濃密な詩的世界を構成していていいよ。あと、「西瓜を食べる」の、「女が、ぼそっ、と呟いた/この西瓜、あんたの頭に似ていたんだよ」というブラックが笑えましたね。
木村和夫さんの「青景色蛙御殿(榛名まほろば出版・14・3・20発行)」は題名からしていいよね。
石川 表紙もいいねえ。82歳のしげばあさんが青田につかっている写真。同じ写真の中表紙もいいね。
若井 朔太郎の「青猫」の引用から詩のタイトルの重要性への気づきを述べた「あとがき」もまたいいよね。この方も団塊の世代ですかね。
石川 もっと若いはず。「前橋花火」はコンクリート・ポエトリーをやっている。これをするのは若い人でしょう。「しげばあさんに合(ママ)いに行くために/八百屋に寄ってメロンを買った/田植えの時期なのだろう」という、どこか懐かしい感じの詩行で始まる「その上空の青み掛かった空」の第3連の最後に、「このようなまちに産声をあげて 五十五年」とありますよ。
若井 「青さびの庭」という詩には「七歳のわたしが/戦死した信夫さん/の遺骨を抱いて/埋葬する墓に向かったのは/今日のように/うす青い日差しの/青葉がいっぱいの日だった/しげばあさんは/一人息子を戦争で亡くし/傷ついている家/の養子になったわささん/のところに嫁いできた」とあるからして、戦前生まれじゃないですか。戦死者の遺骨を抱く私がすでに七歳、ということだから。
それにしても、我々のように、あちこち流れ流れてさすらった挙げ句に、こうしてうらぶれた暮らしをしている者たちにとっては、生地にて五十五年も過ごせるとは、羨ましいかぎりですね。こういう生き方は普通できない。
石川 何言ってんのよ、若井くん。その「我々」のなかにわしは入れないでおいてほしいよ。
きみのように、自らの窮屈な日常ばかりを追っていると、どうしても見えるものしか見えなくなってしまうんだな。生き方は、人それぞれさ。人の生き方については、羨ましいとか思いなさんなよ。きみもいい年なんだから、自分の生き方に自信を持たないとあかんよ。今からでも遅くないからね、もっと責任を持った生き方をしなさい(笑)。
若井 またまたなんの根拠もないくせに、えらそうに言う!
石川 まあ、きみも、自らの窮屈な日常ばかりを追っていないで、この詩集のタイトルポエムにあたる「青い衣裳の蛙御殿」をばじっくり味読するといいですよ。「青い衣裳の蛙御殿に/息づくものの生き物は/みんな元気だ」で始まり、「自然のことは自然/に任せておけばいい」で終わる。昔、ちょっとかぶれたことのある思想家、イリッチの「万物のコモンズ」という言葉を思い出すよ。
若井 おお、「プラグを抜く」だね。オルタナティブを提起したけど、何処へ行っちゃたんだろう。
石川 分析は面白かったけど、方針は出せなかったからね。この点に関してはわしにも考えがあるのだが、まあ自分としては、とりあえず詩集を一つまとめるのが先決だな。
若井 (笑)それって、前から言ってることじゃん。詩集の完成はいったいいつになることやら。それと比べると田川紀久雄さんは大したものだ。今年も矢継ぎ早に詩集を出されていますね。「遠ざかる風景」(漉林書房・14・2・20発行)、「聲を求めて」(漉林書房・14・5・15発行)、「哀しみの渚」(漉林書房・14・発行)、「哀しみを越えて」(漉林書房・14・9・15発行)と。
いのちは光を求めて
明日に向けて歩き出した
(「生と死の狭間」より)
詩集の後に詩語りについての、こういう一文がある。「田川紀久雄は、末期ガンを宣告されて以来、いのちについて詩語りを行っています。手術もせずに五年以上も生きています。より語りの深さを求めて活動を行っています。」と。詩集「聲を求めて」は、「詩語り論」という副題が付されているように、文字通り生と死の狭間から、田川さんの詩語りへの熱い思いが静かに語られています。
石川 You Tubeで田川さんの詩語りを拝見しました。他の、「詩人○○の詩の朗読」とかも見ましたが、自己陶酔・自己満足で、はたから見るとでーじ恥ずかしく感じられるものが多かった。そういう朗読とは違い、田川さんの詩語りは確かな修練を積んできていらっしゃるということがよく分かります。もちろん実際に詩語りの場に臨席しないと真のよさは十分に伝わらないかとは思いますが。
若井 詩集「哀しみを越えて」は、「知的障害で横浜のKという施設にはいっている」という妹さんの身体が悪化し始めてから書き出したものだそうです。その事情を示す「喪服」という詩は切ないけどいい詩ですね。
立派な喪服を着て/妹を見送りたい/妹の為に出来ることの最後の務めである/いやこの喪服は/私自身を見送るための喪服であったかもしれない/私が残す最後の遺産/見送る人と/見送られる人の/間を取り持つ喪服/せめて立派な喪服を着て妹を見送りたいものだ
(「喪服)」最終連)
石川 素直に心うたれるところがありますね。
若井 あと、沖縄の三詩集、うえじょう晶詩集「我が青春のドン・キホーテ様」(あすら舎・14・2・12発行)、かわかみまさと詩集「与那覇湾」(あすら舎・14・2・27発行)、八重洋一郎詩集「木洩陽日食」(土曜美術社出版販売・14・6・10発行)を読ませていただきました。ところが、時間とスペースに余裕がなくなってきましたので、これらは次回の宿題とさせていただきましょうか。いずれも優れた詩集なのでゆっくり述べていきたいものです。
石川 そうですね。あと、詩集ではないんですが、横山克衛さんの「詩と物語」と題された「少年ラムダ」(ブイツーソリューション・14・6・22)が読み物として楽しめました。なぜか次の一節が引っ掛かりましたよ。
ラムダは、かつて若い頃に通ったアリサという女の枕元にあった、本などについて、思いに耽っていた。
(あれは、誰の詩集だったろう? あの、夜の底のような部屋で、女に読まれる詩人とは、どんな生き方をした人なのなだろう……)
商売女の寂しい部屋に置かれていた詩集、気になるよねぇ。
若井 (笑)少なくともそれは、為丸先生のような詩集でないことは確かだね。
(つづく)
■詩誌情報*おや、空席ですか*永井孝史
と或る国立大学からL研の誰かが、「俺ら、京学連に命を賭けてるんや」と言いながら、我が学生会館に単身で乗り込んできたことがあった。適当学部のWPP(戦争準備会)経由で、その一報が作業中の私に届いた。もちろん、結党以前のL研であり、誰かとはAなのだから、一九七〇年秋のことだ。「命を賭けてはるんやて」と、一報に接した私たちはどこか他人事であった。現地で一歩も退かなかったC戦とかマル青全国展開なんてのは、ずっと後のことである。
学術団や文連、体育会、学生放送局などで構成していた学友団を、私たちは過度的に名乗ったことがある。学友会中央委員の選出人数に換算すると、わずか7名の勢力だ。このため、学友団の団長(学友会中央委員長が兼務)を空席にして、基団連から副団長を選出した。その後、4学部での自治会選挙を経て、6月には学友会を再建することになった。
