とぎれとぎれの光と風
公園の、短く刈られた青い芝生の上を歩いていた。家路に向かっていた。岩に囲まれた窪みを我が家と呼ぶのならば。君の家は、川の流れの上にあるのか。僕らは、浮雲のように流れるしかない。そんな戯言は、ともかく、僕は、晩夏の夕暮れ、芝生の上を歩いていた。すると、子犬を連れた主婦数人が、喋っていた。「胃カメラ飲んだほうがいいよ。はっきりするから」僕は、突然、発作を起こした。生き延びるよりは、僕は、密林を掻き分ける。美術雑誌をめくって名画を見るよりは、ルーブルの壁にかかっている絵の額縁の傷を見る。いや、ルーブルがすべてとは言わない。寒村の小さな美術館の片隅に、ひっそりと飾られているコクトーの壁画を見るほうがいい。君が指先でコクトーの署名をなぞる、感激した面持ちで。僕は、それだけで至福の世界に滲むように入ってしまう。君は、あの時、本当に幸福だったのか。今でも、あの幸福な時間を思い出すことがあるだろうか。
僕は一人でも、窓ガラスのない窓から地中海を見ているだけで幸福だった。そのガラスのない窓枠の横の壁面には、ピカソが飾られていた。ピカソと地中海を同時に眺められるとは、なんて素晴らしいのだろう。窓ガラスのない窓から下を見下ろす。二人の少女が石の上に座り、何か楽しそうに喋っていた。そこここに光があふれていた。僕は、何かに酔っていた。美術館の係員と眼と眼が合った。僕は、その美しい女性に「美しい」と英語で言った。彼女は、にっこりと微笑んで、「ありがとう」と英語で答えた。壁面は、茶系、地中海は群青色だった。
草むらの中に細い道があった。僕は、いつものようにさまよった。少し下がった所に、君がいた。君は、ジーンズに素顔だった。僕らは、数時間後には一緒にランチを食べていた。君は、ウエイターに「私たち、分け合って食べます」と言ったね。知り合ったばかりなのに、どうして分け合って食べるのだろう。僕は、もう普段の僕ではなくなっていた。君はワインを飲んだ。僕も飲んだ。一つの皿から僕たちはまるで家族か恋人同士のように食べた。そばには、樹木が風に揺れ、人々が行き交った。外に出されたテーブルの上で、僕が食べたのは、幸福だった。
僕らは、小さな教会へ行き、マティスのステンドグラスを見た。美しい係員の流れるようなフランス語で説明を聞いた。紙を見ない彼女の説明は、一度も淀むことなく、まるで女優の独白場面だった。鑑賞後、君は、トイレを借りようとした。意外にも、「トイレはない」と言われた。僕は、美の余韻に浸りたかったが、そんな甘い気分は吹っ飛んでしまった。僕らは、すぐカフェに向かった。選んでいる余裕はなかった。最初に見つけたカフェに入った。僕は、すぐトイレを探した。トイレ使用の順序が逆かなと思いつつも、僕は小便をし、その後、彼女に場所を教えた。何も口には出さなかったが、その時、僕は彼女に対してなぜか小さな罪悪感を覚えた。
南仏の小さな村の名を書いたところで何になるだろう。僕らは、城壁に囲まれたその小さな村で一日を過ごした。君は本格的な高級カメラを持っていた。細い通りにいた猫とか小奇麗な店先などを君は写していた。僕は使い捨てカメラを持っていた。僕は、君の行動を見ることに忙しくて、自分ではあまり写さなかった。ありふれた言い方だけど、僕は、夢の世界にいるような気分だった。どの店も一つの小さなおしゃれな美術館だった。僕は夢心地だった。君がそばにいたからか。
その村に行くために、僕はニースからバスに乗った。どれくらいバスに揺られて乗っていたのだろう。あの時、草むらの中の細い道で、君に出会わなかったら、僕はどんな気分でニースに戻っただろう。僕は、しかし、君と出会い、一緒に城壁の内部を歩き回り、一つの皿からランチを食べ、同じバスに乗って、ニースに戻ってきた。ニースに戻る途中、地中海は右側に光っていた。ニース空港も同じく右側に見た。
僕は、君に言った。良かったら、一緒に夕ご飯食べない? 一人だと入りにくい店もあるから、と。君は、何と答えたのか、もうはっきり覚えていない。ただ、君も一人だと入りにくいと感じたことがあった。君は、僕から離れなかった。僕たちは、ニースの町を歩き回り、あれこれと食べたいものを探し回り、結局は、路上に並べられたテーブルの一つを囲んで向かい合って座った。豪勢な海の幸の料理だった。君は、食べる前にその料理と僕の顔を写真に撮った。確かに記録する値打ちはあった。僕たちは、またワインを飲み、分け合って食べた。君は、ビオラ奏者だと言った。フランスには勉強のために来ていると言った。君は僕に、「学者さんですか?」と尋ねた。君は、人を見る眼がなかった。僕の心は、乞食同然だった。僕が職業を言うと、君は、へえ、そんな仕事で一月もフランス放浪が出来るんですか、と言うようなニュアンスで反応した。僕は、本当に、行く先も決めずに乞食のように放浪していた。僕には、未来がなかった。いや、未来に続く扉が探し出せていなかった。いや、扉には鍵がかかっていた。凱旋門を見ても、モナリザを見ても、僕は締め出されていた。
君の素顔には、まだ幼さが残っているように見えた。一月後、だったろうか。君の出る小さなコンサートが日本で開催された時、僕は、君のコンサート用のドレスと化粧した君の顔を間近に見た。僕の胸は慄いた。あまりの美しさに、息を飲んだ。草むらや海の中では、何も感じなかったのに。そんな薔薇色の未来がやってくるとは夢にも思わなかったその時の僕は、夕食後、ただ、こう言った。明日は、じゃ、そこの海で泳ごう、と。僕たちは10時に海岸で落ち合う約束をして別れた。君のホテルは海辺にあり、僕のホテルは丘の上にあった。時間を逆戻りさせることが出来るのならば、僕は、その晩、君といつまでも一緒にいることを望んだだろう。僕は、ワイン以外の何かに酔っていた。朦朧としていた。ひょっとして、幸福に酔っていたのだろうか。
