たらったら♪生活

10年前の子宮頸がん2b放射線単独療法経験日記

とまらない涙

2011-04-25 | もう1つのがん(病気)日記

福島原発も不安なまま
たくさんの人の辛さ。
助けられないままの多くの動物達の
悲惨な状況。
先月からギューッと締め続けられている
胸は本当にもう、限界です。

そんな中の田中好子さんの悲報。
20年間ほど、がんを抱えて
いながらも女優として
あの温かく、品があって
柔らかい演技。
そして若かった頃の
かわいいアイドル時代の
はつらつとした姿。本当に残念です。
惜しいですね。誰からも大ベテランと
言われるポジションの彼女を
見たかったなあ。

お別れの日のために録音された肉声は
彼女の覚悟と諦め、悲しみ
だけど優しさと強さと
彼女らしい温かみのある言葉で
そして「被災で亡くなった方達に
自分なら寄り添ってあげられる。
それは使命」そんな意味合いの
彼女の最期の声に胸が引きちぎられそう
になり、連日の辛さと重なって
1人で泣いた。もう先月から毎日のように
泣いてばかりです。

ずっとがんは公表せず
大好きな女優業を大切に続けて
出棺直前の、初めてでそして最期の挨拶に
私は「ああ、これは反則だよー」と思いました。
でもこの彼女の最期の思いを受け止めなきゃ。

苦しいですね。

私ががん治療を受けてた時
病院の売店にあった医療ウイッグのカタログ。
その表紙が田中好子さんで
裏拍子は夏目雅子さんの生前の写真。
もしかしたらカツラが必要になる時が
自分にもあるのではないかと思い
もらってきた。今もMYがん資料の
中にファイルしてある。
その時は表紙の彼女を見ても何も思わなかった。
「カツラのモデルの仕事してるんだ」って
くらいで。


どうか安らかでいますように。

被災で命を失くされた方々も・・。

私の心は今年は
ダブルパンチ、いえ、
なんかボッコボコこてんぱんに
されてて傷だらけで弱ってるとこに
追い討ちで粉々。
なんとか貼り合わせてはいますが。

皆が暮らし方・・考え方
変えなきゃいけない時という
感じがします。何が大事なのかって
こと。守りたいもの。


何か、元気が出ること
ないですかねえ。









悲しみの底から先へ

2010-08-28 | もう1つのがん(病気)日記

(続き)
昨日まではうろたえて
深い悲しみの感情を
なかなか抑えることが出来なかった。
やっと少し落ち着いてきた。

自分ががん経験者になった時から
がんや他の死に敏感になって
過剰反応してしまうが
それにしても、がん経験以降、
お別れが次々と多過ぎる。

誰の死であっても
もう、ここにはいないんだと思うと
心細くて仕方ない。

先頭を行く人の肩につかまって
後ろをついて歩いていたのに
導いてくれる人が次々と
いなくなっていく。

また1つ、私の体に
大きな穴が開いて
もう、穴だらけで
ボロボロと
大事なものがこぼれてくだけで

あと何度か
穴が開けば
その時は自分の番だろう。
そんな先じゃない。
だけどもう
見送るのはイヤだ。
もうお別れを言いたくない。

もっと淡々と
人の死を受け止めた方がいいのかも
しれない。死後がどんななのか
わからない。すべての苦痛から開放されて
楽になれるものなのかもしれないし。

いつか人は死ぬ。
十分わかっている。
私自身は十分に覚悟している。
長生きだけが幸福とも思っていない。
だけどもこのあまりにも突然の
不意をつく、がんのやり方は
残酷過ぎる。非情過ぎる。

仕方がないという受け入れと
当然ながら、なぜという納得出来ない部分と

そんな中でも彼は妻のためと
自身の著作を守るための身辺整理をし

「じゃあ、お先に。さようなら」と、逝った。



~今監督へ
まだ信じられずにいます。
このあまりにも突然のお別れ。
あなたまでも、がんで
先に逝ってしまうなんて。

「夢見る機械」と
その後の、たくさんの今作品を
楽しみにしていました。
私の期待以上に
あたなこそ、この先の
作品制作に意欲を持って
アイディアはたくさん溢れて
いたことでしょう。

何かの手違いで
自爆装置が作動してしまい
制御不能で制止出来なかったという
ことでしょうか。

まだ、私の中で
ありがとうというお礼も
お別れの言葉も
言える心境になっていません。

驚きと悲しみ、落胆
絶望的な気持ちのままです。
嘘ならどんなにいいか。

今、私に言えるのは
あなたもおっしゃっているように
本当に本当に残念だということです。


私の涙が
彼に届いて
彼が幸福な気持ちで
いることを願います。


~彼の1作品
アニメ「東京ゴッドファーザーズ」
3人の愉快なホームレスの
クリスマスの夜のある出来事。
それぞれの悲しみと
そして奇跡。
コミカルだけど
とてもハートウォーミングなドラマ。
吹き替え声優の面白い顔ぶれ。
大人が見れるアニメです。





