ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

"楽観的になれるコツ"をするためのコツ

2022-02-24 | 旧記事群

「性格や気の持ちようによって業績は上下する」のは事実だ。

性格や気の持ちようは自身が持つ能力の方向性を決めるための要因であり、能力が発揮されるかされないかは気分ひとつで決まることもしばしば。

認知能力ひとつとっても、誠実さが堅実な業績を導き出したり好奇心が美学の追及を促したり、あるいはサイコパスであれば犯罪のためにそれを行使することだってありうる。

物事を悲観的にとらえていれば千載一遇のチャンスを危険と判断して退けたり、逆に無責任なまでに楽観的であればゼロに近い確率を「100%だ!」と誤認して自滅することも考えられる。

 

能力は業績と一番に関係している要素だが、その関係を保つ要素として一番に上がるのが性格や気の持ちようとなる。

なので、業績の向上において楽観的かそうでないかも焦点に充てるべき事柄である。

 

ではここから、楽観的に物事を考えられるようになるコツを紹介する。

どうしても物事をネガティブにとらえてしまう、悲観的になって自分を追い詰めてしまう、というお方必見の情報だ。

正直、何番煎じかもわからない内容だが、どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。

 

 

まず、寝ろ。

そして食え。

飽くまで遊べ。

はいこれで楽観的になれるコツの9割を教えましたご愛読ありがとうございました。

 

上記の条項は、決しておふざけで言っているわけではない。

というのも、楽観的な思考法にはまずそれを行えるだけの充分な認知能力を必要とするからだ。

例として、「事柄を客観的に分析して、どれだけ自分に非があるのかを可視化する」ような思考法なら、客観的分析という高度な認知能力が必要となる。

 

楽観的に物事を考えられるようになるコツを嘆願するの人は、悲観的に物事をとらえてしまうほどのストレスを抱えている可能性が高い。

極端な例だが、失敗事例が頭の中でぐるぐると回って気づけば自分のあら捜しが始まったり、他人が自分に完璧を求めているように感じ些細なミスも許せなくなっている状態でもあるのだ。

まずこれを解消し正常な認知を取り戻さなければ馬の耳に念仏。

ストレスにより認知能力が削がれた人に楽観的になれる思考法を教えても、「うつ病を解消するのに運動がいいって、まず運動をするだけの気力がありません」の類似例となるだけである。

なので気が済むまで休もう。話はそれからである。

 

 

目安は休むことに罪悪感を感じなくなるまで。

「休息なんてしてる場合じゃない」なんて脅迫観念が現れるのであれば旅行ぐらいの強烈なリフレッシュをお勧めする。もしくはお近くの心療内科まで。

 

 

参考文献

Peter Schulman(1999) Applying Learned Optimism to Increase Sales Productivity.

Astill, R. G., Van der Heijden, K. B., Van IJzendoorn, M. H., & Van Someren, E. J. W. (2012). Sleep, cognition, and behavioral problems in school-age children: A century of research meta-analyzed.


食わず嫌いがなかなか治らない理由

2022-02-23 | 旧記事群

『食わず嫌い』

口にしたこともない食べ物を嫌いだと決め込むこと。

転じて、物事に対して偏見を理由に嫌うことを指す。

 

恐らく、読者のほとんどはこの現象を経験したことがあるだろう。

食べ物であれば口にせず、事柄であれば聞く耳を持たず、そこに正当な理由があるかと問うても顔を強張らせるだけ。

「そんな偏見を持っていても意味なんてないぞ」「偏見を持っていたら失う利益のほうが大きいぞ」と、周囲は善意を持ってその偏見を修正しようとするが、

当の本人は周囲に対し、いや、偏見の修正という行為に対し強い不愉快を感じることだろう。

放っておいてくれ、余計なお世話だと、偏見の修正を遠ざけようとすることもあるだろう。

 

周囲が主張するように、偏見を持っていても誤った判断を下しやすくするだけで基本的に不利益だが、

なぜ私たちは偏見の修正に不快感を感じるのだろうか。

 

 

そもそも偏見とは、特定の事象に対する知識が少ない状態でその事象を判断しようとしたときに発生するものであり、

少ない知識を独自の推論で補うという構成のため、知識の補填が行われない限り必然的に独自の推論や感情的判断が大部分を占めることとなる。

そのため偏見は『自分に合わせた』判断基準になることが多く、非常に居心地のいいものとなる。

 

で、偏見の修正とはここで言う知識の補填に当たるのだが。

知識の補填とは特定の事象に対する判断のうち客観的指標や事実などの知識の割合を増やしていく、つまり独自の推論や感情的判断の割合を減らす行為であり、

『自分に合わせた』判断基準から『自分が合わせる』それへの変遷ともいえる。

んで、『自分に合わせた』判断基準という非常に居心地のいいものを誰が手放すものかと躍起になり、私たちは偏見の修正に不快感を感じるという訳になる。

 