翌朝、君は、約束通り砂浜に来た。君は、予告通り紺の競泳用の水着を着ていた。僕は海の中の君の写真を撮った。君は、素顔だった。沖に向かって君は泳ぎ出した。どんどん君の姿は波間に小さくなっていった。僕も地中海で泳いだ。思い出を残すために。僕の思い出は、しかし、岸辺を離れることはなかった。
僕は、もっと美しい海岸を知っていた。僕は、次の日、そこに誘いたかった。しかし、君は、友人のいるアビニヨンに行く予定があった。君は、迷っていた。僕は、頬杖を突いて、君の眼を見つめた。そして、言った。僕のホテルに来ればいいよ。君は、僕の眼を見つめ返した。安いホテルが見つかったら、一緒に行ってもいい、と君は言った。君は、ホテル探しを始めた。僕は、一緒に付き合った。僕たちは、小さな一人乗り用のエレベータに体をくっつけるようにして乗った。僕は、このエレベータがいつまでも上昇し続ければいい、と思った。小さなホテルだった。夫婦で経営していた。あいにく、空室はなかった。君は、迷っていた。結局、君は、次の日、ニースを離れることにした。僕は、海辺のホテルから駅まで彼女の荷物を運びながら、初めて、寂しさを感じた。彼女は、駅横のカフェで僕にカフェをおごってくれた。「気を付けて」と言った後、僕は、一人で歩いて海岸に向かった。大きな外国航路船が入り江に浮かんでいた。
何時間歩いただろう。気が付くと、テニスコートとテニスレッスンの看板の前に立っていた。日本と違う。一人の人間が自分の好きなコーチに直接電話をして予約を取り、個人的にレッスンを受けるのだ。僕の気紛れな性格に合っていた。僕は、公衆電話からマリーに、「明日テニスのレッスンを受けたい」と電話をした。彼女のスケジュールは空いていた。僕は、すぐ近くのデパートに行き、HEADのラケットとテニスシューズを買った。買った時は気付かなかったが、自分の買ったラケットのグリップ部分の断面は、楕円形になっていた。
翌日、テニスコートに出掛けた。コートは8面ほどあった。いずれも赤土だった。コートサイドにはレストランがあり、優雅な雰囲気で食事をしている人々がいた。コーチは、若くはなかった。若い頃は、パリに住んでいた。人生の後半は、空気のきれいな南仏で暮らすことにしたそうだ。少し打ち合った後、マリーは、ゲームしたいかと僕に聞いた。僕らは、ゲームをした。僕は、負けた。マリーは、しかし、ほめてくれた。「先日ベトナム人とテニスをしたが、彼と同じくらいうまい」と言ってくれた。僕は、マリーに規定の謝金以外にチップを渡した。
夕方、ラケットを担いで丘の上のホテルに戻ると、受付のアルバイトの若い女の子が「テニスしてきたの?」と聞いてきた。2週間毎日顔を合わせていると、段々お互いに親近感を覚えるものだ。おまけに彼女は僕の好みの顔をしていた。僕は、声を掛けられて嬉しかった。僕は、フランス語で、「とても疲れたよ」と答えた。彼女は、フランス語がうまくなったねとほめてくれた。社交辞令と分かっていても、気分はルンルンになった。どこか、しかし、心の奥では、寂しい風が吹いていた。たとえて言えば、僕は、満潮なのに、満潮になりきることができない海だった。
どこへも行く予定がない時は、いつもニース駅から電車に乗って海に行った。海岸では、若い女が水着さえ脱いで日光浴する。僕は、少しドキドキしながらも、盗み見ることを止めなかった。僕は、ヴァレリーの詩を思い出しながら、ワインを海に注いだ。ほとんど毎日、僕は、チカチカ光る波のきらめきを見ながら泣き暮らした。今頃、君は、アビニヨンからパリに戻っているだろうか。海に飽きた時は、美術館巡りをした。どこへ行っても、僕の心は、引き潮だった。何かがいつも心から失われていくような感覚があった。砂時計から砂がこぼれ落ちていくような。
海では、しかし、いつも甘い酔いの中でゆらゆらしていた。ある意味で幸福だった。11時頃から海辺のレストランに入り、3時頃まで昼飯を食べていた。テーブルには、ワインの瓶を置いて。ただ、君がいないから、一つの皿から分け合って食べることはなかったけれど。長いランチの後は、夕方まで波打ち際で波のまにまに揺れていた。
僕は、ガイドブックを見て、ニーチェが散歩した小径へ行くことにした。ニースとモナコとの中間にあるエズと言う名の村だった。僕は、初めバスで行くつもりだった。バス停で地元の通勤客に尋ねると、そこから歩いてでも行けますと教えられた。ニーチェの散歩道だから、すぐ到着できるだろうと思った。実際は、山道だった。40分程度登った。途中で振り返ると、眼下に地中海がきらめいていた。無数の小さな銀色の三角形が、それぞれまばゆく光っては消え、きらきら輝いては消えていった。再び登ろうと、何気なく、左手に聳える山を見上げたら、巨岩が眼に入った。まるで超人が肘付椅子に腰掛けているような風景を形作っていた。僕は、ひらめいた。ニーチェはこの道を散歩しながら、あの有名な主著の構想を練ったと言われている。ひょっとして彼は、あの巨岩を見て超人を思い付いたのではないか、と。僕は、彼が見たのと同じ岩や海を見ているのだと思うと、何かが心の中に満ちてくるのを感じた。
