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プログラムピクチャー

2015年03月01日 | word
program picture 映画館の毎週の番組(プログラム)を埋めるために量産される映画(ピクチャー)の意で、アメリカで1930年代初頭に<2本立て興業 double feature>(1番組に劇映画2本を組み入れる興業)が始まったときに生まれた呼称。英語で programmer ともいう。また別の言い方をすれば、番組のメーンになる<本編 feature film>に対する<併映作品、添えもの second feature, supporting feature, co-feature>である。
 日本映画の場合は<抱合せ>という形で、戦前から、現代劇1本と時代劇1本の番組、旧作との<併映>、他社作品との<混映>、あるいは<第二部>と呼ばれた低コストの作品を<添えもの>にする方式などがあったが、田中純一郎(《日本映画発達史》)によれば、戦後、<映画館の乱立乱戦と既封切映画のダンピングによって>娯楽に飢えていた終戦当時の<フィルム飢餓>が昔語りとなった1950年代ころから、<観客へのサービスと称する2本立て興業>が目立ち始めた。そして東映が新作2本立て番組(初期の添えもの作品はスポーツ、歌、ストリップ、スター訪問などの記録映画が多く、洋画の短編との<抱合せ>などもあった)によって市場拡大に成功し、次第に<市場性確保を建前とする新作2本立て制度>が一般化し、松竹がまず上映時間40~50分程度の中編作品の製作に乗り出し、これを<シスター映画>と呼んだ。社長の城戸四郎の命名による<姉妹編>を意味する和製英語 sister picture (最初は short picture とも呼んだ)がその語源で、略してSPともいい、添えもの映画の代名詞として使われるようになった。松竹の<シスター映画>の第1号は、1952年製作の≪伊豆の艶歌師≫で、西河克巳の第1回監督作品。次いで、野村芳太郎(《鳩》1952)、小林正樹(《息子の青春》1952)らの新人監督や川喜多雄二、水原真知子、北原三枝らの人気スターが生まれた。大島渚(1932-2013)監督の処女作≪愛と希望の街≫(1959)も<シスター映画>として製作され、新人監督の腕だめしのチャンスになったという点でも<シスター映画>の意義は大きい。そして<シスター映画>が製作されはじめた52年から日本映画は本格的な<2本立て興業>に突入、東映が<東映娯楽版>の名の下に54年から打ち出した中編もの、≪笛吹童子≫三部作(1954)、≪紅孔雀≫五部作(1954-55)等々の大ヒットを経て、<プログラム・ピクチャー>の全盛時代を迎えることになる。
 <シスター映画>という呼称は<添えもの>を意味することから、<営利上不利>という理由で、やがて廃止され、それに代わって<プログラム・ピクチャー>という呼称が、<2本立て興業>のピークを迎えた<日活アクション>から<東映やくざ映画路線>に至る1950年代から60年代初頭にかけて浮上してきたものと思われる。