一方、と或る国立大学でも在籍学生5人に1人の割合で抽出した教養部代議員によるC代議員大会が、本当に久しぶりに同じ6月に成立した。旧3号ボックス系と言ってはいけない。パルチの残党くらいにしておこうか。そうした部分だけで、C自、そして同学会を再建したのだ。再建会議っぽく言えば、一九六五年秋の失陥からなんと5年足らずで蘇ったことになる。一時は、1学部だけを除き全学の意志が同学会に結集したものだ。
2つの学校で、どちらも全学自治会を再建したとなると、次は府学連の番だと何人かが思った。私もそう思った。ところが、出現したものはL研のAが「命を賭けてはる」京学連であった。府学連(京都府学生自治会連合)と、京学連(全京都学生連合会)の名称はかなり似ていたが、その中身はまるっきり違っていた。
府学連には、少数意見をとことん尊重する悪しき伝統があった。
「エフさん、また無茶しよります。」
「言わはるようにしとき。エフさんのほうが、わしらの事かってよう知っとるで。」
すぐお隣の学校には、とてつもなく厄介な事情が二つもあった。それでも、何喰わぬ顔でこちらを立ててくれたし。彼らが欲しいというのなら、副委員長でも書記長でも、執行委員の頭かずでも、気前良く欲しがるにまかせたものだ。87名の学連代議員の圧倒的多数が出席し、その出席代議員の圧倒的多数が出席し、その出席代議員の過半数を有していても、強引に採決することは殆どなく、できるだけ修正協議で解決してきた。
その府学連は、遂に再建される事がなかった。一九六八年九月の第25回定期大会が、最後の大会であった。執行委員14名(規約上は19名)全員を、この大会で始めて独占した。書記長だけをと或る国立大学の文学部3年性にした他は、委員長に春の代行から定着した有力学部4年生、副委員長にⅡ部4年生、書記次長におざなり学部3年生など、残り13名は全員が同一学校の学友であった。
もっとも、と或る国立大学の文学部学友会(学部や高校の自治会でも学友会を称することが多かった)では、留年生だらけの在籍学生100名前後のうち、府学連書記長を名乗った例の3年生以外に、府学連の何かを引き受けるような奇篤な学生は一人も居なかった。
府学連の加盟校は、二つの国立大学と二つの私立大学のみ。他に、第2「府学連」策動時に「第2加入」という奇策に出た公立大学(府立医大ではない)が1校だけあったと記しておこう。府学連は、全学連の単なる都道府県レベルの支部にとどまらなかった。だから、某大学某学部の諸君も結集していた。
また京学連であるが、簡単に言えば前述した二大学の全学自治会のやり放題であった。誰の言うことを聞く必要もなく、逆に大国政治だと、どこかには揶揄されるほどであった。反赤テキの一点で、12・18ブンドを蜂起戦争派に東京で取りもったこともある。赤テキのRGの方がはるかに強くって、あっという間に負けてしまった。勝ちさえしていれば、公園の入り口に京学連の隊列が登場するはずだった、
「いのちの籠」井元霧彦
短い旅に出ました
まだ間に合うはずだ と
鎮守府舞鶴では
もうぼくの幼友だちは 死んでいました
(井元霧彦「人間の学校 その一七三」部分)
「いのちの籠」27井元霧彦「人間の学校 その一七三」は、本紙8の特集文「浜坂への小旅行」を詩に発展させたもの。
上段に少し抜き出したが、非常に簡潔な描写で効果を高めているのだが、良かったのはこの詩だけだ。
この作品が目に付くというほどに、逆に言えば「いのちの籠」は頽廃していると言っているようなものだ。主旨が凄いから自分はこの程度でいいんだとばかりに、形式ばった作品がのさばっている。名前だけ連ねて、偉そうに正しいことばかり書いておけばそれでいいという態度が蔓延している。だから、疑いもなく再掲載の詩が増殖する。これも空席のなせる業なのだろう、きっと。
現下の状況を憂うのは良い。だが、正しければそれで充分というわけではない。私が再三にわたり語ってきたように、一つの潮流が学内から絶滅(?)したとしるや、何の関係もなく、あるいは右派秩序派と同伴するしかなかった後ろ暗い連中が、さも運動の主体であったかのように勝手なことを安心して言いふらす。それくらい、油断ならぬ時代を迎えているのだろう。
「言葉の海へ」村嶋正浩
村嶋正浩から、個人誌「言葉の海へ」1・2が届いた。どちらの号も、村嶋の詩と映画評が各1篇発表されており、装丁も洒落ている。詩は、言葉を道具のように操る村嶋らしいもの。ここでは「風景の海へ」と題した映画評に触れておこう。「そこのみにて光輝く」を取り上げた2号では、「家族は言わば生きることで犯した罪の共犯関係にある集団」だから、「家族は面倒なものだ」と断じている。このあたりに、村嶋が個人誌からなら詩の世界に戻れる意味合いも読み取れるのだ。
「YOCOROCO」佐藤裕子
渋谷美代子と佐藤裕子の同人二人で創刊した「YOCOROCO」1を落手した。同誌に佐藤は、2作品を掲載している。そのひとつ「夢を見ていた遠い昔の」の初連に、「五線譜に挿した止まり木で物を言う鳥が鏡文字をオクターブ高く浮上する」との行があった。こうした整序だった造りが、ありていに言えばその目線(視線)が気になるのだ。
「gaga」難波保明
「gaga」13で、難波保明「鎌倉」を読んだ。相変らず上手い詩は、こう始まる。
七十四歳になる父と
一度だけ鎌倉の旧跡を散策したことがある
外出を常としない父にしては珍しく
(難波保明「鎌倉」冒頭部)
この「珍しく」は、どこにかかっていくのか。もちろん次行にかかるのだろうが、「昔、肺病を患った方肺は」から始まる次連にかかっていってもいいような気がした。
同号の特集タイトルは、「黒田喜夫逝去後30周年を巡って」である。ちょっと、おかしくないか。目次ページにあるように「没後」とするか、或いは「死後」としなければ、突き放したことにならない。距離を保っていないものは、誰も見向きもしないのだ。「黒田さんから学んだ生きること=書くことの意味と姿勢」を集めたそうだが、死者は呼び捨てにすることで、客体化されるのだ。このように、すがりつく「姿勢」では誰も読まない。
ついでに書いておくと、黒田の未発表詩らしきものが一篇掲載されているが、これは資料として囲みの内にあるべき物だ(目次にも資料と明記すべき)。現役の詩人たちと混ぜて並べては、さもしさを感じることになる。
同誌は戸谷崗の個人誌らしいが、ここにも空席という言葉を感じてしまう。同号に掲載された吉岡良一「<清瀬村>の頃」の視点や、石毛拓郎「夢魔が眼前で踊る」の予想外の展開といった各文を、戸谷も少しは参考にしたらどうだろうか。
「潮流詩派」石毛拓郎
その石毛からは、個人誌「飛脚」8が届いた。私も句点の打ち方には悩んでいるから、花田清輝の文体を扱った連載評論「もの言う術」には色々と教えられた。石毛は「潮流詩派」には、「詩のふるさと紀行」なる芭蕉論も連載中だ。237号では、芭蕉の旅と発句を追うことで黒田喜夫の生涯にも分け入ろうとしている。「類似、近親性は、片や無足人たる『野ざらし市井民』の非定住であり、もう一方は、婚姻外子無産の『あんにゃ』の不帰郷であった」と語るように、だ。