途中、山の中に民家らしいものがあった。通りかかると、そこの飼い犬数頭が激しく吠え立てた。登りきると、教会の前に出た。不信心のくせに、神社仏閣には足が向くたちだ。教会の内部に入った。と、顔立ちの整った日本人女性がいた。「こんにちは」と挨拶すると、彼女は黒い眼に静謐さを湛えたまま、「こんにちは」と言った。僕は、先に外に出た。しばらくすると、彼女も出てきた。彼女は、グルノーブルにある大学に留学するための旅の途中だと言った。今夜は、そこのホテルに宿泊するの。彼女の指先の延長線に沿って、僕は視線を移した。みんな立派な目的のある旅をしているのか。僕は、密林を掻き分けるためだけに放浪していた。ゴールのない旅だった。「これからどうするんですか」彼女が聞いた。君をさらって行きたいんだ。まさかそんな事は、言えない。いや、そう言えば良かったのかもしれない。言えば、頭から鬼のような角が生え出しただろうか。僕は、「この下の海岸でランチを食べて、それから泳ぐよ」と言った。その時、一陣の風が渦を巻くように吹いてきて、彼女の前髪を揺らした。風の中に散ったのは、角もなければ牙もない僕の白昼夢だった。
素敵なエズ村の佇まいやそこから見下ろす地中海の景色については、僕には書けない。僕はただそこから離れたくなかった。そこのホテルに泊まりたかった。宿泊料金は高額だった。乞食や放浪者には無縁の場所だった。僕は、再びニーチェの小径に戻り、いつもの海岸に行き、いつもの席に座り、いつものワインとランチを注文した。ほろ酔い気分でいると、隣のテーブルから男が英語で話しかけてきた。
「日本のどこから来たのか」
「岐阜県だ」
「日本に行ったことがある。美しい所だった。IZU、とか言う所だ。」
「ああ、伊豆、ね。どこから来たのか」
「イギリス、ロンドンだ」
「ああ、ロンドン、ね」
彼は、ロジャー・ムーアだった。分厚い胸を陽に晒していた。僕らは砂浜より一段高い所にいた。一段低い所の砂浜のテーブルにはアラブ系の女性客がいた。手が滑ったのか、何かの拍子で僕のワインの瓶が、そのアラブ系の女性客たちのテーブルの方へ落ちていった。咄嗟に僕は、フランス語で「ごめんなさい。お許しください」と言った。この言葉だけは、いつでも即座に喋れるようにしておいたのだ。ロジャーは、下の席から瓶を拾って戻ってきた僕に、「良かったら、このワインを飲まないか」と自分の席のロゼワインを指差しながら言った。僕は、礼を言って断った。昼寝をするためか、ロジャーは、タオルを肩に掛けてビーチパラソルのある方へ行った。
次の日は、金もないのに、朝からモナコに行った。電車から降りて、地上に出ると、目の前に大きな客船が停泊していた。雨だった。昼前には、しかし、太陽が照りだした。僕は、他の大勢の観光客に交じって衛兵の交替を見た。狂いの許されない厳粛な儀式だった。ぶらぶらと歩いた後、ふと建物の陰に止まっている大型バスを見ると、任務を終えた先程の衛兵たちがバスに乗ってどこかへ行こうとしていた。ランチでも食べに行くのだろうか。一つ一つの顔をよく見ると、そこには衛兵の儀式ばった線は消えていて、普通のおじさんのたるんだ表情や微笑みがあった。仕事が終われば、衛兵だって人間さ。そうだろう。しかし、少々違和感が残った。さすらいたくないような街路をさすらった。なぜかしっくりこなかった。モナコは、放浪者気分の僕には向いていない場所だった。山のような大型客船を見上げた後、僕は、朝来た道を辿り、電車に乗り、そそくさとニースに戻った。
どこの駅前だったか、どこの街角だったか、忘れてしまった。朝だったことは覚えている。僕は、ワインの瓶を持ってコンクリート製の階段に座っていた。何のためそこに座っていたのか、それも分からない。ただはっきりと覚えている。乞食が2、3人いた。そのうちの一人が仲間に「さよなら」と言って別れた。乞食でも挨拶をするんだ。ふと見ると、彼も瓶を持っていた。空だった。僕に近づくと、彼は、「ワインを恵んでくれ」と言った。僕は、自分の瓶から彼の瓶にワインを無造作に注いだ。すると、彼は、「もっと優しく、そっと注いでくれ」と言った。味がまずくなるような注ぎ方は止めてくれ。僕はそう解釈した。ゆっくりと静かに注いでやると、彼は、僕に礼を言って離れて行った。朝からワインの瓶をぶら下げて、ラッパ飲みしているのは、僕らだけだった。僕は、別れ際に、乞食に「さよなら」とフランス語で言った。
幻聴のようなものが始まった。「パリに戻ったら、モンマルトルの丘に行く」、そう君が僕の耳に囁いた。その夜、僕は、なぜかモンマルトルの丘に行けば、君に会えるような気がしだした。ワインの瓶を捨てて、僕もパリに戻ることにした。次の日、と言っても、もう何日だったか覚えていない。何日であろうと、何曜日であろうと、構わない。ある朝、TGBの予約を取りに駅へ行った。窓口で、2等の禁煙席を頼んだ。窓口の若い女性は、腕に刺青のようなものをしていた。英語で「美しいですね」と言うと、彼女は「ありがとう」と答えて、立ち上がり、スカートの裾を捲り上げると足の方の模様まで見せてくれた。僕は、再び、「美しい」と感嘆し、「その模様は何ですか」と尋ねた。彼女は、机上のメモ用紙にフランス語を書いて、ゆっくりと発音してくれた。僕は、口真似をした。彼女は、魅力的な笑顔のまま、軽くうなずいた。ここは、まさしく南フランスだった。見詰め合う男女の眼と眼の間には、すぐまばゆい光が飛び跳ねた。
パリに戻ると、僕は、いつものホテルに行き、受付の青年に空き室があるかと尋ねた。アルジェは、(仮にそう呼んでおく)、ある、と答えた。部屋を見てもいいかと聞くと、彼は、3階の部屋まで案内してくれた。小奇麗だった。僕は、そこに泊まることにした。部屋で荷物を整理した後、僕は、早めの食事に出掛けた。
ホテルは、エッフェル塔の近くにあった。あるいは、エッフェル塔は、僕のホテルの近くにあった。僕は、君のことばかり考えていた。あるいは、君は、いつも僕の心の中にいた。ある小さなレストランの店先の路上に小さな白いテーブルが5卓ほど並んでいた。そこからエッフェル塔は、建物が邪魔になって見えなかった。君の姿は、何も遮るものがなかったから僕の心の眼にはよく見えた。僕は、ギャルソンにシャンペンの小瓶を注文した。夏なのに蚊がいない。蝿も来ない。日本とは違う。僕は、フランスでは店内で食事するよりも外のテーブルで食事することのほうが好きだった。しばらくすると、店主が小瓶を持って現れた。彼は、挨拶をした後、ラベルを僕に見せた上で詮を抜いた。グラスの中で小さな泡がシャワシャワシャワと音を立てた。僕が「おいしい」と答えると、彼は、「ごゆっくり」と言った。なぜこんなに歓待してくれるのだろう。顔の黄色い貧乏臭い男なのに。解せなかったが、嬉しかった。
