京都市―といっても、行政区域上の面積は広大なものである。猪や鹿の出没する山また山や何百年という間、斧も入れたことのないような大森林が、京都市何々区何町であったりする。
広い市だが、そのなかに寺と名のつくものが、実に1600余も存在するという。この数はたしかに日本一だ。ただし東西の両本願寺のような宏壮な境内と伽藍を持つ大寺も、たった1棟だけの、ささやかな御堂や草庵も、ビンからキリまでの、いっさいがっさいをふくめての話である。
これらの寺は、いったい、どのようにして毎日のくらしをたてているのか。どんな方法で、その財政を維持しているのだろうか。
京都だからといって,どの寺もみんな、すばらしい彫刻や絵画、建築や庭園を持っているわけでは決してない。いや、そんな寺は、むしろ案外少ないのである。国宝級の古文化財や名園の拝観で収入を得ているのは、1600余ヵ寺のうち、たった60ほどしかない。ほとんどが檀家を持ち、墓地があり、葬式や法要を営なみ、坊さんがお経を上げ、お布施をもらっているという最も普通の形の寺である。当然、檀家の多い少ないによって裕福だったり貧乏だったりする。こうした寺院の経済については、特に説明するまでもないと思うので、ここでは触れない。
問題は1軒の檀家、1人の信徒もなく、墓地もない寺である。京都には、こうした寺がかなり多い。
真先にことわっておかなければならないのは、一般的にいって、宗教法人になっている寺には、国税も地方税も、およそ税金と呼ぶものが一銭もかからないことである。法人税も事業税も住民税も固定資産税も、寺はまったく納める義務がない。年がら年じゅう税金に追っかけられて、ゼイゼイ息を切らしているわれわれとは、まったくちがう。
ただ京都の場合、年間の拝観者2万人を越える32の寺が、観光税―正しくは文化保護特別税を、拝観者1人につき10円ずつ、市税として納めているが、これは例外と考えてよかろう。拝観料は寺によってちがい、最低40円から最高100円まで。お志という寺もある。
このような無税地帯ともいうべき寺院は、どこも極端な秘密主義をとり、経理の内容をひた隠しに隠している。拝観料をうんと稼いでいる寺ほど、この傾向がひどい。宗教法人は、株式会社のように毎期の決算を株主に発表しなければならないという義務がないから、外部の者は、その収支など、おおよそを推定するより仕方がないのである。
戦前は寺領の農地を持って、そこから小作料をとり、そのはかに御内帑金という名の維持費を毎年、宮内省からもらっていた、いくつかの門跡寺がある。代々、皇族が住職を勤めている寺だ。
一乗寺竹ノ内にある曼殊院、大原の三千院、東山七条の妙法院、粟田口の青蓮院、山科の毘沙門堂は、天台宗の門跡寺院だが、このほかに内親王を住職とする尼門跡としては寺之内通りの宝鏡寺、鹿ヶ谷の霊鑑寺、修学院離宮に近い林丘寺などがあり、これらは昔から高い格式を誇ってきた。
ところが戦後は農地解放令で田畑を手放し、維持費の支給も廃止され、糧道を絶たれてしまった。売り食いの生活も長続きするはずがないので、重要文化財や史跡名勝を持つ寺は公開に踏み切って、拝観料を稼ぐことにした。曼殊院、三千院、青蓮院などがそれだ。
青蓮院は経済のやりくりに苦しんだころ、国宝、重要文化財を売ったことが、最近になって、さらけ出され、その名が一躍天下にとどろいたが、ここは10年ほど前、京都市バスと京阪バスの夜の遊覧コースに繰り入れられてから、収入が急上昇した。都心に近いから、地の利がある。これをバスのコースとして売りこんだ、寺のたくましい商魂は、まことに御立派。現在までに、この夜の遊覧で青蓮院に入った金は、総計1億円を下らないという。そのほかに一般の拝観料も年間1000万円にはなるのではないかといううわさだ。宝物のヤミ売りが発覚してからは、拝観者がますます、ふえているというから面白い。
曼殊院は公開を始めたころは、広い建物も庭園も、かなり荒れ、室の天丼に雨もりの跡があったり、畳が湿気を吸ってふくれ上がっていたが、いまは修理され美しくなっている。ふところ工合がよくなった証拠だろう。三千院は往生極楽院本堂と阿弥陀三尊があり、100円なりの拝観料に古美術マニアが押しかけ、シーズンの休日は大混雑する。
妙法院の場合は、これらとはちがう。この寺自体も観るべき建築と庭園があるが、それよりも、ここは御存知の三十三間堂を持っており、その拝観料が莫大だ。何しろ清水寺、金閣寺とともに古くから京都三名所の一つで、戦前から公開しており、修学旅行などの団体が毎日、貸し切リバスで押し寄せる。