個人誌で少し困ったものをついでに記しておこう。「奇蹟」1は、津坂治男が創刊した個人誌だ。横書き詩に挑んだり、「斎藤緑雨『短文、寸論、警句』再見」との論を発表したりと、津坂が一人で展開する同誌は、面白くできるはずが何もおかしくない。もっと自分をさらけだすことができないものだろうか。
「詩的現代」田中勲
「天蚕糸通信」が、相変わらずよく出ている。田中勲の個人誌であり、各号ほとんどのページを高島高、北園克衛、立原道造などの先達詩人論で埋め、33号では山村暮鳥と取り組んでいた。
海の遥か向こうが故郷である彼は
なんの遺恨もないと笑っていた
自立した彼の、
あの笑顔の裏面には
暗い海面が波立っていたが
忘れたふりをしても
根深い呪いは偏在する
(田中勲「雨晴」冒頭部)
その田中勲は、「詩的現代」9には「雨晴」を発表している。右は、その書き始めだが、実在の地名を生かして、とにかく分かり良い。
「不虚」森山光章
「不虚」14では、森山光章が作品の他に評論「〔終わり〕の言之葉」を掲載している。鈴木秀肖を論じているようでいて、〔ある〕から〔終わり〕へと向かう自己を冷静に照射していた。
墓石をいつ買うのよ
まだ生きているのにツレが訊く
言われてみれば仏壇もない
信じんもなければ
坊主だって知らないぞ
そこらへんで小石を拾ってくるか
(後藤順「墓石に漬物石」初連全行)
「ひょうたん」53後藤順「墓石に漬物石」は、右の連から始まる。こうした内向性が、「ひょうたん」同人の問題なのかもしれない。それは、「その空の原で」7で読む中村吉則「越後の冬が春を/恋して☆叫ぶ/唸る☆舞い踊る」の対極にあるものだろう。
案山子のような鉄塔が
空っぽの胸を張って威張っている
何を考えているのか
(中村吉則「越後の冬が春を/恋して☆叫ぶ/唸る☆舞い踊る」部分)
次行へのひりつくような期待が、詩を成立させていると分かる。
「夏の予定は草のにおいがして」は、「グッフォー」61海東セラ「見晴らし」の書き出しだ。作中にいささか冗長な個所もあるが、この「予定」という語句が上手く引き締めていた。同誌には土屋一彦をはじめ、ユニークな作品の作り手が揃っているようだ。また、「サイプレス」8での岸田裕史「界面の記憶」は、「トンネル膜を通過すると/電流に彩られた浮ゲートが姿をあらわす」から展開する。こうした言葉の選択も印象的であった。
(了)
※定期購読者は寄稿できますので、9月30日必着でどうぞ。なるべくメールにてウニゲーサビラ。
日録
●9月1日(月) 9号のための原稿依頼状を送付。8通。
●9月2日(火) 知り合いから「今日、あんた、テレビで見たよ」と言われた。私が似ているという吉田類をテレビで見たことを、冗談で言ってるのだと思ったのだが、ほんとに私の姿が映ったということだった。報道番組で、8月23日の辺野古の新基地建設阻止のための集会の様子が放映されて、そこに私の姿があったということだ。これでテレビに映ったのはなんと2度目。
●9月13日(土)ようやく今日から暇人になったので、 辺野古に駆け付けたい気持ちもあるのだが、
今日はパープレの作業に入る。永井さんの「詩誌情報」の打ち込みを大部進めることができた。
※今 辺野古で起きていること
http://www.youtube.com/watch?v=OOPM89qLOq8
海保の対応
http://www.youtube.com/watch?v=hRuIKxbacUQ
●9月20日(土) 辺野古新基地建設阻止のための県民大行動に参加。行動する詩人若丼です。
辺野古新基地建設阻止のための県民大行動!
若丼も気軽にサンダル履きで、辺野古の浜に行ってまいりました。
那覇の県庁前にバス受付時刻の10時半少し前に行ったのに、
バスの乗車券は9号まで埋まっていて、私は10号車ということだった。
那覇市民の意識の高さ!
そして12号まで全席埋まりました。

画像上 辺野古の浜を埋め尽くした5500人の人々!
名護市長の話では、お正月にはこの浜から初日の出を拝んだりするのだが、ここも資材ヤードとして埋められる計画であるということだ。
11月県知事選挙で裏切った現知事を落選させて、埋め立て承認を撤回させる方向性はくっきりしている。

画像中 バスを降りて、会場へ向かう人々。小学生もいる。帽子の色が今からたのもしい。親がカープファンでかぶせただけなのかもしれないけど。

画像下 沖のカヌー隊を応援する小学生。集会にあきて、ただ遊んでるだけかもしれないけど。
帰りに自分の乗ったバス10号車を探すのがたいへんだった。途中、那覇の桜坂の居酒屋友達のおばちゃんと遭遇したのが意外でした。
空気の入ったいい集会でした。私どもおじいさんにとってはヒジョーに疲れたけど。
●10月9日(木)止めよう新基地建設! 10・9県庁包囲県民大行動
http://www.youtube.com/watch?v=wWwo-P-29uc
若丼も多忙のなかを参加してまいりました。
辺野古新基地建設にNOを突きつける3800名の結集!
平日にこれだけの結集はまず成功とみた。
道路を隔てて向こう側では在特会と思しき中年女性のやなヤマトンチュがヒステリックにわめいていた。「こんなにたくさん集まっていますが、この人たちはみんな過激派左翼で…」とか。
でもね、それはサビシイ状況でした。
「過激派」と呼ぶにはちょとためらいがある、琉大と沖国大の学生会も来ていたが、私の数えた限りでは旗持ちを含めて12名。
今年自治会をでっち上げたそうな噂の沖縄大の旗は見られなかった。
解放派は1名だけ目撃できた。あとタメマル派が1名いたかもしれないw
次回は県民5000の結集を目指して、ガンバロー!



●10月21日(火)
このブログの編集画面には「あなたのブログと関連するかも?」という余計なお世話をする情報コーナーがある。最近ここに「 小浜逸郎・ことばの闘い」というブログが挙げられている。小浜は大学の先輩にあたるが、以下のWikiの記事にあるように、困ったことをする男である。私のブログとは全く関連ナシである。
「2008年4月、当時横浜市長であった中田宏の任命により、横浜市教育委員に就任。2012年度まで務めた。新しい歴史教科書をつくる会の中学校歴史教科書(2009年3月検定合格自由社版)を支持し、2009年8月4日、この教科書の採択を推進した。2011年8月4日の採択においても、同様に「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社の歴史および公民教科書を支持した」。
●10月28日(火)
Pプレス9号は、あと1人詩原稿が届くのを待っている。と、詩集評のテープ起こしにけっこう時間がかかっている次第。今月中発行はキビシイか。
↓ この画像はどうよ。

●11月9日(日) 最後の詩が速達で届いたので、これから編集作業も仕上げ段階に入る。
与那覇幹夫・以倉紘平↓第6号と第5号 瀬尾育夫・吉田文憲↓過去録 H氏賞・高木敏次↓「パーマネントプレス復刊準備号発行のお知らせ」より以前
転戦するメディア 詩の新聞