夕食後、ホテルに戻った。受付には、マダムがいた。初対面ではなかった。彼女の顔は、見知っていた。挨拶した後、僕がニースやマルセイユに行ってきたと話すと、マダムは、私はマルセイユ出身だと言った。ブイヤベースの話をすると、マダムは、両手を派手に動かしながら、マルセイユのブイヤベースはおいしい、と言った。彼女の口の中には条件反射なのか唾が出ていたようだった。
僕は、部屋に戻って、靴下と下着とタオル類の洗濯をした。慣れると一人旅の放浪も苦にならなくなる。洗濯の後、裏庭に出て薄闇の中で缶ビールを飲んでいたら、2階の窓が開いた。「日本の方ですよね」日本人の中年女性だった。彼女は、僕の旅の目的を尋ねた。僕には答えられなかった。僕はただ、滞在期間だけを話した。彼女は、勝手に、僕をどこかの一流商社員のようにみなした。彼女は、「私は、娘と一緒に北アフリカに行くんです。パリにはもう飽きたから」と言った。「良かったら、2階に来て、娘の話相手になってやってください」とも言った。僕を娘の結婚相手にさせるつもりなのか。見上げると、「娘」と呼ばれた女性の影が窓ガラスに少し映った。暗くてよく見えなかった。母親が勘違いしているのが分かっていたから、僕は、2階の部屋には行かなかった。
自室に戻り、テレビをつけた。日本のアニメ漫画をやっていた。「タッチ」だ。「とうふ」という看板は日本語、ミナミが喋っている声はフランス語。何かしっくりしない変な所が、見ていて愉快だった。僕のお気に入りは、歌手のブリトニー・スピアーズだった。彼女がテレビに出ると、僕の気分は高揚し、気がかりなことはすべて頭から消え去った。俗歌を侮ることはできない。
僕は、放浪者だった。ランボーを気取っていたのか。僕は、しかし、「とぼとぼ歩く」ことは決してしなかった。僕は、一日中でも歩いた。何時間でも歩いた。もしパリに足跡が残っているなら、 僕の足跡はパリ中に残っているだろう。君に会えそうな予感がして、僕は、その日、モンマルトルの丘に行った。似顔絵描きが掃いて捨てるほどいる。観光客は多く、肩と肩とが触れ合うほどの混みようだった。僕は、アイスクリームを舐めながら君を探し回った。君の姿は、見当たらなかった。僕は、甘い思い出に酔い痴れていた。僕は、この世にいながらこの世にいなかった。
僕の頭の中では、時間も空間も交錯しているようだった。無数の「あの日あの時」が無数の「この日この時」と溶け合った。その混合物は、煮え立ち、沸騰し、爆発し、星雲と化し、渦巻き、幻想を織り始めた。始まりもなければ終わりもない幻想の世界は、至る所にその入り口を開けていた。僕は、一つの浮遊感となって光と風のまにまに漂い、この世と幻想世界との間を出入りした。
バルザックの家で、僕は何を見ただろう。自筆の手紙と部屋と部屋とをつなぐ階段か。各部屋の隅には、監視員が椅子に座っていた。若くてふくよかな女性監視員が、同僚と交替するために立ち上がって、微笑んだ。透き通った青い瞳が宝石のようにまぶしかった。その美しさに、僕は慄然とした。恐ろしさを感じるほど美しかった。僕は彼女の横顔を見送った。僕は多分呼吸することさえ忘れていただろう。そんな所に、しかし、君がいるはずはなかった。まだアビニヨンなのか。もうパリにはいないのか。
ノートルダムの前の広場には観光客の長蛇の列があった。最後尾に並んで長時間待つ気はなかった。待って入れば、中で、君が紺の競泳用の水着を着て泳いでいるのだろうか。
通勤電車の中で、僕は、「失われた時を求めて」を読んだ。2年かかった。長い読書の旅だった。得たものは、しかし、何かあったか。主人公は、言った、パリの女の唇はみな違う、と。なるほど、さすがプルーストだ。小説家だ。女を見る時は、胸ではなく、唇を見るのか。目や胸を見るのは簡単だが、女の唇をじっと見るには、度胸がいる。僕は、君の唇を見なかった。地図を見ながら墓場に行った。僕は、昼間の墓場は、好きなのだ。探し当てたプルーストの長方形の墓石は、まるで昨日作ったばかりのように黒光りしていた。飾ってあった花束も、きょう切り取ったばかりのように瑞々しかった。
ある通りでは、口髭を生やした色黒の男が、店頭で大きな豚肉の塊を細長いナイフで削ぎ落としていた。僕は、その肉とビールとを飲み食いしながら、風任せに歩いた。道路脇の、背の高い樹木が多い公園で、僕は、ベンチに座り、休んだ。アジア系の女の子が、左側からやって来て、「座っていいですか」とフランス語で聞いてきた。僕がどうぞと答えると、彼女は、すぐ隣に座り、サンドイッチのようなものを食べ始めた。僕は何も言わずに通行人を眺めていた。痩せた女も太った女も、ほとんど皆腹と臍を出していた。男と女が並んで座っていながら黙っているには長過ぎる時間だった。右側には、空いたベンチが幾つもあった。僕は、しかし、木陰でただ座っていた。しばらくすると、手に食べ物の残りを持ったまま、女の子は、左斜めの方角に去って行った。誘ってほしかったのだろうか。彼女も風のまにまに漂っていたのだろうか。