 

食べ物であれば「これはまずいものだ」という判断を覆したくないから口にしない。

事柄であれば「自分はこう思っているんで」と自分の主張を崩したくないから聞く耳を持たない。

そこに正当な理由があるかと問うても、湧き出る不快感をうまく言語化できないから顔を強張らせるだけ。

 

周囲は善意を持って偏見を修正しようと話を持ち掛けるが、

当の本人としては食わず嫌いである現状を守りたいので、周囲に不快感をあらわにするのだ。

 

 

参考文献

EMichael Nussbaum,Lisa DBendixen (2003) Approaching and avoiding arguments: The role of epistemological beliefs, need for cognition, and extraverted personality traits.


"物思いにふける"ことが望ましくない理由と、その対策

2022-02-21 | 旧記事群

「人間は起床時間の半分、物思いにふけている」とする知見もあるように、私たちにとってなにかを考えるという行為は非常にポピュラーなものだ。

晩御飯なに食べたいとか知人は今なにしてるのだろうとか。

将来何になりたいとかそれを成すためには何をすればいいのだろうとか。

或いは、急に俯瞰的になり現状の自分をただ責めたりあら捜ししたり。

もしくは、世界観と物語を作り自分だけの世界を楽しむのか。

物思いのあり様は非常に多様だ。

が、物思いにふけるという行為は基本的にネガティブな気分をもたらすという。

 

 

その理由の1つに、"物思いがひまで退屈なときに起こりうるものだから"が挙げられる。

まず、私たちの脳には『自身に意識を向ける』『外に意識を向ける』選択をする部位がそれぞれ存在し、お互いがシーソーのように作用しあいその傾きから意識の方向を決めるのだという。

で、外部からの刺激が乏しいときは必然的に『自身に意識を向ける』選択に傾き、『外に意識を向ける』用のリソースも割かれちゃうのだという。これが物思いの原理である。

この物思いが常習化すると本来であればあまり考えないであろうことを根掘り葉掘り掘り下げる、いわゆるあら捜し状態に突入し、結果気分が下がるというのだ。

 

例えとして、あなたがいま単調作業のアルバイトをこなしていたとしよう。

単調作業のアルバイトは2週間もすれば慣れ、作業に特別な意識を向けることなく業務を遂行することだろう。

あなたは作業の合間に考え始める……。

「俺はこのままの生活を続けてていいのだろうか」「なにか行動を起こすべきじゃないのだろうか」「でも何をすればいいのかがわからない」「何もしない俺は無価値じゃないのか」「そもそも俺とはいったい?」「2、3、5、7、11……」

自問自答しても決着がつかないような問答を、悶々と延々と考え毎日が過ぎる、そんなイメージだ。

ここまで思い詰めると「ーーーそしてアルバイトは、考えるのを止めた」ほうが気が楽になる、旅行とか運動などの刺激を与えてリフレッシュすることをお勧めしよう。

 

 

ちなみに、物思いは基本的にネガティブな効果をもたらすといったが。

物思いのあり様は非常に多様なもんで、例外もきちんと確認されている。

 

2020年に発表された文献によると、マインドフルネスかつサブカルチャー消費が激しい人は、物思いによってポジティブな感情を抱くことができたという。

なんでも、マインドフルネスが高いことはあら捜しの抑制につながり、サブカルチャー消費が激しいことは物思いもとい空想の材料に困らないため、いくらでも空想に没頭できるからなのだという。

ここでいうあら捜しとは『創作に刑法の適応を試みる』ようなものであり、マインドフルネスという一種の客観的視点を得ている人は、それが無粋なことであると理解しているのだ。

 

創作に茶々を入れず没頭できる人は、自分の空想にも没頭できる。

起床時間の半分をより活用したいのであれば、ぜひ参考にするといい。

 

 

参考文献

Yoshinori Sugiura(2020) Relation Between Daydreaming and Well‑Being Moderating Effects of Otaku Contents and Mindfulness


"失職したからヤケ酒する"描写はなぜ起こるのか

2022-02-20 | 旧記事群

「失職したからヤケになり浴びるように酒を飲む深夜」

なにか嫌なことを忘れようとアルコール類に浸る様は、こんな雑な描写でも伝わるぐらいには浸透している。

そして、この類の描写は何かしらのきっかけがないと終わらないことも、大体の人は納得するだろう。

 

嫌なことを忘れようと酒瓶を開ける行為は嫌なことに対する対処でもなんでもなく、ただの逃避の表れ。

嫌なことの解消にはつながらないため、どれだけ浸ろうが満足しないのだ。

であれば、酒を口にするのをやめ嫌なことに対処しなければ事態は好転しないのだが。

恐らく、この状況に陥った人のほとんどがそれを感情的に拒否するだろう。

この『感情的な否定』のメカニズムとは、なんなのだろうか

 