パーマネントプレス 第9号 予告
■詩■
石川為丸 沖縄の園芸作業 4月
石毛拓郎 犀蔵の断崖
井元霧彦 あなたへ
倉田良成 群牛図
坂井信夫 シンタイ
平 敏功 老婆の休日
福原恒雄 友へ 点の文字 ―― 滑る終章
■詩集情報*海山の情*若井信栄
若井 今回も私宛に送られてきた詩集が極めて少なかったため、ここで取り上げる詩集の大部分を為丸師匠に提供していただきました。ついでに前回同様に「対談」というかたちで参加してもらうことにしました。
石川 仕方ないなあ。あなた、しまり、なくなりましたなあ。今回が最後だよ、よいか若井よ。
若井 うーむ、いかん今回! (笑)「言葉遊び特集号」ではないんで、回文遊びはやめましょうね。まず、倉田良成詩集「山海物語集拾遺」(ワーズアウト、14・7・17発行)から。
石川 (笑)倉田は働く、ですね。去年「詩、耳袋――山海物語集の内」を出したばかりで、続いてこの「山海物語集拾遺」の発行ですからね。そしてどの詩も質の高度を保っている。「あとがき」に「一七編ほどから成る本作品集には、前作に同じく世の怪奇に類することがらも多いが、それよりもむしろ怪奇に限定されないこの世の外から到来するモノや感覚に、詩の記述の多くを割き、力を注いだ」とあります。いわば「外からの声」に耳を傾けたところから成り立つ作品集、ということ。
若井 ペラペラ、薄っぺらなものが主流となった時代だからこそ、この作品集は格別に、異彩を放っていますね。
石川 稀有な詩集です。多くの人に読んでもらいたく、特別に謝花屋でも、販売・取り扱いをすることに決めました。「山海物語集拾遺」1200円です。まだ手にしていない方はぜひ御購読の申し込みをしてください。謝花屋まで。
若井 個人的には巻頭の「杉山」が心に残る。倉田さんの詩では、杉山巡礼で「蓬髪の神」と出逢ったような不思議体験が書かれているんだが、私などにも感ずるところがある。杉山神社は横浜市鶴見川に沿った地域を中心に近辺の市町村に点在している神社で、倉田さんは、かつて若いころ、「この杉山神社を、まるで巡礼のようにたずねあるいたことがある」ということです。同じように私の飲み友達だった渡辺さんという方も、この杉山神社を探究していたんだな。私がまだ家庭を持っていた頃、近所にあった町田市つくし野の杉山神社の夏祭りに、その渡辺さんを呼んだことがある。ここの神社の印象は薄かったけど、もう一つ、町田市成瀬のほうの杉山神社は何か感ずるところがあったね。土地が古いんだ。神社の裏ての所から土器が拾えるということで、その渡辺さんの案内で、子連れで出かけたことがある。土器の出るところは教育委員会が発掘していて、柵があって入り込めなかったんだが、散らばっている土器片を棒きれでちょちょいとこちら側に引き寄せて、うまいぐあいに入手したりした。子どもにとってもある意味、大いにビンチョウになったと思う。
ところで、そこの神社の半日陰の所に橙色のきれいな野生の花の群落があったんです。植物好きの私であるからして、普段なら一つ採取して帰るところでしたが、何かそれを許さない雰囲気があったんだなあ。杉山神社とはそういうところです。
石川 妙に懐古的になるのは、若井くんもお年を召されたということかなあ(笑)。ま、若井くんにそういう思いを寄せさせるのも、倉田詩のもつ力だと言もえるでしょう。
集中でわしが私的に特別な思いをもって読んだ詩は「那覇にて」です。「面影」「焼けたるマリア」と、戦争による犠牲者の「鎮められない気」を扱った詩を続けて読んだあとだったので、少しほっとさせられるところもあった。詩で、「那覇についてからは、ヤマト出身だが名を変えてこの地に棲みついた友人とよく飲み歩いた」と書かれているのはわしのことでしょう。名を変えているのは経済にかかわる現実的な理由だったんだ(笑)。
若井 その点では苦労したみたいですね(笑)。経済といえば、この不況のあおりで、詩中の「公設市場のほうから直進してくる道が、百貨店の脇腹の「一」の部分を貫くさまなので、そこにりっぱな石敢当が設けられてある」というくだりの百貨店「三越」も、今年の九月でついに閉店したね。直接詩とは関係ないけど、思うところがあるね。詩で書かれている桜坂の店も今はないしね。
石川 三越消ゆとも石敢當は残る、でしょうね。外観はそのままで、ほかの業種が入るらしい。
この詩の中で、「見える」とか「霊的なもの」についての言及もあるんだけど、沖縄は、これがとても濃いんではないかね。実際にわしは崇元寺石門で、「見える人」になってしまったこともあったからね。道路を隔てた側に、わしはいたんだが、石門のいちばん右側のところ、おばあさんの拝んでいる後姿の隣に異風ないでたちの男が、ぼーっと陽炎みたいに顕っていたんだよ。二日酔いで幻を見たんだろうとか、精神的に疲れていたせいだとか言われたけど、違うと思う。
若井 たしかに沖縄は霊的に濃いね。迷うこともよく聞くね。お盆の時に不謹慎にも摩文仁の海で釣りをしたら思わぬ大漁だったそうな。後日、その場所に行こうとするんだが、どうしてもその場所にたどり着けなかったとか。
こうした体験は私にもありました。自転車で見知らぬ町筋を流すのが趣味で、あちこち行くのですが、たまたま、りっぱなフトモモの木を見つけたんです。花の咲くころに、写真を撮っておきたいと思って、再び行ってみたんだが、どうしてもその場所に辿り着けなかった。
石川 (笑)それは単なる勘違いじゃないの?
若井 何言ってんの、石川くん。ちゃんと目印の建物を頭に入れて、その裏側の小路をまっすぐに行く、というふうにしっかり記憶しておいたんだよ。念のためにその周辺を自転車でぐるぐる回ってみたんだが、どうしても見つからなかった。
石川 (笑)じゃあ、家主がその木を切っちゃったんじゃないの?
若井 もう! おふざけも、いいかげんにしてくださいよ。
石川 はい、わかりました(笑)。でも、その沖縄の路地は霊的なものとは別に、迷いやすいよね。見当をつけて歩いて行ったら元の所に戻ってしまうとか。
あ、「迷う」と言えば、メインプレイスとかでの迷子のお知らせの放送がおもしろい。沖縄独特の言いまわし。「××小学校2年生の○○君が『迷っています』」、というの(笑)。
若井 (笑)聞いた、聞いた。内地では子供に対して「迷う」は使わないよね。なんか人生上の問題に行き迷っているという語感が内地ではあるよね。
石川 うんうん。で、話を戻しますが、わしは、倉田良成詩集「山海物語集」の世界にとことん踏み迷ってみることをパー・プレの読者にはお勧めしたいのです。「目に見えない世界」、「外からの声」を聞き届けてほしいと思います。お申し込みは本紙発行所まで。1200円、送料サービス。
若井 海東セラ詩集「キャットウォーク」(七月堂、14・8・1発行)は、めずらしく私宛にも届いた詩集です。
石川 私もいただきました。
若井 18篇からなりますが、いずれの詩も長いですね。しかし、「冗長」を感じさせない筆力がある。才気あふれる好詩集といっていいでしょう。パーマネントプレスの方向性とは違うけど。
