永沢光雄、1996年、ビレッジセンター刊。AVバブル以後のAV女優のインタービュー記事をまとめた読み物。AVバブル以後、ということで、ほぼ無名のAV女優ばかりである。レンタルビデオ全盛期の美少女AV女優が登場すると思うと期待はずれになる。これは四半世紀ほど昔の出来事である。ビレッジセンターというコンピューター関連会社の出版物でキワモノの内容を扱ったことが当時は意外なことだったようだ。むかしからプロレスファンとAV、警察とAV、広告代理店とAVは相関関係があり、その業界人にこのようなビデオ映像を嗜好する人間がたくさんいた。コンピューターとAVも相関関係がある、と社会的に認知されたと思われる、そのような内容の本とも言える。くどいようだが、バブルという、経済規模も資産規模も、漢字三文字の名前の犯罪者も、関わっていないような世界だが、やはりバブル、ということのようなのである。なので挫折した、暗いきたないインタビュー記事ばかりになっている。
借金があるもの、性的変態者であるもの、芸能人崩れのアイドル歌手を夢見ているもの、などなど、ほぼ崩壊家族の子女ばかりである。これが、高福祉と東西冷戦のエアポケットにあった日本という東亜の経済大国の現実の、ある危機的な世代だと直感できる。極一部に思えて潜在的に、二十歳前後にて破綻している者は当時、かなりの数が存在したようだ。読んでいて気づくことがある。AV女優たちは共通の言説を表現するのだが、それは80年代当時の日本の産業、ソフトウエアに、きたない記号として使用されたものだという事がわかってくる。具体的にはアイドル歌謡曲や風俗ドラマ、あとはコマーシャルやマスコミの受け売りになる。ここの部分で当時の日本のバブル経済に何らかの影響を受けた崩壊家庭の子女、AVバブルのビデオ女優だということがわかる。
AVバブル女優が使用する言説がどこかで聞いたことがあり、なんらかの共通部分があるのは、他者によってしか評価されない内面しかないということがわかる。そして、80年代の男女間格差の是正から、女性の地位が向上したことを身体を金銭による評価によって自己実現しようとしたことがわかる。もちろん優勝劣敗、需要バランスのことで、いわゆる負け組が出ることも否めない。そんな人たちである。AVバブル女優が使用済みの言説を使うのは、供給者と受給者の逆転の構図である。それがどうだったかといえば、失敗であることは明白になる。これはAVばかりでの話ではない。アイドルやドラマやロボットアニメや、傍やテレビゲームにまで、同様の現象が起こったのが、この時代の出来事である。もちろんマルチメディアと言われた双方向、相互運用の通信の世界でも同様の事が起こったのだ。ソフトウエアが実体のない無価値の意味でしかない、時代だったのである。虚しい世紀末の革命だと思う。
著者の永沢光雄はこのことには気を払っていたのか、どうもそのようには思えなかった。ある人に教わったことで、宮沢賢治のやさしい眼差しに捕われたものはだめな人間なのだそうだ。不幸を本人の責任なしで背負った人間を捕えることが宮沢賢治の、その人物に言わせれば文学なのだそうだ。宮沢賢治のやさしい眼差しに捕えられたものは、もうダメなのだ。永沢光雄も小説家を志していたので、そんな基礎知識はあったはずだが、しかし、文学が供給する物心二元論の2進バイナリのような経済発展はない時代でもあることも否定したい暗黙の事実なのである。やさしい眼差しは自己のこころに向かうことになるのである。文学が供給する言説は身心二元論になり、受給者が享受するのは人間の総体の格差ということであったのだ。それに永続する反復する差異化のゲームだけなのだ。
この本の帯にある飾られた言葉、このAV女優という本には、貴婦人などという言説に該当する人物はいないし、貴重な民俗学の資料になるわけもないし、AVバブル時代にAVを見なかった消費者が読書したら、AVでは稼げなかったであろう収益を上げたのなら、公立の図書館等に蔵書してあったものは、一斉に処分された。
永沢光雄の言葉を探して
その一 罪悪感
4年前、42歳の秋、私は言葉を喋ることを封印された。下咽頭癌という厄介な病で。
それまで私は言葉を扱って口に糊をしてきた。20代後半は雑誌編集者として。30代の10年間は人様に話を訊き、それを原稿に起こすフリーライターとして。しかしその慌ただしい日々の中、言葉と取っ組み合いながら、自分ごときが言葉(文字)で金を貰っていいのかと後ろめたいものがあった。読者を騙している罪悪感と言おうか。
なぜなら自分が商売道具としている言葉は、すべて他者の手、または口によるものであったからだ。自分は、自分自身の言葉を扱っていない。
言葉というものを意識したのは小学校に入って間もなくの頃だった。ふと私は、言葉を使わずに何かを考えてみようと思った。今日の夕食は何だろう?といったことだ。私はあることに気づいて愕然とした。言葉を使わないと何も考えられない!