マルセイユの波止場で、僕は、腕時計を捨てた。地面に落として壊れたからだ。父からもらった時計だった。父は、河原で拾った、と言っていた。あの時計は、今もマルセイユの海に眠っているだろう。僕は、マルセイユの駅の売店で、安い腕時計を買った。今もそれを使っている。腕時計を見るたびに、マルセイユが蘇る。その海と町の汚れと夜の女が蘇る。マルセイユの夜の女は、真夜中に、店の入り口で長い間立っていた。肌の露出した服だった。夜風が寒むそうだった。僕は、ホテルの3階の窓から彼女をずっと見下ろしていた。風が吹いても吹かなくても、人は、生きねばならない。生きねばならないと思う者だけが人間だ。
エッフェル塔の近くのホテルのマダムは、受付にいた。このホテルは、この年、経営者が変わった。内部も大幅に改造されていた。僕は、実は、前のマダムに会えるのを楽しみにしていた。前のマダムは、80歳くらいに見えた。彼女は、僕が日本に帰る朝、英語で「戻って来い、戻って来い」と2回言ってくれた。僕は、彼女が僕の朝食のためにパンとジャムとカフェを用意してくれたことを思い出す。ある朝、彼女は、僕の年齢を聞くと大げさに驚いてみせた。そのマダムは、しかし、もういなかった。代わりに新しいマダムが受付にいた。何度思い出しても、思い出すたびに、新しいマダムは、受付にいる。僕は彼女とは初対面ではなかった。南仏に行く前、このホテルに泊まった。その時、僕は彼女に会っている。日本人客が多いのか、彼女は、日本語に関心を持っていた。僕が幾つかの日本語を教えると、彼女は必ずメモをして受付の横の壁に貼り付けた。
モンマルトルの丘では、僕は雑踏の中を浮遊し、流れ漂い、君を探した。僕は、君の顔を路上にも、似顔絵描きのキャンバスの上にも見つけることはできなかった。午後9時になっても外は明るく、夜の帳はなかなか下りなかった。僕は、スーパーで赤ワインとバゲットを買ってホテルに戻った。
自分の家の墓には行かないのに、なぜ海を渡って外国の墓地にまで行くのか。ボードレール、ジーン・セバーグ、サルトル、ボーボワール、プルースト。暇があると、僕は墓巡りをした。彼らは、無論、僕には無縁の人々だ。ただ、彼らの幻想が、僕の心の中の道のあちこちに香りをつけている。その香りは、目には見えない。だから、道標にはならない。放浪する者の一時的な気休めにはなるが、目指すべきゴールを指し示すことはない。墓石を見れば、僕がどうにかなるわけではない。どうなるものでもない。僕は、プルーストの墓石を見た。それだけだった。僕は、その名を君のように指でなぞりはしなかった。
夜、ホテルに戻る時は、いつも足が棒だった。シャワーを浴び、靴下と下着を洗濯し、林檎とバゲットを齧り、ワインをコップに注いだ。そうだった。僕は、ホテルの自室では、ワイングラスではなく、コップでワインを飲んでいた。惨めな話だ。僕は、小さな部屋のベッドの中に身を横たえた。なぜかもう君は日本に帰ってしまったような気がした。酔いが早く回り、一晩で一瓶のワインが飲みきれなかった。僕は、次の朝、その飲み残しの瓶と食べ残しのバゲットをデイバッグに入れて出掛けた。
朝、ホテルを出ようとすると、(そのホテルは、夜間は無人になった。夜間は、宿泊客が自分で玄関のドアの開閉をした)、その日の受付担当者がちょうど出勤してくるところだった。左脇に長いバゲットを二本挟んでいた。足にぴったりくっついた皮製の黒ズボンを履いていた。身の軽そうな、小柄で細身の青年だった。ある時、僕は、マダムはあなたの奥さんですかと彼に尋ねた。彼は違うと答え、ボスの女だと付け加えた。彼は、アルジェリア出身だった。僕は彼にアラビア語の挨拶を教えてもらった。探せば、その時のメモが書いてある手帳は、今もどこかにあるだろう。
何日間、一人で僕は、パリの街を、その周辺を歩いたことだろう。幾度も公園やスーパーを通り抜け、葡萄畑の海を横切り、墓地や教会や美術館を巡った。君はどこにもいなかった。メトロの中にも、国立図書館の中にも、サンジェルマンのカフェの中にも。多くの無駄になった時間が、僕を溜め息と諦めの世界に引き込んだ。
パリからドゴール空港までバスに乗って行くことにした。バスのほうが途中の景色が色々と見られるからいいわよ。マダムがそう勧めてくれたのだ。僕は、素直に従った。「さよなら」は、彼女が日本語で、僕はフランス語で言った。
関西空港行きの帰りの直行便は、日本人が多かった。墜落の危険はゼロではない。生きて帰りたかった。荷物は、小さなデイバッグ一つだけだったけど、日本に持って帰りたい思い出だけは山のようにあったから。そう、僕の荷物の少なさは、誰もが驚く。伊吹の実家に戻る時は、ボストンバッグ2個分くらいの量の荷物を持って行く。なのに、フランスへ旅立つ時は、靴下、下着、Tシャツ、各3枚とタオル、ハンカチ、歯磨きセットだけだ。アフリカの奥地に行くのではない。それだけで十分だった。何も不足を感じたことはなかった。櫛もドライヤーも使わなかった。乞食にそんなものは無用の長物だった。ネクタイもスーツも、一人旅の酔いどれには、無意味だった。僕は、ただ日本製の高級な三色ボールペンだけは5,6本持って行った。荷物にならないから苦にならない。何のために? 親切にフランス語を教えてくれた場合、その人にプレゼントするためにだ。誰でもそれぞれ旅の極意があるだろう。僕のそれは、飛ぶ切符と見せるパスポートと使うお金の他は、何も持っていかないほうが良い、ということだ。
君は、ビオラをいつも大事に肩に掛けていた。君はアビニヨンへ行くことに決めた。僕が、君のホテルから駅まで送って行く時、「持ってあげるよ」と軽く言ったら、君は、「命より大事ですから」と断った。命より大事なものがある君は、幸せ者だった。僕には、何もなかった。窓ガラスのない窓から地中海の青いきらめきを見下ろして、ただうっとりとするだけだった。
