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ジャンヌ・ダルク

2014年06月17日 | word
 Jeanne d'Arc 1411?~1431 フランスの愛国的少女。<オルレアンの乙女>と呼ばれる。
 百年戦争も後半に入って、フランス王国は再びイギリス軍の侵攻を迎えた。ブルゴーニュ公国と結託したイギリス王家は北フランスを支配し、正統のフランス王シャルル7世は南フランスに退いて、圧倒的に優勢なイギリス王家の軍事力の前に、自暴自棄と無為の生活を送っていた。そこに神の少女ジャンヌが出現して神意を伝え、シャルルを励まし、兵士たちを勇気づけて、オルレアンを包囲したイギリス軍を撃破した(1429)。ここにシャルル7世の命運は開け、これを恨みに思ったイギリス王家はついにジャンヌを捕らえ、形ばかりの裁判にかけて、彼女を魔女として焚殺した。実にジャンヌこそは殉教した救国の女傑である。
 以上が従来の見方である。この見方は、その骨子はすでに15世紀に<シャルル7世伝>を書いたトマ・ザパンによって、バロア王家擁護の立場から提示されたものであり、国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人がそう見たいと願った聖女ジャンヌ像であった。この見方には最近ようやく批判が寄せられるようになった。ジャンヌ関係の根本史科はルーアンの宗教裁判記録を第一とするが、19世紀中ごろに出版されたその活字本には多大の不備があり、1960年代に入って新しい校訂本の作成が開始された。この一事からも察せられるように、ジャンヌ研究はようやくはじまったばかりなのである。
 ロレーヌの生家ドンレミ・ラ・ピュセルを出て、1429年2月初め、王太子シャルルが本陣を置くシノン城市に着くまでの彼女の動静には、不明な点が多い。近在の城市ボークールールの守備体長ロベールは、パリの王政府からシャンパーニュのショーモン代官職を預かる叔父の代理を務め、ドンレミ村の裁判領主であった。ジャンヌの父ジャコは村の代訴人として彼の法廷に出たこともある。ジャコの娘ジャネット(ジャンヌの愛称)は彼を頼り、神の召命を受けたと主張した。ロベールはその立場にもかかわらず、王太子シャルルに味方している。王太子が事前に彼女に関する情報を得ていたことは確かである。
 オルレアンの戦にジャンヌの果たした役割は何であったか。信仰の情熱と慣行を無視した戦闘指揮。これが兵士たちを刺激しなかったはずはない。彼女の率いる槍小隊は、日が暮れても戦闘をやめず、ついに砦を攻め落とした。オルレアンの戦ののち、ジャンヌはランスでのシャルルの戴冠に列席し、次いで北フランスの諸都市を歴訪する<王の巡航>に、バロア王家の<神の証人>として、華麗な衣装を身にまとって同行した。これが彼女の生涯の華であった。彼女を含む若手の将官団はイギリス軍との対決を主張したが、王太子顧問会議は、ブルゴーニュ公との和議の実現を戦略の要とした。以後、王太子は<神の証人>を必要としない。
 翌1430年5月、ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、ブルゴーニュ方の軍勢に捕えられた。身代金はイングランド王家が支払い、シャルルは動かなかった。パリ大学神学部はジャンヌに異端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し、イングランド王家側もこれに同意し、裁判はノルマンディーのルーアンで、31年2月21日を初日として14回の審議を重ねた。異端嫌疑の根拠は、一信者が聖職者の仲介を経ず直接神的存在に接触したと主張することに求められた。<地上の協会>の組織原理が一信者の信仰によって試されている。しかし宗教裁判官の審問は、この女の主張が日ごろ目にしていた神的存在の画像に触発された心理的錯覚に基づくことを立証することに的を絞っている。もしこれをジャンヌに認めさせれば、彼女の罪は聖像崇敬という<信仰の迷い>に他ならず、異端の告発は無効となる。法廷はジャンヌの魂と肉体を救おうと試みたのである。しかし、彼女のあまりにも純な信仰がそれを拒んだ。5月28日朝、ジャンヌはルーアンの町の広場で異端と宣告されて俗権の手に委ねられ、俗権は慣行により異端女を火刑に処した。俗権とは、この場合ルーアン代官のことである。
 このルーアンの審決を、ローマ教皇庁はまだ取り消していない。それでいて教皇庁は1920年、ジャンヌを聖女に列した。かくして今、ジャンヌ・ダルクは異端女にして聖女である。