あまりにも突然の

2010-08-27 | もう1つのがん(病気)日記

で、またしても
がんがつれていってしまった。

世界も注目していたアニメ監督
今敏氏の死。驚愕した。

今年の5月にMRIやPETの検査で
膵臓がんの末期、半年の余命と酷知を受け
3カ月で逝ってしまった。

新作の制作中だった。
なかなか完成のニュースが届かないと
気にしてた矢先。
ネットのニュースに彼の名前を
見つけて「おっ」と嬉しくなったのも
つかの間、それは死亡記事だった。

まだ46歳。同年代。
アニメ制作に才能を発揮し
これからの活躍を期待されていたのに。

訃報からアクセス集中で
全くつながらなかった彼の公式サイトに
やっとつながった。
まだ不安定で上手くつながらなかったり
するのだけど
亡くなる少し前に公開された
彼の遺書をなんとか読むことが出来た。

twitterやらブログやらで
リアルに遺書も公開出来てしまう。
名が知れた人にはそれも求められると
いうことなんだろうか。

後日に遺書が見つかるのと違って
亡くなってすぐにネットでアップされると
いうのは、とても生々しい感じがして
ものすごく辛い。

以前、彼のサイトのBBSで
彼とコメントのやりとりが出来たことがある。
自然体でオープン、フランクに
一般のファンと接触してくれていた。
そういうのもあって、すごく身近に
感じてる。

だから、この突然の永遠のお別れは
私に相当の精神的ダメージになっている。
この暑さでの睡眠不足と疲労続きの
不完全な状態が
余計に気持ちを沈めていく。
それ以外は今は体調も良くて
精神的にも元気だったのに。
訃報バテとでも呼べばいいのか。

自分でも過剰なくらいに
がっくりきていて
これも更年期も手伝っているんだろうか。

愉快ではない話だけど
気持ちの整理のために
もう少しこの話題を引きずる。(続く)
スルーして下さい。






まさかの訃報

2009-05-04 | もう1つのがん(病気)日記

朝、テレビの画面に忌野清志郎さん死去という
スーパーを目にして愕然とした。
以前、彼のがんデビューを知り
日記で応援という意味で取り上げた。
治療後に復活ライブでのパワフルな様子や
インタビューで元気な姿を見たので
私は初発でがんを抑え込んでしまえるだろうと
思っていたのでショックは大きい。

彼の有名な曲の数々は私も好きで
よく聴いていた。

早過ぎる死だ。
人生は本当にわからない。

がんを無治療しても
手術しても声を失う。
そしてその先に死がある。残酷である。

彼とがん友である筑紫さんとの対談で
がん告知された時は
「がーんでしたね。でも受け入れるしかない」
そう言ってた。

残酷過ぎる事実に
彼も苦悩したであろうと思う。

とても残念でならないけど・・・

ありがとう、清志郎さん。


ご冥福をお祈り致します。





悲しい知らせ

2006-12-19 | もう1つのがん(病気)日記

去年までは、がん友とお茶や食事をしながら、
1年間の経過の近況報告を同じ境遇同士という
ことで盛り上がる季節なのだが、今年は行か
ないので手紙だけのやりとりで終わった。

私は去年といい今年といい
身内のがん、死別が続いて
愉快な話が全く無くて、がん友に
悪いなーと思っていた。
せめて、がん友は何も無い1年であって
欲しかった。

私が愛猫と別れ、母のがんデビューや知人の死に
遭遇していた時、がん友も愛犬を亡くし、
また彼女の、末期のがん友の最期に
ずっと、つき合って見送っていたそうだ。

私のがん友に紹介されて一度だけ合った
その人はその時、既に多臓器への転移を
抱えていた。去年の今頃、がん友から
聞いた話では元気にしてるとのことで
安心していた。

今年の夏「入退院を繰り返して輸血も
受けてる」と聞き、状態は徐々に
悪くなっていってると知った。
それでも温泉へ行ったり食事をしたり
よく話すと聞いていた。

次第に弱ってくる友達にどう声をかけて
いいか悩んでいた彼女に私もまたどう
言ってあげればいいのか、わからず結局
ただ聞いているだけだった。

同じがんで病院で知り合って
相手は深刻な状況で、こちらは初発治療を
終えたばかりで大変さが違うから
すべてを理解するなんて到底、出来ないけど
それでも他人事や無関係だなんて思っていない。