石川 なんか若井くんの言い方は褒め言葉に思えないんだよね。ぜんたい、パー・プレに方向性とかあったのかね。
若井 暗黙の了解があるとは思うよ。私としては、この詩集の中で特に「複製の麗子」という詩に注目しました。
石川 うん、わしもこの詩には付箋を貼っている。ほら。
若井 詩の素材が独特ですね。岸田劉生の絵、「麗子像」を扱っている。
老成した笑まいを浮かべながら、麗子はその絵を親しく/見る、自分とおなじ女の子、ちっともかわいらしくない/のに飾られて、高い天井のレストランに、いかめしい、/ふさわしい、その絵はいつも黙っているので(「複製の麗子」第1連より)
石川 その「麗子像」、中学校のときの美術の教科書に載っていたが、同じく「ちっともかわいらしくない」と感じたものだね。

若井 モデルの麗子は岸田劉生の長女だったはず。表現するうえで、画家として妥協しないところがさすがではあるね(笑)。
石川 この詩の優れているところは、誰もが「ちっともかわいらしくない」と思ったであろう、そういう読む者の共感をもとに、ただそれだけでは終わらせずに、その複製画を見るもうひとりの麗子を登場させている、奥行きのある構成ですね。
水の輪の笑まいを浮かべ、麗子は壁の麗子をながめる、/自分とちがう女の子、潜められて、そっと親しい複製の/麗子も、麗子をさがし はじめる、ちょっと暗めのおかっ/ぱあたまの、無心なキューティクル、ゆれる(「複製の麗子」最終連より)
若井 若い人だと思うのだけど、この詩に限らず才気を感じさせる好詩集ですね。
同じく女性詩人で、迫力のある好詩集がありました。長嶋南子詩集「はじめに闇があった」(思潮社、14・8・6発行)。首相の安倍などが唱える家族観なんかをひょいと蹴っ飛ばすようなところのある、過激な詩集ですね。安倍が最初の首相就任直前に出版した『美しい国へ』の中で、彼は〈「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」という家族観と、「そういう家族が仲良く暮らすのが一番の幸せだ」という価値観は守り続けていくべきだと思う〉と書いていた。また、「美しい国」とは何かということで、彼は首相就任会見でこう答えていた。「その姿の一つは、美しい自然や日本の文化や歴史、伝統を大切にする国。そうした要素の中から培われた家族の価値というものを再認識していく必要がある」 だとよ。こういう古い価値観の押しつけが逆に家族を解体させてきたんだというのにね。
石川 例の人口に膾炙した回文だね。「美しい国」は憎いし苦痛、というの(笑)。
若井 この長嶋さんの詩集は最初から最後まで「家族の闇」でおおわれている。
石川 これは出色の詩集ですね。一篇や二篇ならともかく全篇がこのテーマで貫かれているところが圧倒的ですね。強い、表現に向かう意志を感じる。
どの詩を採ってもいいのだけど、比較的短い「別の家族」がわかりやすいと思う。
早く死んでしまう夫も/暗い目をして引きこもっている息子も 食のない娘も/いっしょに住んでいるこの家族は/よその家族ではないかと疑いはじめた/夜になるとわたしの家族をさがしてうろつく//やっとさがしあてた家の/窓にはりついてヤモリになっていた/蚊帳のなかで小さい子が五人/団子ムシになって固まって寝ている/台所で母がわたしを呼んでいる/ここにいるよ とヤモリの声で叫ぶ/固まって寝ていたムシのなかの一匹が/くねくね這いだしてくる/ヤモリのわたしは無意識にとびついて食べてしまった/そんなからだになってしまって/ヒトが口にしないものまで食べてしまって/もうここにいるしかない と母がいう/おまえはいまだに居場所がわからないのか/バカだね と笑いながら/わたしをつまんで食べてしまった//母はこれから生まれようとしている/何年かのちに娘盛りになった母は/どんな男と出会うのか/わたしはどこに生まれでるのであろう/こんどこそホントの家族に巡りあえる//うろついている どこへともなく/夜の
若井 この詩以外にも「ホームドラマ」や「こわいところ」や「シゴト」や「雨期」など、引用して紹介したい詩はたくさんありますね。
石川 そうですねぇ、「おでん」もいいし「さよなら」もいいね。詩集の最後に収められている「階段」の最終行が、「おわりに闇があった」となっていて、実に徹底している。
若井 読者の皆さんにもお勧めしたいところですが、2200円と、けっこういいお値段なところが。
石川 まあね、表紙に絵画を使っているし、中表紙もしっかりしているしで、お金がかかっているのでしょう。わしら清貧の暮らし人にとっては、二千円を超えると、きついかもね。
若井 (笑)それを言うなら、「清貧」ではなく「赤貧」でしょう。
では、次は大先輩の津坂治男さんの詩集「従容」(土曜美術社出版販売、14・5・18発行)について。今年83歳ということです。
石川 「あとがき」によると冒頭の詩「ハルコガネバナ」は、「東北大震災の翌年に書き、昨年には曲も付きました」ということです。
枯れ枝のような茶色い腕から/グーと突き出したこぶし いくつも/垣根の赤いサザンカの火種を/じっと受け止め ふくらいでいく窓辺の山茱萸//2月の末から3月にかけ 黄色い花がびっしり開く/黄金の陸奥とうたわれた/地震・津波から年かけて立ち上がった/街々や海辺にこの匂いとどけと
(「ハルコガネバナ」第1連より ※詩集では横書き)
山茱萸は、一つ一つの花は小さくて地味だけど、かたまって「びっしり咲く」から遠目にも黄色が鮮やかなんだな。葉っぱがまだ出ないうちに黄色の花だけ咲くから余計目立つ。まさに「春黄金花」だね。若かりし頃、横浜の金沢自然公園で見たことあるよ。
若井 山茱萸の別名がハルコガネバナだったんだ。それなら昔、私も、盆栽用に実生苗を育てていたことがある。池上本門寺の御会式で買ったんだ。
石川 きみが若いうちから盆栽に凝り始めて心配したものだよ。そういう趣味の人は保守的な考えになってしまうからね。山茱萸は秋に鮮やかな、グミのような赤い実をつけるのでヤマグミとも呼ばれる。その鮮やかさから「アキサンゴ」とも。
炎える復興の夏のつぎには/熟したヤマグミ 別名アキサンゴ/1つ1つが 海に隠れて実った/数え切れない想いのように……
(「ハルコガネバナ」第4連より)
若井 いいフレーズが続くね。しかし最後が「花咲け 匂え 500キロ越え/絆を結んで 家の山茱萸……」と「歌」ってしまって終わるところが少しだけ残念だ。曲が付けられてるだけに、「歌詞」ということなのだろうね。
石川 「おまえは歌うな」ということかね。でもさ、最後の3点ダッシュで、津坂さんしっかり持ちこたえてるんではないかな。集中の「冬至」という詩が横溢する批判精神を感じさせるので、わしは一押しですね。
夏至と冬至がぼくはいちばん好き/ともに季節はいっそう厳しくなるが/1日1日指折り数えるうちに/いつか涼しさ温かさが芽を伸ばしている……//でも いつか 文明も正義も雪崩れはじめる/崩至いう日が来そうな気がして/いや もう来てしまっているのかも/そう言や、だんだんいかがわしいことも増えてきた?