この細長い建物を取り巻いて最近、丹塗りの総門と回廊ができたのは結構だが、昇降口に、なくもがなの殺風景な四角のコンクリート建築が出現したのは、もうかりすぎる結果かも知れない。
宝鏡寺は人形の寺として客を集め、一方では先生を雇って、お茶、生花、習字などを、お嬢さんたちに教えている。毘沙門堂などは見物の対象になるものが何もないから気の毒だ。売り食いでもするほかはない。同志社大学に土地を売った尼門跡もある。
金閣寺、銀閣寺は、どちらも昔からの名所で、拝観料はともに60円だが、見物人は金閣寺の方が圧倒的に多い。学僧が金閣を焼き、これが再建されてからは訪れる人が、いよいよふえ、当時何千万円とかかかった工費を、わずか2、3年で償却してしまったという。
この両寺のおかげで、ふところ手をして収入を得ているのが臨済宗相国寺派の本山相国寺。金閣、銀閣の2寺は、その末寺だから拝観収入額に応じて、相当な賦課金を本山に納めなければならないからだ。
銀閣寺の前住職が「私こそ住職だ」と訴え続け、つい先ごろ、本山との縁切りと宗派からの離脱を声明したが、この紛争の裏には賦課金の問題がからんでいると、にらんでいる人もある。
天竜寺、建仁寺、南禅寺、東福寺、大徳寺、妙心寺なども臨済宗の大寺院で、大徳寺、妙心寺、南禅寺には、それぞれ茶室や庭を持つ、いくつかの塔頭があって拝観させており、茶会などに貸す。天竜寺も大規模な庭園が呼び物だが、大徳寺本坊は自砂の庭を観る人よりも、建物を借りて京呉服などの展示会を開く人たちからの収入が大きな財源になっている。
祗園の花街に隣接する建仁寺は街なかにあって、これといった風情もないが、収入源はやはり展示会の賃貸し。ことに西陣織りや友禅染めの和服の展示は季節季節に開かれ、寺としては顧客も固定しているのが強味である。
東福寺は通天橋の紅葉が昔ほどの人を呼ばなくなった。交通が便利になって洛北の紅葉の名所へ手軽に行けるようになったのが原因だろうが、見物といったって晩秋の一時期だけに限られるのだから、それほどの人数は期待できない。遅ればせながら建物や本坊の石庭に拝観者を集めようと努力しているが、ここは、あまりにだだっ広くて、全体に見た目のよさに欠ける。広大な境内の管理も大変だし、宣伝も不足で、苦しい。
広い市だが、そのなかに寺と名のつくものが、実に1600余も存在するという。この数はたしかに日本一だ。ただし東西の両本願寺のような宏壮な境内と伽藍を持つ大寺も、たった1棟だけの、ささやかな御堂や草庵も、ビンからキリまでの、いっさいがっさいをふくめての話である。
これらの寺は、いったい、どのようにして毎日のくらしをたてているのか。どんな方法で、その財政を維持しているのだろうか。
京都だからといって,どの寺もみんな、すばらしい彫刻や絵画、建築や庭園を持っているわけでは決してない。いや、そんな寺は、むしろ案外少ないのである。国宝級の古文化財や名園の拝観で収入を得ているのは、1600余ヵ寺のうち、たった60ほどしかない。ほとんどが檀家を持ち、墓地があり、葬式や法要を営なみ、坊さんがお経を上げ、お布施をもらっているという最も普通の形の寺である。当然、檀家の多い少ないによって裕福だったり貧乏だったりする。こうした寺院の経済については、特に説明するまでもないと思うので、ここでは触れない。
問題は1軒の檀家、1人の信徒もなく、墓地もない寺である。京都には、こうした寺がかなり多い。
真先にことわっておかなければならないのは、一般的にいって、宗教法人になっている寺には、国税も地方税も、およそ税金と呼ぶものが一銭もかからないことである。法人税も事業税も住民税も固定資産税も、寺はまったく納める義務がない。年がら年じゅう税金に追っかけられて、ゼイゼイ息を切らしているわれわれとは、まったくちがう。
ただ京都の場合、年間の拝観者2万人を越える32の寺が、観光税―正しくは文化保護特別税を、拝観者1人につき10円ずつ、市税として納めているが、これは例外と考えてよかろう。拝観料は寺によってちがい、最低40円から最高100円まで。お志という寺もある。
このような無税地帯ともいうべき寺院は、どこも極端な秘密主義をとり、経理の内容をひた隠しに隠している。拝観料をうんと稼いでいる寺ほど、この傾向がひどい。宗教法人は、株式会社のように毎期の決算を株主に発表しなければならないという義務がないから、外部の者は、その収支など、おおよそを推定するより仕方がないのである。
