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四国八十八ヵ所

2014年06月17日 | word
 四国の島内に散在する、弘法大師(空海)ゆかりの霊場88カ所を、順を追って参詣する巡礼コースで、四国八十八ヵ所弘法大師霊場とも称する。一般にはこれを<遍路><お四国>などと呼んで、観音霊場の巡礼と区別している。遍路が霊場に参詣すると、そのしるしに<南無遍照金剛>と弘法大師の宝号を記した札を納めることから、八十八ヵ所の寺々を札所ともいう。第1番の札所は阿波の霊山寺(徳島県鳴門市)で、ここから土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)とまわり、山深い大窪寺で終わる。このように四つの国にわかれる巡路は、仏教の思想にもとづいて、阿波を発心の道場、土佐を修行の道場、伊予を菩提の道場、讃岐を涅槃の道場として意義付けられている。全行程1400㎞以上、歩くと60日余りもかかるこの道をたどると、おのずから仏教の修業が果たされるという教えである。山岳、海岸、平野など、地理的変化に富んだ遍路の行程は、仏教修行の厳しさそのものである。
 四国八十八ヵ所霊場は、弘法大師が42歳の厄年に四国を一巡して、八十八ヵ所の霊場を定めたと伝えられる。これらの寺々を巡拝する遍路のならわしは、鎌倉時代に衛門三郎が始めたという伝説もある。しかし、これらの霊場が巡礼コースとして整えられたのは室町時代のことで、一般の人々が盛んに巡礼に出かけるようになってからであろう。それまでは、弘法大師の遺徳をしたう僧侶たちが、四国各地の山野を歩いて修行していた。それは、弘法大師の出身地が讃岐の善通寺であることと、大師が24歳のときに著した<三教指帰>に、大滝嶽や室戸岬などで求聞持法を修したと述懐していることによるものである。平安時代の末ごろには、すでに四国が仏教修行の道場とみなされ、<梁塵秘抄>や<今昔物語集>では四国の辺地といわれ、海岸沿いの細い道を巡遊する僧の一群があったことを伝えている。八十八ヵ所という弘法大師の霊場は、室町時代のころに彼らによって整えられたものである。八十八という数字にも、米の字を分解したという説や、男厄42歳、女厄33歳、子どもの厄13歳を加えた数という伝えもあるが、根拠は明らかでない。また、霊場の順番についても、江戸初期に出版された<四国遍礼霊場記>には、讃岐善通寺を1番札所としている。これが今日のように霊山寺から始まる形をとるようになったのは、大阪方面から船で渡ってくるおおぜいの遍路の便を考えたからであろう。札所の寺では、正面の本堂に仏や菩薩が本尊として安置され、その脇の大師堂に弘法大師がまつられている。修行中の弘法大師が観音の霊像を感得し、奇跡をあらわして人々を救ったというような、本尊仏と弘法大師とのかかわりを示す霊験談が全体的に見られ、修行の旅を行く弘法大師に対する宗教的期待が、四国遍路の基調をなしている。
 四国を舞台とした遍路の歴史は、独特な巡礼習俗を生んだ。遍路のいで立ちは他の巡礼と同様であるが、金剛杖には<南無遍照金剛>と弘法大師の宝号を記し、笠には<同行二人>と住所氏名を書く。同行二人とは、弘法大師と自分のことであり、ともに修行の旅を行くという観念による。札所のまわり方にも、番号順にまわる<順うち>と88番から逆にたどる<逆うち>とがある。この<うつ>という言葉は、木製の納札を釘で打ちつけたことから生れた。また、88ヵ所の札所を4度に分けてまわる一国参りや、主要なコースを部分的に遍路する七ヵ寺もうでなども行われている。四国霊場には、今も弘法大師が修行を続けているという信仰があり、大師にあうために難儀な逆うちをし、橋の上では寝ている大師の目を覚まさせないために、けっして金剛杖をつかないということも守られている。地方によっては、村の娘たちが嫁入前に遍路に出て、異郷の人情や風俗に触れるという、人生儀礼化した所もある。江戸時代には、一生に一度のお蔭参りとして、伊勢参宮かたがた、百観音(西国、坂東、秩父)とお四国をまわることも広く行われた。また、かつては病者、こじき、犯罪者などが多く、不幸を背負った人々が、観音や弘法大師の利生にそこばくの夢を託しながら、遍路の群に加わる場合が多かった。3月から5月ごろにかけて、米、餅、惣菜、草履など、食糧や身の回りの物を遍路に供養する、接待の風習も広く見られた。四国八十八ヵ所の弘法大師霊場を巡る遍路は、庶民の宗教的願望を弘法大師信仰によって包みこみながら、旅の信仰習俗として大きな役割を果たしてきたのである。