日本に帰ってから、何日経った頃だろう。君から手紙が届いた。中には写真も入っていた。僕らが食べる前の豪勢な海の幸の写真もあった。君は、仕事で豊田市へ行くからコンサートを聴きに来てください、と書いてきた。僕は、スーツを着て出掛けた。花束は持って行かなかった。小さな会場だった。僕と君との間は、6メートルほどだった。ビオラを演奏する君は、鈴木保奈美だった。いや、きらびやかなドレスを引きずって会場へ入ってくる時の歩く姿勢さえ、違っていた。まるで別人だった。僕にはまばゆい輝きだった。君の左側の方では、髭を生やした有名な作曲家山本直純の息子さんがチエロを鳴らしていた。君は、演奏は、「重労働です」と話していた。僕は音楽家を尊敬している。そう君の耳元で言ったことを思い出す。そうだ、こんなふうに、いつもふとしたことで蘇るのだ。ニースでの二人の会話がどこからともなく蘇るのだ。君は、「肉体労働者です」、そう答えた。
・・・僕らは、体をくっつけ合って細い扉の隙間から庭のレストランの中に入ろうとしていた。そこは、貧乏なゴッホが滞在していた宿だった。宿賃が払えず、絵で払っていたという話で有名な宿だった。高い塀が張り巡らされていたので、内部は外部からは見えなかった。君は、一目内部を見て、写真に撮りたかった。君は、扉の隙間からギャルソンに粘っこく懇願していた。彼は、しかし、予約で一杯だと僕らを遮った。君は、いかにも落胆した声で、「あなたは又来られるからいいわね。もし入れたら、写真を撮って送ってね」と言った。僕は、確かに、君と別れた後、一人でバスに乗ってもう一度ここに来た。写真を送って、君を喜ばせたかった。残念ながら、入れなかった。仕方なく、僕は、君と歩いた城壁の内側の細い道を今度はただ一人でもう一度歩いた。その時の僕の心の中は、光があふれんばかりに輝く春の園になったかと思えば、風が吹きすさぶ冬の荒野の闇にもなった。その逆にもなった。石壁に囲まれた細い路地に、あの時と同じように猫はいた。すると、もう一人の君が、嬉しそうに猫に近寄り、カメラを構えてシャッターを切った。猫は、鳴きもせずに、じっと日陰に佇んでいた。猫の目には僕の影だけが映っていた。僕が見つめていた幻影は、猫の目には見えるはずがなかった。
2006年の晩夏の夕べ、多治見の自宅近くの小公園で始まった長い発作が一段落した。発作の中で、僕が主として書いたのは、2002年のフランス放浪の経験だった。これは、3回目の放浪だった。この3回目の放浪の資金は、実を言えば、医療保険の保険金で賄った。この保険金は、2回目の放浪の後、顔面骨折のため多治見市民病院に入院した時に保険会社から給付されたものだ。2回目の放浪の時、僕は、パリで若者たちがインラインスケートで走り回っているのを見た。信じてもらえないかもしれないが、パリの若者は、路上ばかりでなく、階段の手すりの上さえインラインスケートで滑り降りていた。その時、インラインスケート熱にかぶれた僕は、帰国後、早速インラインスケートを買い、練習することにした。ある土曜日の午後、テニスの後、缶ビールを飲んだ。その後、自宅近くの路上でインラインスケートの練習をした。はっきりと正気に戻った時は、市民病院のベッドの上だった。ついでに言えば、この入院の時、僕は、隣のベッドの患者のテレビで、あの「9.11テロ」を知った。頬骨の複雑骨折で、1ヶ月程入院する必要があると医者から言われた時、僕は、真っ先に仕事のことを考えた。しかし、どう考えてもどうにもならなかった。僕は、生まれて初めて入院することになった。全身麻酔による手術も受けた。全身麻酔の時は、呼吸が止まる。そう医者から説明を受けた時は、不安を覚えた。口腔外科の医者は、しかし、いつも穏やかな表情で接してくれた。不安は、大きくはならなかった。手術後、何とか死なずに済んだ。しかし、いまだに右目の下辺りは麻痺している。僕が、しかし、ここで書きたいのは、自分の怪我のことではない。あくまでも、肌で感じたフランスでの光と風だ。
初めてフランスに旅立ったのは、1999年だった。8月17日、成田第一旅客ターミナル4階。成田発21時55分。AF273。僕は、無事、夜明け前に、シャルルドゴール空港に着いた。空港に着くやいなや一人の日本人のおじさんから話しかけられた。初め、僕は警戒していた。話を聞いているうちに、警戒する必要のない人間だと分かった。同じAF273便に乗っていた彼は、東京の某大学の教授で、16世紀の作家ラブレーの研究家だった。彼は、僕が初めてのフランス旅行をしていると聞くと、空港内のカフェに誘ってくれた。初めての本物のカフェを飲みながら、ちょっと失礼かなと思いながらも、僕は、「ラブレーですか、今、ラブレーを研究する社会的な意味ってあるんですか」と尋ねた。教授は、「研究者の間であるだけです」と答えた。その控え目な答え方に、かえって僕は、「この教授は、多分ラブレー本人よりもラブレーの作品を熟知しているのではないか」と思った。世の中には、ゾウリムシの研究をしている大学教授もいれば、膣の形状について調査している大学教授もいる。僕は、カフェの苦味とともに学問の自由についても味わった。
「君は、どこに住んでいるんですか。多治見ですか。多治見なら、関空港のほうが近いんじゃないですか」
「多治見です。ええ、でも、急に決めたものですから、飛行機の切符が成田しかなかったのです」
「どうして一人でフランスへ?」
「ちょっと絶望したからです。それに、フランス文学も昔から好きでしたから」
「フランス語は話せるんですか。英語は、どうです。話せるんでしょ?」
「話せません」
「どこかへ行く予定は、あるんですか」
「予定は、ありません。行き当りばったりです」
カフェを出てからも、僕の舌の上には、絶望と言う字がしばらく残っていた。後味が少し悪かった。どうしてあんな受け答えをしてしまったのだろう。しかし、今では、不思議なことに、その頃自分が何に絶望していたのかさえ思い出せない。我ながら、いい加減な男だ。
