たらったら♪生活

10年前の子宮頸がん2b放射線単独療法経験日記

ほんとの末期でした

2006-01-19 | もう1つのがん(病気)日記

私は叔母は安定して一度は帰宅出来て、食べたいものや
やりたいことを少しでも味わうことが出来るだろうと
考えていた。医師の言う余命は大体、外れるものである。

たとえば末期で3ヵ月とか半年と宣告されても
その後のそれぞれの遠隔転移のがんの成長は遅い、
もしくは変わりないという状態で普通に生活を送れる
人もたくさんいるので私も叔母は確実であっても徐々に
ゆっくりと進んで亡くなる一週間くらいまでは自宅で
痛みのコントロールをしてどうにか穏やかに家族らに
見守られて過ごせばいいと考えていた。

痛みはモルヒネで押さえられたがその副作用プラス
末期の症状としての便秘と腹水による不快を訴える。
だがこの先、次々と現れる不快な症状の苦痛に比べれば
この程度の不快は楽だと考えなくてはいけない。

この時点でまだ気持ち的に食欲はあったが当然、
消化器は受けつけず食べても一口程度になっていく。

入院後1ヵ月で急変し医師が「会わせたい人を呼んで」
と召集が、かかる。私達はこれは医師の早合点だと
思った。案の定、持ちこたえ数日は安定したが
私が考えていた叔母の「のんびり自宅療養プラン」は
ここでムリだということになった。

叔母の苦痛を軽減させるためにすぐに意識レベルを
落として眠らせるというセデーション(鎮静)が
始まってしまった。これでかなり苦痛から開放されるが
セデーション中はコミュニケーションが取りにくい。
目が覚めても意識はもうろうとして会話が成立しない。
また、すぐ眠ってしまう。徐々に眠りを深くさせていく
と事実上のお別れとなるというものだ。

叔母ということもあったが、それ以上に人ごととは思え
なかった。私だって余命宣告を受けてこの状況にあった
かもしれないし、この先、同じ状況がないとは言えない
し、いずれにしろ人はみなここを通過しなければいけ
ないのだし。純粋に叔母を心配する自分と、申し訳ないが
がん患者として冷静に熱心に予習している自分がいた。
その勉強ぶりはやはり当事者という必死さがあったと
自分でもわかったし、回りの人間も気づいていた。














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