何も出来ないけど、その辛さや寂しさを
少しでも受け止めたい気持ちがある。

元気でいて欲しいと思う気持ちと
苦しまないようにと思う気持ちと
居た堪れなさと、受け止めなくてはと思う。
当然何も出来ない。でも見届けなくては。

死は誰にでもやって来る。それには逆らえない。
多分、死んだら「大丈夫」なんだと思う。
心配することはないんだという気がしている。
苦痛・苦悩からぱあっと解放されるはず。

でも、お別れはそんな理解とは別に単純に悲しい。
胸は苦しいし虚しさでいっぱい。
でもまだここにいる者の務めとして見据えなくては。

がん友はさらにもう一人、見送っていた。
これで同じ病室の人、皆、逝ってしまったそうだ。
残される者も本当に辛い。がん友は相当まいって
いる様子でいつもの元気が無い。

今年、最後の最後まで別れが続くことになるとは。
私は「あーあ、つまんないなー」そう言って
はあーっと、大きく深い溜め息をつくくらいしか
虚しくやり切れない気持ちのやり場が無い。

































寂しいけど

2006-02-17 | もう1つのがん(病気)日記

去年、亡くなった叔母のことを思い出して仕方ない。
わがままで勝手な持論を展開し、それを押し付ける
から苦手でもあったけどたった1人の姪として、
かわいがってくれたと思う。私のがんを
とても心配してくれて世話にもなった。

思い出すと、やはり心は穏やかではいられない。
寂しい。誰もいなくなって欲しくないと思う。
人が1人消えてしまうって大きいなと思う。

最期まで自分のことは何でも知って自分で決めたい
と思うけど、叔母のように何も知ろうとせず
寿命を迎えて逝くのもあれはあれで仕方ないし
亡くなり方としてそれもアリだと思う。

突然過ぎたけど、無治療であっという間に逝くという
のも、叔母らしいのかもしれないと思うと
けっして悪い死に方ではないのだと受け入れられる。

アメリカに渡ったフィギャアスケートの井上怜奈さんは
お父様をがんで亡くなっていてご自身もがんの初発治療を
受けた人だが彼女が「人の寿命は思っているより早く
やってくるものだ」と言っている。本当にその通りだと
思う。死はあっけなく、やって来る。知らない間に。

人の死をいくつか見送って順番は回ってくるのだ。
避けられはしないが、その時が来ても受け入れられる
よう自分らしく存分に暮らそうと思う。



死と向き合う

2006-01-22 | もう1つのがん(病気)日記

私が退院する前日、主治医に今後の生活について
いろいろ聞いておこうと時間を割いて頂いた。
ロビーの椅子で座っていると黒いスーツを着た男性
2人がスタッフルームの前で話をしている。
病院に出入りしている葬儀屋らしい。誰か亡く
なったということ?

主治医が現れ今後の注意すべきことや転移についての
質問や次回の診察についてメモを見ながら聞いていた時
「Aですけど」聞き覚えのある苗字。スタッフルーム
の前にAさんの・・・息子さん!えっもしかしてAさん
亡くなったの?一瞬固まって主治医の目を凝視してしまった。
主治医も隠せないと思って「Aさん死んじゃったよぉう」と
医師という立場でなく、知り合いという感じで教えてくれた。
Aさんは放射線科病棟で私のお隣さんで
少し前に個室に移動していた。

「私、2日前にここで笑って話しましたよ!」外出から
戻った私ににっこり「お帰りなさい。楽しかった?」
と声かけてくれたのだ。その時は彼女は個室に移っていた
から心配していたが今までで1番調子が良さそうだった。
だから私は安心していたのだ。

「もうだいぶ、悪かったから。でも30年生きられたから
十分だよね」Aさんは40才にがんになったらしい。
それは完治したのかもしれない。そして何十年か後に
別にがんになってゆっくり転移を繰り返したんじゃ
ないだろうか。「Aさんとは長いつきあいだったなあ」
みんな、結構、長いよー。Bさんもそうだし」と主治医。
Bさんは私の前のベッドの人で転移を繰り返し
放射線科の常連だと自己紹介してくれた人だ。

私もこの先ゆっくり転移を繰り返し放射線やら
整形外科や麻酔科や外科のお世話になりながら
この主治医と長いつきあいになるんだろうか。

婦人科病棟から放射線科病棟への移動願いをした時
「放射線科は深刻だから婦人科の方が気楽だよ」と
気使ってくれた主治医の言葉はこのことだったのだ。

でもがん患者にとって死は知らないでは済まされない。
たとえ初発治療後のひよっ子でも死に向き合って
考えることはぜんぜん無意味ではないし、むしろ、
生きるために大切だし、良い死に方を選ぶためにも
学ぶ必要はあると私は思う。