(「冬至」第2連、第3連より)
(笑)言葉遊びなんだが「崩至」とやってくれたところが効いていますね。
若井 うーむ、「崩至」ときましたか。世相を振り返ってみれば、「崩至」はもう来てしまっていますなぁ。嘆かわしいことです。
石川 だからよ、老骨に鞭打って、わしら、闘わずにはなるまいよ。
若井 一九四七年生まれ、団塊の世代に当たる堀内統義さんの詩集「ずっと、ここに」(創風社出版、14・8・20発行)はどこかしら懐かしいものがありますね。
石川 わしらは団塊の世代の次のシラケ世代というのに括られるらしいけど、まあ時代的に近いところがあるので、分かりやすいではあるね。
ラジオからは/おじさんが好きだった/東京アンナが流れ */汽車の窓からハンケチを振る */(おじさんもハンケチといった)高原列車も走る/戦争尋ね人を/読み上げる声も…
(「ぼくの大好きなバーバー」より)
詩の素材がわしらの少年時代と重なるところがあるね。註に「昭和二十九年、爆発的なヒットとなった岡本敦郎の代表曲「高原列車は行く」は汽車の窓からハンケチふれば、と始まった。」とある。わしらはこれの替え歌で「〽汽車の窓からフンドシふれば~、牧場の乙女が鼻くそ投げる」とか得意になって歌ったものだよ(笑)。
若井 (笑)私などは育ちがよかったものだから、それはちょっと違ったな。私が懐かしいというのは詩を書き始めた若かりし頃、堀内さんの第一詩集「罠」を友達から借りて読んだことがあったからさ。感覚的な詩を書いていらっしゃったという印象。当然その頃と詩風はずいぶん変わったけれど、この詩集の「もののふ」はいいですね。
石川 うん、これはいい作品ですね。道路工事の現場から勝手に三角コーンを持ち出してきて、勝手に並べ替える作業に没頭する、「うつつから夢へ、夢からうつつへ。あやうい橋をおぼつかない足どりで往還する父の姿」を描いている。
若井 「すめらみくにの、もののふは、いかなる事をか、つとむべき。 ただ身にもてる、まごころを、 君と親とに、つくすまで。」と古い唱歌をくちずませたところが、父の時代への静かな批判になっていると思います。
石川 「あぁーんっ」という詩での言葉遊びもなかなか巧みですね。歯医者の「歯科医 良好」というの(笑)。
若井 同じく団塊の世代に入る樋口武二さんの「異譚集Ⅱ」(誌的現代出版部、14・5・5発行)を読むことができました。
石川 一九四七年生ですね。去年「異譚集」を出していますから、この方の創作意欲も並々ならぬものを感じます。
若井 この世代は退職して時間的にも、また年金が降りるので生活的にも余裕があるので、集中してお文学に向かえるのでいいよね。詩人って、教員や公務員だった人がなぜか多いよな。共済組合加入だから老後は楽勝だ。
石川 この年で生活の心配をしなければならぬわしら無保証者がそれを言うと、僻みにしか聞こえないので、やめれ! 暇があっても書けない人は書けないのだから、結局詩作は努力の賜物なのですよ。
若井 なに言ってんの、石川くん、大した詩も書いていないくせに、偉そうによくいうよ。
石川 若井くんねぇ、「自らの窮屈な日常ばかりを追っていると、どうしても見えるものしか見えなくなります」よ(笑)。これは樋口さんの詩集の「あとがきにかえて」の一文ですが、見えないものの中にこそ詩は存在すると彼は考え、そういうところに書くエネルギーを傾注するために、「ひたすら迷い道に入っていった」ということです。詩集では特に「水路に入る」や「野茨の向こうに」などがそうした事情がよくわかるすぐれた作品だと思いました。
若井 「鬼灯奇譚」「狐の嫁入り」も濃密な詩的世界を構成していていいよ。あと、「西瓜を食べる」の、「女が、ぼそっ、と呟いた/この西瓜、あんたの頭に似ていたんだよ」というブラックが笑えましたね。
木村和夫さんの「青景色蛙御殿(榛名まほろば出版・14・3・20発行)」は題名からしていいよね。
石川 表紙もいいねえ。82歳のしげばあさんが青田につかっている写真。同じ写真の中表紙もいいね。
若井 朔太郎の「青猫」の引用から詩のタイトルの重要性への気づきを述べた「あとがき」もまたいいよね。この方も団塊の世代ですかね。
石川 もっと若いはず。「前橋花火」はコンクリート・ポエトリーをやっている。これをするのは若い人でしょう。「しげばあさんに合(ママ)いに行くために/八百屋に寄ってメロンを買った/田植えの時期なのだろう」という、どこか懐かしい感じの詩行で始まる「その上空の青み掛かった空」の第3連の最後に、「このようなまちに産声をあげて 五十五年」とありますよ。
若井 「青さびの庭」という詩には「七歳のわたしが/戦死した信夫さん/の遺骨を抱いて/埋葬する墓に向かったのは/今日のように/うす青い日差しの/青葉がいっぱいの日だった/しげばあさんは/一人息子を戦争で亡くし/傷ついている家/の養子になったわささん/のところに嫁いできた」とあるからして、戦前生まれじゃないですか。戦死者の遺骨を抱く私がすでに七歳、ということだから。
それにしても、我々のように、あちこち流れ流れてさすらった挙げ句に、こうしてうらぶれた暮らしをしている者たちにとっては、生地にて五十五年も過ごせるとは、羨ましいかぎりですね。こういう生き方は普通できない。
石川 何言ってんのよ、若井くん。その「我々」のなかにわしは入れないでおいてほしいよ。
きみのように、自らの窮屈な日常ばかりを追っていると、どうしても見えるものしか見えなくなってしまうんだな。生き方は、人それぞれさ。人の生き方については、羨ましいとか思いなさんなよ。きみもいい年なんだから、自分の生き方に自信を持たないとあかんよ。今からでも遅くないからね、もっと責任を持った生き方をしなさい(笑)。
若井 またまたなんの根拠もないくせに、えらそうに言う!
石川 まあ、きみも、自らの窮屈な日常ばかりを追っていないで、この詩集のタイトルポエムにあたる「青い衣裳の蛙御殿」をばじっくり味読するといいですよ。「青い衣裳の蛙御殿に/息づくものの生き物は/みんな元気だ」で始まり、「自然のことは自然/に任せておけばいい」で終わる。昔、ちょっとかぶれたことのある思想家、イリッチの「万物のコモンズ」という言葉を思い出すよ。
若井 おお、「プラグを抜く」だね。オルタナティブを提起したけど、何処へ行っちゃたんだろう。
石川 分析は面白かったけど、方針は出せなかったからね。この点に関してはわしにも考えがあるのだが、まあ自分としては、とりあえず詩集を一つまとめるのが先決だな。
若井 (笑)それって、前から言ってることじゃん。詩集の完成はいったいいつになることやら。それと比べると田川紀久雄さんは大したものだ。今年も矢継ぎ早に詩集を出されていますね。「遠ざかる風景」(漉林書房・14・2・20発行)、「聲を求めて」(漉林書房・14・5・15発行)、「哀しみの渚」(漉林書房・14・発行)、「哀しみを越えて」(漉林書房・14・9・15発行)と。
いのちは光を求めて
明日に向けて歩き出した
(「生と死の狭間」より)
詩集の後に詩語りについての、こういう一文がある。「田川紀久雄は、末期ガンを宣告されて以来、いのちについて詩語りを行っています。手術もせずに五年以上も生きています。より語りの深さを求めて活動を行っています。」と。詩集「聲を求めて」は、「詩語り論」という副題が付されているように、文字通り生と死の狭間から、田川さんの詩語りへの熱い思いが静かに語られています。
石川 You Tubeで田川さんの詩語りを拝見しました。他の、「詩人○○の詩の朗読」とかも見ましたが、自己陶酔・自己満足で、はたから見るとでーじ恥ずかしく感じられるものが多かった。そういう朗読とは違い、田川さんの詩語りは確かな修練を積んできていらっしゃるということがよく分かります。もちろん実際に詩語りの場に臨席しないと真のよさは十分に伝わらないかとは思いますが。
若井 詩集「哀しみを越えて」は、「知的障害で横浜のKという施設にはいっている」という妹さんの身体が悪化し始めてから書き出したものだそうです。その事情を示す「喪服」という詩は切ないけどいい詩ですね。