その5年後、私は一冊の本を手にした。庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」である。面白かった。言葉のひとつひとつに酔った。言葉で物語を作るってなんて素晴らしい仕事なのか。そして私は自分も小説家になることを決めたのである。
(フリーライター。著書にエッセー「声をなくして」、インタビュー集「AV女優」など)
その二 生活のために
往々にして人生はままならぬものだ。小説家となることを自分に誓った少年は、原稿用紙に一字も記すことがなく、気づくと大学を中退していた。
こりゃ生きるために働かなくてはならない。私は観念した。そして小さな小さな出版社に潜り込んだ。自分に小説を書く才能がないことは薄々感じとってはいたが、やはり言葉のそばで息をしていたかったのである。
楽しい会社ではあった。何せ編集者のほとんどが編集長なのである。そして部下などはいない。私はポルノ小説雑誌を月に2冊、担当することになった。頁数にすると500頁にはなっただろう。毎日毎日、作家先生に原稿を依頼しては頂戴し、それの誤字などをチェック、ある時はかなりの部分を作者に無断で書き換えては印刷所に送る。
それはまあ流れ作業のようなもので苦ではなかったのだが、その手の本には女性の裸のグラビア頁が必須である。その頁にキャッチコピーをつけるのも編集長の仕事だ。これが一仕事であった。一日中うなり、やっと出来上がるのが「夢で君と出遭えたら」なんて一文である。
そうやって、言葉とともに5年は暮らしただろうか?私にとって言葉とは、社長の「1人で1億は稼げ」という号令の下、完全に労働と同義語となっていた。
そして、それらの言葉は隙間風のように私の体の中を通り過ぎ、ある日私は会社を辞めた。その時だ。「AV女優にインタビューをしてみないか?」と仕事の声が掛かったのは。
その三 途方もなく長い作業
かくて、私はアダルトビデオに出演している女性たちが語る話を訊くこととなった。だが、何から話を切り出していいのかわからない。自然、私は彼女らの生い立ちから現在までの事情を訊くという、途方もなく長い作業をするはめに陥った。
しかしそれは苦ではなかった。なぜなら彼女らの口にする言葉はまぎれもなく彼女ら自身のものだったからである。私が白い原稿用紙を前にして求めていた、生きた言葉であった。
彼女らの一言一句は文字に委ねた観念の言葉ではなく、彼女らの身体から発せられるものであった。つまるところ彼女らは、いつしか知らず知らずのうちに言葉というものに従属していた(書いてもいないくせに)私と違い、言葉を生きていた。
うとっ!と叫びたくなる不幸な話がほとんどだったが、彼女らはダムが決壊したかのように生き生きと喋ってくれた。もしかするとそのすべては嘘であったかもしれない。彼女らが作った自分というお話であったかもしれない。そうだとしたら、もっと尊敬に値する。人間、10時間近くも何の矛盾も感じさせない嘘の人生を語るのは至難の業である。それを物語といわずして、なんといおう。
私は彼女らのお話に驚嘆し、深夜にその録音したテープを聞いて感嘆し、そしてなんとか自分なりに咀嚼した彼女らの言葉を書き綴った。言葉を扱うことに初めて喜びを覚えた。だがやはり、編集者時代とは違った意味で、他人の言葉でメシを食っている感は否めなかった。
その4 声を失う
いつしか私はフリーライターと呼ばれるようになり、AV女優の他にもあらゆる種類の職業の人々に話を訊くために全国を飛び回っていた。そして40歳が過ぎていった。このまま私はこうやって歳を重ねていくのだろうか? ひと仕事が終わり酒を舐める深夜、一人そんなことを思った。あの、小説家になると決めた小学生の男の子はどこへ行ってしまったのだろう。少し淋しくなり杯は重なった。
「声が変だよ」、いつものように取材から帰った初夏の晩、妻が私に言った。「なんか、がらがらしてるよ」。言われてみれば喉が痛いような気がする。それに右耳の奥にも地鳴りのような音が響いている。
「癌だよ」