切ない夏

2006-01-21 | もう1つのがん(病気)日記

糖尿病でもある叔母は時々インスリンの投与も
受けていた。入院して1ヵ月半、口が渇く、
腹部全体の痛み、背部痛、胸水、呼吸困難、
痰(初めは自力で出すがそのうち自力で出来なくなった)
肌の乾燥という残り時間わずかの末期特有の症状が
増えていく。

意識混濁、せん妄。起きているのかうつろうつろ状態で
話し掛けに答えているのかどうなのか判別出来ない。
少し苦しそうだ。急速に衰えていく姿は別人のようだ。
手足はすごく冷たい。

病室にお見舞いに行っても辛くていたたまれない。
涙をこらえることに限界で早々に病室を出る。

もうこうなると先には確実に死しかないことを嫌でも
回りの人間は思い知る。早く楽になってもらいたいという
気持ちになる。痛みや苦しさを抑えて辛くないように。

心臓や腎機能などが意外と丈夫だったようだ。
この状態が1ヵ月半続いて医師の余命宣告通り
3ヵ月で亡くなった。


ほんとの末期でした

2006-01-19 | もう1つのがん(病気)日記

私は叔母は安定して一度は帰宅出来て、食べたいものや
やりたいことを少しでも味わうことが出来るだろうと
考えていた。医師の言う余命は大体、外れるものである。

たとえば末期で3ヵ月とか半年と宣告されても
その後のそれぞれの遠隔転移のがんの成長は遅い、
もしくは変わりないという状態で普通に生活を送れる
人もたくさんいるので私も叔母は確実であっても徐々に
ゆっくりと進んで亡くなる一週間くらいまでは自宅で
痛みのコントロールをしてどうにか穏やかに家族らに
見守られて過ごせばいいと考えていた。

痛みはモルヒネで押さえられたがその副作用プラス
末期の症状としての便秘と腹水による不快を訴える。
だがこの先、次々と現れる不快な症状の苦痛に比べれば
この程度の不快は楽だと考えなくてはいけない。

この時点でまだ気持ち的に食欲はあったが当然、
消化器は受けつけず食べても一口程度になっていく。

入院後1ヵ月で急変し医師が「会わせたい人を呼んで」
と召集が、かかる。私達はこれは医師の早合点だと
思った。案の定、持ちこたえ数日は安定したが
私が考えていた叔母の「のんびり自宅療養プラン」は
ここでムリだということになった。

叔母の苦痛を軽減させるためにすぐに意識レベルを
落として眠らせるというセデーション(鎮静)が
始まってしまった。これでかなり苦痛から開放されるが
セデーション中はコミュニケーションが取りにくい。
目が覚めても意識はもうろうとして会話が成立しない。
また、すぐ眠ってしまう。徐々に眠りを深くさせていく
と事実上のお別れとなるというものだ。

叔母ということもあったが、それ以上に人ごととは思え
なかった。私だって余命宣告を受けてこの状況にあった
かもしれないし、この先、同じ状況がないとは言えない
し、いずれにしろ人はみなここを通過しなければいけ
ないのだし。純粋に叔母を心配する自分と、申し訳ないが
がん患者として冷静に熱心に予習している自分がいた。
その勉強ぶりはやはり当事者という必死さがあったと
自分でもわかったし、回りの人間も気づいていた。













告知拒否

2006-01-18 | もう1つのがん(病気)日記

叔母は以前から何気に重い病気は知りたくないと
周囲に話ていたらしいので本人の希望を尊重して
本人に事実を教えなかった。叔母は医師の言う
「重い胃潰瘍」を信じた。私達としてはやはりこういう場合
「本人がどうしたいか」ということがとても大事で
自分のことは自分で知っておくべきで、選択肢も
それほどないが、それでも「自分が望む残りの
過ごし方」はあるはずなのだ。

家族任せにしては家族は負担が多い。本人同様か
またはそれ以上にまいってるところで本人に
代わって決めていかなくてはいけない。家族だから
当然なのだが、どうしても本人なら多分こうする
だろうというあくまでも憶測や想像だからホントの
ところはわからない。事実を知りたくないという
ことは決めてもらっていいということなんだろうけど。

腹部に強い痛みがあるので軽減させるためのモルヒネ
投与を受ける。「治療もしないで痛み止めばかり
やってるけどいいのかしらねぇ」と本人。
なんとなく察して欲しいと願ったが意外と鈍感で(笑)
気づいてはくれなかったので緩和ケアの転院もムリ
だった。治療が可能な状態であれば治療を受けさせる
ために酷知は絶対されるのだろうけど。