戦前は寺領の農地を持って、そこから小作料をとり、そのはかに御内帑金という名の維持費を毎年、宮内省からもらっていた、いくつかの門跡寺がある。代々、皇族が住職を勤めている寺だ。
一乗寺竹ノ内にある曼殊院、大原の三千院、東山七条の妙法院、粟田口の青蓮院、山科の毘沙門堂は、天台宗の門跡寺院だが、このほかに内親王を住職とする尼門跡としては寺之内通りの宝鏡寺、鹿ヶ谷の霊鑑寺、修学院離宮に近い林丘寺などがあり、これらは昔から高い格式を誇ってきた。
ところが戦後は農地解放令で田畑を手放し、維持費の支給も廃止され、糧道を絶たれてしまった。売り食いの生活も長続きするはずがないので、重要文化財や史跡名勝を持つ寺は公開に踏み切って、拝観料を稼ぐことにした。曼殊院、三千院、青蓮院などがそれだ。
青蓮院は経済のやりくりに苦しんだころ、国宝、重要文化財を売ったことが、最近になって、さらけ出され、その名が一躍天下にとどろいたが、ここは10年ほど前、京都市バスと京阪バスの夜の遊覧コースに繰り入れられてから、収入が急上昇した。都心に近いから、地の利がある。これをバスのコースとして売りこんだ、寺のたくましい商魂は、まことに御立派。現在までに、この夜の遊覧で青蓮院に入った金は、総計1億円を下らないという。そのほかに一般の拝観料も年間1000万円にはなるのではないかといううわさだ。宝物のヤミ売りが発覚してからは、拝観者がますます、ふえているというから面白い。
曼殊院は公開を始めたころは、広い建物も庭園も、かなり荒れ、室の天丼に雨もりの跡があったり、畳が湿気を吸ってふくれ上がっていたが、いまは修理され美しくなっている。ふところ工合がよくなった証拠だろう。三千院は往生極楽院本堂と阿弥陀三尊があり、100円なりの拝観料に古美術マニアが押しかけ、シーズンの休日は大混雑する。
妙法院の場合は、これらとはちがう。この寺自体も観るべき建築と庭園があるが、それよりも、ここは御存知の三十三間堂を持っており、その拝観料が莫大だ。何しろ清水寺、金閣寺とともに古くから京都三名所の一つで、戦前から公開しており、修学旅行などの団体が毎日、貸し切リバスで押し寄せる。
この細長い建物を取り巻いて最近、丹塗りの総門と回廊ができたのは結構だが、昇降口に、なくもがなの殺風景な四角のコンクリート建築が出現したのは、もうかりすぎる結果かも知れない。
宝鏡寺は人形の寺として客を集め、一方では先生を雇って、お茶、生花、習字などを、お嬢さんたちに教えている。毘沙門堂などは見物の対象になるものが何もないから気の毒だ。売り食いでもするほかはない。同志社大学に土地を売った尼門跡もある。
金閣寺、銀閣寺は、どちらも昔からの名所で、拝観料はともに60円だが、見物人は金閣寺の方が圧倒的に多い。学僧が金閣を焼き、これが再建されてからは訪れる人が、いよいよふえ、当時何千万円とかかかった工費を、わずか2、3年で償却してしまったという。
この両寺のおかげで、ふところ手をして収入を得ているのが臨済宗相国寺派の本山相国寺。金閣、銀閣の2寺は、その末寺だから拝観収入額に応じて、相当な賦課金を本山に納めなければならないからだ。
銀閣寺の前住職が「私こそ住職だ」と訴え続け、つい先ごろ、本山との縁切りと宗派からの離脱を声明したが、この紛争の裏には賦課金の問題がからんでいると、にらんでいる人もある。
天竜寺、建仁寺、南禅寺、東福寺、大徳寺、妙心寺なども臨済宗の大寺院で、大徳寺、妙心寺、南禅寺には、それぞれ茶室や庭を持つ、いくつかの塔頭があって拝観させており、茶会などに貸す。天竜寺も大規模な庭園が呼び物だが、大徳寺本坊は自砂の庭を観る人よりも、建物を借りて京呉服などの展示会を開く人たちからの収入が大きな財源になっている。
祗園の花街に隣接する建仁寺は街なかにあって、これといった風情もないが、収入源はやはり展示会の賃貸し。ことに西陣織りや友禅染めの和服の展示は季節季節に開かれ、寺としては顧客も固定しているのが強味である。
東福寺は通天橋の紅葉が昔ほどの人を呼ばなくなった。交通が便利になって洛北の紅葉の名所へ手軽に行けるようになったのが原因だろうが、見物といったって晩秋の一時期だけに限られるのだから、それほどの人数は期待できない。遅ればせながら建物や本坊の石庭に拝観者を集めようと努力しているが、ここは、あまりにだだっ広くて、全体に見た目のよさに欠ける。広大な境内の管理も大変だし、宣伝も不足で、苦しい。