教授と僕は、パリ中心部まで電車で行くことにした。駅の窓口で、僕は初めて、フランス語で「こんにちは」を言い、北駅までの片道切符を1枚買った。ちょっと緊張したのを覚えている。教授は、大きなスーツケースを持っていた。友人の家に泊まるのです。中には、日本のラーメンがたくさん入っています。フランス人の友人が、日本のラーメンを喜んでくれるのでお土産に持っていくのです。君の荷物は、それだけですか。教授は、僕の背中のデイバッグを見て言った。僕が、そうだと答えても、教授は、驚きの声を上げなかった。
パリまでの電車の中で、僕たちは、色々と語り合った。教授は、毎年フランスに来ていると行った。明日は、ポーランドに行きます。ヨーロッパで行ってないのは、あと、ポーランドだけなんです。先生、僕も連れて行ってくださいよ。鞄持ちしますから。冗談と思ったのか、教授は、反応しなかった。
僕が、「アメリカへは行ったことありますか」と尋ねると、「アメリカには興味がありません」と教授は答えた。この答えを聞いてから、なぜか僕もアメリカには興味が持てなくなってしまった。すぐ影響を受けやすいのは、僕の子供の頃からの傾向だった。
パリの北駅に到着した。駅前で、教授は、タクシーに乗った。別れ際に、教授は、「旅の恥は掻き捨てと言います。ま、色々経験をすることですね」と言った。
僕は、教授の名を尋ねずに別れた。東京の大学でラブレーの研究をしている教授なんて、そうたくさんいない。必要があれば、いつでも調べられるだろう。
北駅前には、ホテルがたくさんあった。初めてみるフランスの街並み。美しいというより古色蒼然たる風景だった。どの壁にも、愛の囁きや別れの悲しみが何層にも厚く塗り込められているようだった。僕は、メトロに乗って、シャンゼリーゼに行くことにした。
凱旋門に背を向けて、僕は、ガイドブックを見ながら、右側の道を下っていた。すると、斜め後ろから、「日本の方ですか」という女性の声が追いかけてきた。振り返ると、可愛い女の子がいた。日本人女性だった。
「日本大使館の場所を探しているのですが、そのガイドブックに載っていませんか」
僕は、ページをめくる。彼女は、「ちょっと見せていただけますか」と言った。僕は、ガイドブックを手渡した。彼女は、道の端に寄って地図の上で調べ出した。見れば見るほど可愛い女の子だった。ボーイッシュな髪型と大きな眼と肩に斜めに掛けた黒のショルダーバッグ。僕たちは、どんなふうに話をしたのか、もう忘れてしまった。ただはっきりと覚えている。彼女は、「どこか行きたいカフェありますか」と僕に尋ねた。僕は、サルトルとボーボワールとが通ったカフェに行きたいと言った。彼女は、フランス語学校の学生だった。僕の行きたい店を知っていた。僕は、カフェを注文した。彼女は、オレンジエードを注文した。彼女のフランス語は滑らかだった。僕にもよく分かった。紋切り型の表現になってしまうが、薔薇色の夢のような時間の始まりだった。彼女は、僕の古巣、大阪の出身だった。蛍ヶ池に住んでいたことがあると僕が言うと、彼女は、私の家は、そこから遠くないですと言った。
「フランス人の家庭に住んでいるの?」
「ええ」
彼女は寄宿先での一断面を話してくれた。学校から帰ってくると、マダムが、必ず「きょうは学校で何を学んできたの」と聞くという話だった。毎日毎日、必ず同じことを聞いてくるの。ふうん。僕は、心の中で、それは単なる定型挨拶だよ、と言った。長い雑談がとぎれた所で、彼女は、僕に「どこか見たい所ある?」と尋ねてきた。僕が、「ローランギャロスに行きたい。一緒に行く?」と言うと、「ええ。でも、その前に、ホテルを確認しておいたほうがいいんじゃない?」と言った。僕は、初めてのフランスだったが、フランス事情については、30冊以上の本を読んで勉強しておいた。僕は、テーブル上に飲み物代とチップとを置いて、「しかし、このままお金を払わずに出て行っても気付かれないよね」と彼女に言った。彼女は「うん」と言って微笑した。ギャルソンが近くにいなかったので、僕たちは、さよならも言わずに店を出た。
彼女は、僕のホテルまでついてきた。彼女は、ホテルの近くに「パリ・ハードロックカフェ」の看板を見つけて喜んだ。
「ここにあったのか。探してたの」
「じゃ、入ってみる?」
「ううん、また来るから」
ホテルの中に入った。デイバッグ一つしか持っていなかったけど、僕は、荷物を自分の部屋に置いておくことにした。部屋は、二階だった。二人きりで小さなエレベーターに乗った。僕は、部屋の中に入り、荷物を置いた。ドアから半身を見せている彼女に、僕は、「入って来て」と言った。彼女は、入って来なかった。首を横に振って、微笑した。首を縦に振る時も、横に振る時も、彼女は可愛かった。僕は、彼女のすぐそばに近寄った。「とっても可愛いよ」彼女は何も言わずに恥ずかしそうに微笑を続けた。僕は、ぼんやりしていた。あるいは、小さな幸福感に酔っていたのか。部屋の鍵を部屋の中に閉じ込めてしまった。彼女は、すぐ下に降りて受付係に事情を話しに行ってくれた。受付係と彼女が戻って来て、部屋のドアを開けてくれた。さすがフランスだった。宿泊客が宿泊客以外の女性と部屋の中で会う可能性があるのに何も言わなかった。
僕たちは、また二人きりで小さなエレベーターに乗り、1階に下りた。受付係に彼女は、ローランギャロスの場所を確かめていた。彼女は、テニスを知らなかった。全仏オープンの話をカフェでしたが、ほとんど何も知らなかった。僕たちは、メトロに乗って行くことにした。メトロは、かなり混雑していた。僕たちは、体と体をくっつけて乗った。メトロの中の子供のグループによるスリの話は、無論、予習済みだった。しかし、その子供グループ(その中の小学生くらいの女の子)が、彼女のショルダーバッグに手を入れようとしているのを見た時は、僕も驚いた。彼女は、バッグを取られないように両手で押さえた。いつの間にか、彼女は、子供グループに取り巻かれていたのだ。僕は、彼女をバッグごと抱き寄せた。スリの子供グループは、次の駅で降りて行った。