大学病院の耳鼻科の医者は私の喉を内視鏡で見て軽く言った。「今日にでも入院して。手術するから」と医者。「あの、手術をするとどうなるんでしょうか」と妻が尋ねた。「声が出なくなるよ」と医者。「どのくらいですか」と妻。「ずっと。一生声は出ないよ」
妻の顔が青ざめたのがわかった。そりゃショックだろう。自分の夫が喋れなくなるのだ。
しかし、そんな妻の横で私は別のことを思っていた。これは神様からのプレゼントなのかもしれない。ここ10年以上、下手に声が出せるものだからインタビューをして生活をしてきてしまった。しかしお前は小説家になりたいのだろう。自分自身の言葉を書きたいのだろう? そう神様が言っている気がした。私には癌は迷惑ではなかった。
その5完 自分へのインタビュー
声を失う。もし自分が役者や歌手であったら、と想像するとぞっとする。下手をすると、自殺なんて考えもよぎってしまったかもしれない。
そして、私の周囲も私の病を聞き、とても気遣ってくれた。なぜなら、私がインタビュアーであったから。つまり、仕事をする術をなくしたから。
けれども私は大学病院の入院室で、けっこう晴れ晴れとした気持ちで抗癌剤を打たれながら手術日を待っていた。
私、実はもう、人様に話を訊くことに疲れていた。確かにAV女優にインタビューを始めた最初の頃は刺激的で楽しかったのだが、何十人、何百人の話を聞いていると、皆の人生、大して変わりがないように思えてきたのである。何本のホームランを打とうが、何人の男と寝ようが、同じものであろう……やはり私、疲れていたに違いない。
声をなくす以前に、インタビュアーに一番大切な好奇心をもう使い果たしていた。それと、他人の言葉を使って生活する自分に少々嫌気を覚えていた。
しかし、やはり癌はあなどれなかった。手術室へ入る直前は、退院したらこれからこそ自分の言葉で小説を書くぞ、と意気揚々としていたのに、病室を出た自分の体力と気力の減少に呆然とした。机に向かう足の力さえない。そして、それまでは他人の話を訊くことを生業としてきた私が、自分にインタビューをしていた。本当に君は小説を書きたいの? 書きたい、と小さく胸の中で私は答えた。(フリーライター)
借金があるもの、性的変態者であるもの、芸能人崩れのアイドル歌手を夢見ているもの、などなど、ほぼ崩壊家族の子女ばかりである。これが、高福祉と東西冷戦のエアポケットにあった日本という東亜の経済大国の現実の、ある危機的な世代だと直感できる。極一部に思えて潜在的に、二十歳前後にて破綻している者は当時、かなりの数が存在したようだ。読んでいて気づくことがある。AV女優たちは共通の言説を表現するのだが、それは80年代当時の日本の産業、ソフトウエアに、きたない記号として使用されたものだという事がわかってくる。具体的にはアイドル歌謡曲や風俗ドラマ、あとはコマーシャルやマスコミの受け売りになる。ここの部分で当時の日本のバブル経済に何らかの影響を受けた崩壊家庭の子女、AVバブルのビデオ女優だということがわかる。
AVバブル女優が使用する言説がどこかで聞いたことがあり、なんらかの共通部分があるのは、他者によってしか評価されない内面しかないということがわかる。そして、80年代の男女間格差の是正から、女性の地位が向上したことを身体を金銭による評価によって自己実現しようとしたことがわかる。もちろん優勝劣敗、需要バランスのことで、いわゆる負け組が出ることも否めない。そんな人たちである。AVバブル女優が使用済みの言説を使うのは、供給者と受給者の逆転の構図である。それがどうだったかといえば、失敗であることは明白になる。これはAVばかりでの話ではない。アイドルやドラマやロボットアニメや、傍やテレビゲームにまで、同様の現象が起こったのが、この時代の出来事である。もちろんマルチメディアと言われた双方向、相互運用の通信の世界でも同様の事が起こったのだ。ソフトウエアが実体のない無価値の意味でしかない、時代だったのである。虚しい世紀末の革命だと思う。