立派な喪服を着て/妹を見送りたい/妹の為に出来ることの最後の務めである/いやこの喪服は/私自身を見送るための喪服であったかもしれない/私が残す最後の遺産/見送る人と/見送られる人の/間を取り持つ喪服/せめて立派な喪服を着て妹を見送りたいものだ
(「喪服)」最終連)
石川 素直に心うたれるところがありますね。
若井 あと、沖縄の三詩集、うえじょう晶詩集「我が青春のドン・キホーテ様」(あすら舎・14・2・12発行)、かわかみまさと詩集「与那覇湾」(あすら舎・14・2・27発行)、八重洋一郎詩集「木洩陽日食」(土曜美術社出版販売・14・6・10発行)を読ませていただきました。ところが、時間とスペースに余裕がなくなってきましたので、これらは次回の宿題とさせていただきましょうか。いずれも優れた詩集なのでゆっくり述べていきたいものです。
石川 そうですね。あと、詩集ではないんですが、横山克衛さんの「詩と物語」と題された「少年ラムダ」(ブイツーソリューション・14・6・22)が読み物として楽しめました。なぜか次の一節が引っ掛かりましたよ。
ラムダは、かつて若い頃に通ったアリサという女の枕元にあった、本などについて、思いに耽っていた。
(あれは、誰の詩集だったろう? あの、夜の底のような部屋で、女に読まれる詩人とは、どんな生き方をした人なのなだろう……)
商売女の寂しい部屋に置かれていた詩集、気になるよねぇ。
若井 (笑)少なくともそれは、為丸先生のような詩集でないことは確かだね。
(つづく)
■詩誌情報*おや、空席ですか*永井孝史
と或る国立大学からL研の誰かが、「俺ら、京学連に命を賭けてるんや」と言いながら、我が学生会館に単身で乗り込んできたことがあった。適当学部のWPP(戦争準備会)経由で、その一報が作業中の私に届いた。もちろん、結党以前のL研であり、誰かとはAなのだから、一九七〇年秋のことだ。「命を賭けてはるんやて」と、一報に接した私たちはどこか他人事であった。現地で一歩も退かなかったC戦とかマル青全国展開なんてのは、ずっと後のことである。
学術団や文連、体育会、学生放送局などで構成していた学友団を、私たちは過度的に名乗ったことがある。学友会中央委員の選出人数に換算すると、わずか7名の勢力だ。このため、学友団の団長(学友会中央委員長が兼務)を空席にして、基団連から副団長を選出した。その後、4学部での自治会選挙を経て、6月には学友会を再建することになった。
一方、と或る国立大学でも在籍学生5人に1人の割合で抽出した教養部代議員によるC代議員大会が、本当に久しぶりに同じ6月に成立した。旧3号ボックス系と言ってはいけない。パルチの残党くらいにしておこうか。そうした部分だけで、C自、そして同学会を再建したのだ。再建会議っぽく言えば、一九六五年秋の失陥からなんと5年足らずで蘇ったことになる。一時は、1学部だけを除き全学の意志が同学会に結集したものだ。
2つの学校で、どちらも全学自治会を再建したとなると、次は府学連の番だと何人かが思った。私もそう思った。ところが、出現したものはL研のAが「命を賭けてはる」京学連であった。府学連(京都府学生自治会連合)と、京学連(全京都学生連合会)の名称はかなり似ていたが、その中身はまるっきり違っていた。
府学連には、少数意見をとことん尊重する悪しき伝統があった。
「エフさん、また無茶しよります。」
「言わはるようにしとき。エフさんのほうが、わしらの事かってよう知っとるで。」
すぐお隣の学校には、とてつもなく厄介な事情が二つもあった。それでも、何喰わぬ顔でこちらを立ててくれたし。彼らが欲しいというのなら、副委員長でも書記長でも、執行委員の頭かずでも、気前良く欲しがるにまかせたものだ。87名の学連代議員の圧倒的多数が出席し、その出席代議員の圧倒的多数が出席し、その出席代議員の過半数を有していても、強引に採決することは殆どなく、できるだけ修正協議で解決してきた。
その府学連は、遂に再建される事がなかった。一九六八年九月の第25回定期大会が、最後の大会であった。執行委員14名(規約上は19名)全員を、この大会で始めて独占した。書記長だけをと或る国立大学の文学部3年性にした他は、委員長に春の代行から定着した有力学部4年生、副委員長にⅡ部4年生、書記次長におざなり学部3年生など、残り13名は全員が同一学校の学友であった。
もっとも、と或る国立大学の文学部学友会(学部や高校の自治会でも学友会を称することが多かった)では、留年生だらけの在籍学生100名前後のうち、府学連書記長を名乗った例の3年生以外に、府学連の何かを引き受けるような奇篤な学生は一人も居なかった。
府学連の加盟校は、二つの国立大学と二つの私立大学のみ。他に、第2「府学連」策動時に「第2加入」という奇策に出た公立大学(府立医大ではない)が1校だけあったと記しておこう。府学連は、全学連の単なる都道府県レベルの支部にとどまらなかった。だから、某大学某学部の諸君も結集していた。
また京学連であるが、簡単に言えば前述した二大学の全学自治会のやり放題であった。誰の言うことを聞く必要もなく、逆に大国政治だと、どこかには揶揄されるほどであった。反赤テキの一点で、12・18ブンドを蜂起戦争派に東京で取りもったこともある。赤テキのRGの方がはるかに強くって、あっという間に負けてしまった。勝ちさえしていれば、公園の入り口に京学連の隊列が登場するはずだった、
「いのちの籠」井元霧彦
短い旅に出ました
まだ間に合うはずだ と
鎮守府舞鶴では
もうぼくの幼友だちは 死んでいました
(井元霧彦「人間の学校 その一七三」部分)
「いのちの籠」27井元霧彦「人間の学校 その一七三」は、本紙8の特集文「浜坂への小旅行」を詩に発展させたもの。
上段に少し抜き出したが、非常に簡潔な描写で効果を高めているのだが、良かったのはこの詩だけだ。
この作品が目に付くというほどに、逆に言えば「いのちの籠」は頽廃していると言っているようなものだ。主旨が凄いから自分はこの程度でいいんだとばかりに、形式ばった作品がのさばっている。名前だけ連ねて、偉そうに正しいことばかり書いておけばそれでいいという態度が蔓延している。だから、疑いもなく再掲載の詩が増殖する。これも空席のなせる業なのだろう、きっと。
現下の状況を憂うのは良い。だが、正しければそれで充分というわけではない。私が再三にわたり語ってきたように、一つの潮流が学内から絶滅(?)したとしるや、何の関係もなく、あるいは右派秩序派と同伴するしかなかった後ろ暗い連中が、さも運動の主体であったかのように勝手なことを安心して言いふらす。それくらい、油断ならぬ時代を迎えているのだろう。
「言葉の海へ」村嶋正浩
村嶋正浩から、個人誌「言葉の海へ」1・2が届いた。どちらの号も、村嶋の詩と映画評が各1篇発表されており、装丁も洒落ている。詩は、言葉を道具のように操る村嶋らしいもの。ここでは「風景の海へ」と題した映画評に触れておこう。「そこのみにて光輝く」を取り上げた2号では、「家族は言わば生きることで犯した罪の共犯関係にある集団」だから、「家族は面倒なものだ」と断じている。このあたりに、村嶋が個人誌からなら詩の世界に戻れる意味合いも読み取れるのだ。
「YOCOROCO」佐藤裕子
渋谷美代子と佐藤裕子の同人二人で創刊した「YOCOROCO」1を落手した。同誌に佐藤は、2作品を掲載している。そのひとつ「夢を見ていた遠い昔の」の初連に、「五線譜に挿した止まり木で物を言う鳥が鏡文字をオクターブ高く浮上する」との行があった。こうした整序だった造りが、ありていに言えばその目線(視線)が気になるのだ。
「gaga」難波保明
「gaga」13で、難波保明「鎌倉」を読んだ。相変らず上手い詩は、こう始まる。
七十四歳になる父と
一度だけ鎌倉の旧跡を散策したことがある
外出を常としない父にしては珍しく
(難波保明「鎌倉」冒頭部)
この「珍しく」は、どこにかかっていくのか。もちろん次行にかかるのだろうが、「昔、肺病を患った方肺は」から始まる次連にかかっていってもいいような気がした。