 

基本的に、私たちは理想と現実があまりにもかけ離れている場合その比較からやる気を失ってしまう

もともとテストで60点だった子が努力して90点を獲得してたとしても、目標を500点として設けているその子はたった30点の上昇に落胆するようなイメージだ。

理想と現実の乖離が激しくなると、私たちは目標にちっとも届かないと自暴自棄になり、ストレスを抱え込んだりトラブルを起こしやすくなったり、もしくは報われない思いから行動そのものをしなくなる傾向にある。

 

そして、この理想と現実の乖離が激しい状態はアルコール消費を激しくする。

目標に届かないと自暴自棄になり、報われない思いがストレスとなり、そのストレスから逃れるために酒に浸るようになるのだ。

その状態から逃れようにも「どうせ行動したって理想には届かない」と行動をためらうため、酒を陳列する日々からの脱却が困難になる。

結果的に、最初に挙げた描写のような状態になるのだ。

 

 

理想と現実の乖離は、理想に近かったであろう現実が崩れることでも起こりうる。

失職は強いストレスでもあり、また理想と現実が大きく乖離する瞬間でもあるので、よりアルコールにしがみつきやすくなると推測する。

 

 

参考文献

Jessica R.Canning,Julie A.Patock-Peckham et al. (2019) Perfectionism discrepancy and falling short of the ideal self: Investigating drinking motives and impaired control on the road to alcohol-related problems.

ShailaKhan,Robert PMurray et al. (2002) A structural equation model of the effect of poverty and unemployment on alcohol abuse.


ささやかな励ましと気遣いは、人の命を救うほどに強い

2022-02-19 | 旧記事群

励ましは、意外なほどに私たちに活力をくれる。

運動会で懸命に体をはっている時にかけられる「がんばれ」の声援。

受験勉強に打ち込んでいる時に添えられる一切れのケーキ。

残業でくたびれ背筋伸ばしたときに渡される同僚のおごりのコーヒー一杯。

そんな他人からのささやかな気遣いを嫌がる人は、ほとんどいないだろう。

 

なぜ私たちは、励ましから活力を得られるのだろうか。

理由の1つに、私たちはエゴを抱え、自分の期待を満たすために生きていることが挙げられる。

その証拠として、2つの例を紹介する。

 

あなたがいま、何かしらの発表会で登壇していたとしよう。

この場合、ほとんどの人は「失敗するのがこわい」という緊張を抱えることだろう。経験したことは少なくないはずだ。

この緊張は失敗することで被害を被る聞き手のことを思ったものではなく、失敗することで自分が非難されるかもしれないという恐怖から来ているものである。

その証拠に、『よほどのことがない限り人は非難しない』という事実を経験すると、それまでの緊張が嘘のように消える

非難されるかもしれないという恐怖がなくなったことで、緊張する理由の大半が消えてしまったからである。

 

ほとんどの人が経験した事があるであろう「あなたのためを思ってやっているのよ」というような主張。

一方的で極端な支援は的外れであることが多く、それを指摘すれば感情的な返答が帰ってくることだろう。

それもそのはず、この支援は対象を思いやったものではなく「対象を思いやっている私凄くイケてる!」といった自分への思いやりが具現化したものだからである。

本当に対象を思いやっている支援であれば批判を真摯に受け止めることだろう、間違っても「私の感謝が受け取れないっていうの!」なんて返してこないはずだ。


この通り、私たちは、私たちの想像以上に、自分自身に集中しているのだ

ゆえに、自分を気にかけるような仕草であれば、たとえささやかな励ましであっても「私のことを気にしてくれている!」と対象の気分を上げてくれるのである。

 

この励ましがもたらす活力はどれだけのものなのだろうか?

2001年に発表された文献によると、研究者からの手紙を受け取った対象群は、手紙を受け取り続けた2年間自殺率が減少したという。

研究対象となったのは、主に自殺未遂を理由に精神科に入院した子たち。

そんな"一触即発"な子たちを食い止めたのが、研究者直筆の手紙だったと主張している。

 

手紙の内容はそこまで凝ったものではない。

「久しぶり。最近調子どう? 返事くれるとうれしいな」というような、日本でいうハガキぐらいの簡単なものだ。

現代であれば同内容をLINEでひとこと送るに等しいこの行為が、受け取った人の命を救っていたというのだ。

 

そしてこの行為がなぜ有効なのかは、その返答がよく示している。

"You are the most persistent son of a bitch I've ever encountered, so you must really be sincere in your interest in me.(あなたは今まで出会った中で最もしつこいクソ野郎だから、私のことを本当に気にかけてくれているに違いない"

 

ささやかな励ましと気遣いは、人の命を救うほどに強いのだ。

 

 

参考文献

Jerome A. Motto,Alan G. Bostrom (2001) A Randomized Controlled Trial of Postcrisis Suicide Prevention.