著者の永沢光雄はこのことには気を払っていたのか、どうもそのようには思えなかった。ある人に教わったことで、宮沢賢治のやさしい眼差しに捕われたものはだめな人間なのだそうだ。不幸を本人の責任なしで背負った人間を捕えることが宮沢賢治の、その人物に言わせれば文学なのだそうだ。宮沢賢治のやさしい眼差しに捕えられたものは、もうダメなのだ。永沢光雄も小説家を志していたので、そんな基礎知識はあったはずだが、しかし、文学が供給する物心二元論の2進バイナリのような経済発展はない時代でもあることも否定したい暗黙の事実なのである。やさしい眼差しは自己のこころに向かうことになるのである。文学が供給する言説は身心二元論になり、受給者が享受するのは人間の総体の格差ということであったのだ。それに永続する反復する差異化のゲームだけなのだ。
この本の帯にある飾られた言葉、このAV女優という本には、貴婦人などという言説に該当する人物はいないし、貴重な民俗学の資料になるわけもないし、AVバブル時代にAVを見なかった消費者が読書したら、AVでは稼げなかったであろう収益を上げたのなら、公立の図書館等に蔵書してあったものは、一斉に処分された。
永沢光雄の言葉を探して
その一 罪悪感
4年前、42歳の秋、私は言葉を喋ることを封印された。下咽頭癌という厄介な病で。
それまで私は言葉を扱って口に糊をしてきた。20代後半は雑誌編集者として。30代の10年間は人様に話を訊き、それを原稿に起こすフリーライターとして。しかしその慌ただしい日々の中、言葉と取っ組み合いながら、自分ごときが言葉(文字)で金を貰っていいのかと後ろめたいものがあった。読者を騙している罪悪感と言おうか。
なぜなら自分が商売道具としている言葉は、すべて他者の手、または口によるものであったからだ。自分は、自分自身の言葉を扱っていない。
言葉というものを意識したのは小学校に入って間もなくの頃だった。ふと私は、言葉を使わずに何かを考えてみようと思った。今日の夕食は何だろう?といったことだ。私はあることに気づいて愕然とした。言葉を使わないと何も考えられない!
その5年後、私は一冊の本を手にした。庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」である。面白かった。言葉のひとつひとつに酔った。言葉で物語を作るってなんて素晴らしい仕事なのか。そして私は自分も小説家になることを決めたのである。
(フリーライター。著書にエッセー「声をなくして」、インタビュー集「AV女優」など)
その二 生活のために
往々にして人生はままならぬものだ。小説家となることを自分に誓った少年は、原稿用紙に一字も記すことがなく、気づくと大学を中退していた。
こりゃ生きるために働かなくてはならない。私は観念した。そして小さな小さな出版社に潜り込んだ。自分に小説を書く才能がないことは薄々感じとってはいたが、やはり言葉のそばで息をしていたかったのである。
楽しい会社ではあった。何せ編集者のほとんどが編集長なのである。そして部下などはいない。私はポルノ小説雑誌を月に2冊、担当することになった。頁数にすると500頁にはなっただろう。毎日毎日、作家先生に原稿を依頼しては頂戴し、それの誤字などをチェック、ある時はかなりの部分を作者に無断で書き換えては印刷所に送る。
それはまあ流れ作業のようなもので苦ではなかったのだが、その手の本には女性の裸のグラビア頁が必須である。その頁にキャッチコピーをつけるのも編集長の仕事だ。これが一仕事であった。一日中うなり、やっと出来上がるのが「夢で君と出遭えたら」なんて一文である。
そうやって、言葉とともに5年は暮らしただろうか?私にとって言葉とは、社長の「1人で1億は稼げ」という号令の下、完全に労働と同義語となっていた。
そして、それらの言葉は隙間風のように私の体の中を通り過ぎ、ある日私は会社を辞めた。その時だ。「AV女優にインタビューをしてみないか?」と仕事の声が掛かったのは。
その三 途方もなく長い作業
かくて、私はアダルトビデオに出演している女性たちが語る話を訊くこととなった。だが、何から話を切り出していいのかわからない。自然、私は彼女らの生い立ちから現在までの事情を訊くという、途方もなく長い作業をするはめに陥った。