同号の特集タイトルは、「黒田喜夫逝去後30周年を巡って」である。ちょっと、おかしくないか。目次ページにあるように「没後」とするか、或いは「死後」としなければ、突き放したことにならない。距離を保っていないものは、誰も見向きもしないのだ。「黒田さんから学んだ生きること=書くことの意味と姿勢」を集めたそうだが、死者は呼び捨てにすることで、客体化されるのだ。このように、すがりつく「姿勢」では誰も読まない。
ついでに書いておくと、黒田の未発表詩らしきものが一篇掲載されているが、これは資料として囲みの内にあるべき物だ(目次にも資料と明記すべき)。現役の詩人たちと混ぜて並べては、さもしさを感じることになる。
同誌は戸谷崗の個人誌らしいが、ここにも空席という言葉を感じてしまう。同号に掲載された吉岡良一「<清瀬村>の頃」の視点や、石毛拓郎「夢魔が眼前で踊る」の予想外の展開といった各文を、戸谷も少しは参考にしたらどうだろうか。
「潮流詩派」石毛拓郎
その石毛からは、個人誌「飛脚」8が届いた。私も句点の打ち方には悩んでいるから、花田清輝の文体を扱った連載評論「もの言う術」には色々と教えられた。石毛は「潮流詩派」には、「詩のふるさと紀行」なる芭蕉論も連載中だ。237号では、芭蕉の旅と発句を追うことで黒田喜夫の生涯にも分け入ろうとしている。「類似、近親性は、片や無足人たる『野ざらし市井民』の非定住であり、もう一方は、婚姻外子無産の『あんにゃ』の不帰郷であった」と語るように、だ。
個人誌で少し困ったものをついでに記しておこう。「奇蹟」1は、津坂治男が創刊した個人誌だ。横書き詩に挑んだり、「斎藤緑雨『短文、寸論、警句』再見」との論を発表したりと、津坂が一人で展開する同誌は、面白くできるはずが何もおかしくない。もっと自分をさらけだすことができないものだろうか。
「詩的現代」田中勲
「天蚕糸通信」が、相変わらずよく出ている。田中勲の個人誌であり、各号ほとんどのページを高島高、北園克衛、立原道造などの先達詩人論で埋め、33号では山村暮鳥と取り組んでいた。
海の遥か向こうが故郷である彼は
なんの遺恨もないと笑っていた
自立した彼の、
あの笑顔の裏面には
暗い海面が波立っていたが
忘れたふりをしても
根深い呪いは偏在する
(田中勲「雨晴」冒頭部)
その田中勲は、「詩的現代」9には「雨晴」を発表している。右は、その書き始めだが、実在の地名を生かして、とにかく分かり良い。
「不虚」森山光章
「不虚」14では、森山光章が作品の他に評論「〔終わり〕の言之葉」を掲載している。鈴木秀肖を論じているようでいて、〔ある〕から〔終わり〕へと向かう自己を冷静に照射していた。
墓石をいつ買うのよ
まだ生きているのにツレが訊く
言われてみれば仏壇もない
信じんもなければ
坊主だって知らないぞ
そこらへんで小石を拾ってくるか
(後藤順「墓石に漬物石」初連全行)
「ひょうたん」53後藤順「墓石に漬物石」は、右の連から始まる。こうした内向性が、「ひょうたん」同人の問題なのかもしれない。それは、「その空の原で」7で読む中村吉則「越後の冬が春を/恋して☆叫ぶ/唸る☆舞い踊る」の対極にあるものだろう。
案山子のような鉄塔が
空っぽの胸を張って威張っている
何を考えているのか
(中村吉則「越後の冬が春を/恋して☆叫ぶ/唸る☆舞い踊る」部分)
次行へのひりつくような期待が、詩を成立させていると分かる。
「夏の予定は草のにおいがして」は、「グッフォー」61海東セラ「見晴らし」の書き出しだ。作中にいささか冗長な個所もあるが、この「予定」という語句が上手く引き締めていた。同誌には土屋一彦をはじめ、ユニークな作品の作り手が揃っているようだ。また、「サイプレス」8での岸田裕史「界面の記憶」は、「トンネル膜を通過すると/電流に彩られた浮ゲートが姿をあらわす」から展開する。こうした言葉の選択も印象的であった。
(了)
※定期購読者は寄稿できますので、9月30日必着でどうぞ。なるべくメールにてウニゲーサビラ。
日録
●9月1日(月) 9号のための原稿依頼状を送付。8通。
●9月2日(火) 知り合いから「今日、あんた、テレビで見たよ」と言われた。私が似ているという吉田類をテレビで見たことを、冗談で言ってるのだと思ったのだが、ほんとに私の姿が映ったということだった。報道番組で、8月23日の辺野古の新基地建設阻止のための集会の様子が放映されて、そこに私の姿があったということだ。これでテレビに映ったのはなんと2度目。
●9月13日(土)ようやく今日から暇人になったので、 辺野古に駆け付けたい気持ちもあるのだが、
今日はパープレの作業に入る。永井さんの「詩誌情報」の打ち込みを大部進めることができた。
※今 辺野古で起きていること
http://www.youtube.com/watch?v=OOPM89qLOq8
海保の対応
http://www.youtube.com/watch?v=hRuIKxbacUQ
●9月20日(土) 辺野古新基地建設阻止のための県民大行動に参加。行動する詩人若丼です。
辺野古新基地建設阻止のための県民大行動!
若丼も気軽にサンダル履きで、辺野古の浜に行ってまいりました。
那覇の県庁前にバス受付時刻の10時半少し前に行ったのに、
バスの乗車券は9号まで埋まっていて、私は10号車ということだった。
那覇市民の意識の高さ!
そして12号まで全席埋まりました。

画像上 辺野古の浜を埋め尽くした5500人の人々!
名護市長の話では、お正月にはこの浜から初日の出を拝んだりするのだが、ここも資材ヤードとして埋められる計画であるということだ。
11月県知事選挙で裏切った現知事を落選させて、埋め立て承認を撤回させる方向性はくっきりしている。

画像中 バスを降りて、会場へ向かう人々。小学生もいる。帽子の色が今からたのもしい。親がカープファンでかぶせただけなのかもしれないけど。

画像下 沖のカヌー隊を応援する小学生。集会にあきて、ただ遊んでるだけかもしれないけど。
帰りに自分の乗ったバス10号車を探すのがたいへんだった。途中、那覇の桜坂の居酒屋友達のおばちゃんと遭遇したのが意外でした。
空気の入ったいい集会でした。私どもおじいさんにとってはヒジョーに疲れたけど。
●10月9日(木)止めよう新基地建設! 10・9県庁包囲県民大行動
http://www.youtube.com/watch?v=wWwo-P-29uc
若丼も多忙のなかを参加してまいりました。
辺野古新基地建設にNOを突きつける3800名の結集!
平日にこれだけの結集はまず成功とみた。
道路を隔てて向こう側では在特会と思しき中年女性のやなヤマトンチュがヒステリックにわめいていた。「こんなにたくさん集まっていますが、この人たちはみんな過激派左翼で…」とか。
でもね、それはサビシイ状況でした。
「過激派」と呼ぶにはちょとためらいがある、琉大と沖国大の学生会も来ていたが、私の数えた限りでは旗持ちを含めて12名。
今年自治会をでっち上げたそうな噂の沖縄大の旗は見られなかった。
解放派は1名だけ目撃できた。あとタメマル派が1名いたかもしれないw
次回は県民5000の結集を目指して、ガンバロー!



●10月21日(火)
このブログの編集画面には「あなたのブログと関連するかも?」という余計なお世話をする情報コーナーがある。最近ここに「 小浜逸郎・ことばの闘い」というブログが挙げられている。小浜は大学の先輩にあたるが、以下のWikiの記事にあるように、困ったことをする男である。私のブログとは全く関連ナシである。
「2008年4月、当時横浜市長であった中田宏の任命により、横浜市教育委員に就任。2012年度まで務めた。新しい歴史教科書をつくる会の中学校歴史教科書(2009年3月検定合格自由社版)を支持し、2009年8月4日、この教科書の採択を推進した。2011年8月4日の採択においても、同様に「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社の歴史および公民教科書を支持した」。
●10月28日(火)
Pプレス9号は、あと1人詩原稿が届くのを待っている。と、詩集評のテープ起こしにけっこう時間がかかっている次第。今月中発行はキビシイか。
↓ この画像はどうよ。

●11月9日(日) 最後の詩が速達で届いたので、これから編集作業も仕上げ段階に入る。