しかしそれは苦ではなかった。なぜなら彼女らの口にする言葉はまぎれもなく彼女ら自身のものだったからである。私が白い原稿用紙を前にして求めていた、生きた言葉であった。
彼女らの一言一句は文字に委ねた観念の言葉ではなく、彼女らの身体から発せられるものであった。つまるところ彼女らは、いつしか知らず知らずのうちに言葉というものに従属していた(書いてもいないくせに)私と違い、言葉を生きていた。
うとっ!と叫びたくなる不幸な話がほとんどだったが、彼女らはダムが決壊したかのように生き生きと喋ってくれた。もしかするとそのすべては嘘であったかもしれない。彼女らが作った自分というお話であったかもしれない。そうだとしたら、もっと尊敬に値する。人間、10時間近くも何の矛盾も感じさせない嘘の人生を語るのは至難の業である。それを物語といわずして、なんといおう。
私は彼女らのお話に驚嘆し、深夜にその録音したテープを聞いて感嘆し、そしてなんとか自分なりに咀嚼した彼女らの言葉を書き綴った。言葉を扱うことに初めて喜びを覚えた。だがやはり、編集者時代とは違った意味で、他人の言葉でメシを食っている感は否めなかった。
その4 声を失う
いつしか私はフリーライターと呼ばれるようになり、AV女優の他にもあらゆる種類の職業の人々に話を訊くために全国を飛び回っていた。そして40歳が過ぎていった。このまま私はこうやって歳を重ねていくのだろうか? ひと仕事が終わり酒を舐める深夜、一人そんなことを思った。あの、小説家になると決めた小学生の男の子はどこへ行ってしまったのだろう。少し淋しくなり杯は重なった。
「声が変だよ」、いつものように取材から帰った初夏の晩、妻が私に言った。「なんか、がらがらしてるよ」。言われてみれば喉が痛いような気がする。それに右耳の奥にも地鳴りのような音が響いている。
「癌だよ」
大学病院の耳鼻科の医者は私の喉を内視鏡で見て軽く言った。「今日にでも入院して。手術するから」と医者。「あの、手術をするとどうなるんでしょうか」と妻が尋ねた。「声が出なくなるよ」と医者。「どのくらいですか」と妻。「ずっと。一生声は出ないよ」
妻の顔が青ざめたのがわかった。そりゃショックだろう。自分の夫が喋れなくなるのだ。
しかし、そんな妻の横で私は別のことを思っていた。これは神様からのプレゼントなのかもしれない。ここ10年以上、下手に声が出せるものだからインタビューをして生活をしてきてしまった。しかしお前は小説家になりたいのだろう。自分自身の言葉を書きたいのだろう? そう神様が言っている気がした。私には癌は迷惑ではなかった。
その5完 自分へのインタビュー
声を失う。もし自分が役者や歌手であったら、と想像するとぞっとする。下手をすると、自殺なんて考えもよぎってしまったかもしれない。
そして、私の周囲も私の病を聞き、とても気遣ってくれた。なぜなら、私がインタビュアーであったから。つまり、仕事をする術をなくしたから。
けれども私は大学病院の入院室で、けっこう晴れ晴れとした気持ちで抗癌剤を打たれながら手術日を待っていた。
私、実はもう、人様に話を訊くことに疲れていた。確かにAV女優にインタビューを始めた最初の頃は刺激的で楽しかったのだが、何十人、何百人の話を聞いていると、皆の人生、大して変わりがないように思えてきたのである。何本のホームランを打とうが、何人の男と寝ようが、同じものであろう……やはり私、疲れていたに違いない。
声をなくす以前に、インタビュアーに一番大切な好奇心をもう使い果たしていた。それと、他人の言葉を使って生活する自分に少々嫌気を覚えていた。
しかし、やはり癌はあなどれなかった。手術室へ入る直前は、退院したらこれからこそ自分の言葉で小説を書くぞ、と意気揚々としていたのに、病室を出た自分の体力と気力の減少に呆然とした。机に向かう足の力さえない。そして、それまでは他人の話を訊くことを生業としてきた私が、自分にインタビューをしていた。本当に君は小説を書きたいの? 書きたい、と小さく胸の中で私は答えた。(フリーライター)