憧れのローランギャロスの中に入った。僕は、しゃがんで赤土に触った。さっちゃんは(彼女の名前)、僕の手がどれだけの幸福を感じているか、まったく気が付かないふうだった。ランランの像の前で僕は、さっちゃんの写真を撮った。さっちゃんは、観客席に座った僕の写真を撮ってくれた。最後に、僕たちは、肩と肩とをくっつけて、自分たちで自分たちの写真を撮った。
あるコートの中では、男のコーチが、女のプレーヤーに指導をしていた。他には、誰もいなかった。たった4人だけのローランギャロスだった。出る時、さっちゃんが、上の方を指差した。建物の壁面に歴代優勝者の名が刻まれていた。僕は、彼女に「教えてくれてありがとう」と言った。(念のため、自分が撮った写真を見ると、「壁面」ではなく、屋上に取り付けられた金属板に名前が表示されていた。記憶は曖昧。写真は正確。)
僕たちは、レストランに行くことにした。彼女は、僕のホテルの近くの店でいいと言った。「そのほうが便利でしょ?」彼女と一緒なら僕はどこでも良かった。
僕たちは、テーブルを挟んで向かい合って座った。僕たちは、フランス語で書かれたメニューを見ていた。ギャルソンが、英語のメニューを持って来ましょうかと言った。さっちゃんがお願いしますと言った。彼女は、しかし、安い料理しか頼まなかった。
彼女が僕と付き合ったのは、退屈しのぎだったのか。日本人と喋りたくなっただけなのか、僕は知らない。覚醒しながら夢のような時間の中に生きていた僕は、幸せだった。この世には、確かに、悲運もあれば、幸運もある。ただ、忘れてならないのは、どちらもいつかは尽き果てるということだ。あるいは、悲運の中にも小さな幸せがあり、幸運の中にも忍び寄る不幸があるということだ。この世には、また、二つの幸せがある。努力して築き上げる幸せとめぐり合わせでつかむ幸せと。そして、大事なのは、多分、結果ではなく、築き上げる過程そのものだろう。しかし、それでも、彼女のおかげで夢のような甘い時間が僕の心に深く刻まれたことは、拭い去れない事実だった。僕としては、女の美しさも、偶然性も、何事かではある、と言うしかない。
パリの夜は、中々暮れなかった。薔薇色の時間は、シャンゼリーゼの路上で始まり、ローランギャロスの赤土に染まり、ボーイッシュな少女の頬の上で輝き、僕の心の襞の奥に滲んでいった。夜の10時。彼女は、初めて会った瞬間からずっと沈着冷静だった。彼女は、多分僕より知能指数が高かっただろう。僕がこの世で見た数少ない光の煌めきの一つだった。
「明日は、どこへ行くんですか」
「まだ決めてないよ。一緒に南仏でも行こうか」
「国際免許証、持ってるんですか」
これが、運命の分かれ目だった。車で行くのなら、彼女は、どこまでもついてきそうだった。僕は僕で冒険物語の展開に酔い痴れていた。なぜTGVではだめだったんだろう。僕は、彼女の大きな眼の奥を読もうとしたが、読みきれなかった。僕は、何か未練がましいことを言った。彼女は微笑しながら、フランス語で「これが人生よ」と言った。僕は、心の中で、もう一人の自分に対して「そうだね」と言わざるをえなかった。
レストランの外で、最後に、僕は、「家まで送っていくよ。もう遅いから」と申し出た。彼女は、「まだ大丈夫」と断って、僕の前に手を差し出した。僕たちは握手をして別れた。彼女の手そのものは柔らかかったが、その握り締めには強さがあった。「気を付けて」、僕の耳には僕の声がそう聞こえた。
僕は、ホテルの自室に戻った。何度も何度も彼女の仕草や彼女との会話を思い浮かべた。何度も何度も同じメトロに乗り、何度も何度も同じスリの女の子たちに囲まれ、何度も何度も同じ彼女を抱き寄せ、何度も何度も同じローランギャロスに行った。何かの拍子に、彼女は、昼間のカフェ(CAFE DF FLORE)で、ショルダーバッグの中から仏和辞典を取り出し、ある単語を調べ出した。その時の、知的さの漂った微笑は、ベッドの中の僕に何度も憧れさせた。
夜が明けた。僕は、ロワール川流域の古城巡りに行くことにした。モンパルナス駅からTGVでツール市に行きたかったが、乗り損ねた。オーステルリッツ駅からツール市へ行くことにした。片道運賃152フラン(3,040円)。
そのオーステルリッツ駅へ下見に行った帰り道、パリの風物を見ながら、きょろきょろしていると、二人の若い金髪女性が僕の行く手をふさいだ。二人ともポニーテールで、同じようにホットパンツをはき、同じようにデイバッグを背負っていた。フランス人ではなかった。国籍を言い当てるのは難しいが、受けた印象からすれば、アメリカ人らしかった。英語で、通りすがりの僕に、直接的に、「金をくれ」と言った。藪から棒に驚いていると、「財布を盗まれたの。空腹だから、何かこのカフェで食べさせて」とすぐ横のカフェを指差しながら言った。僕は断った。なぜなら、その瞬間、僕の頭の中には、こういう劇が展開したから。すなわち、3人で仲良くサンドイッチを食べ、あれこれ雑談し、一緒のホテルに泊まったほうが安くなるから泊まらないかと持ちかけられ、その気になって、一つの部屋に3人で一晩を過ごすと、翌日、自分の財布を盗まれているのに気付くという劇だった。なぜ、こんな悪い展開を想像したのか。自分でも分からない。逆に、何か楽しい思い出を作ることになったかもしれないのに。その夜、ホテルで僕は、日記をつけながら、可愛い顔立ちの二人の女性のみずみずしさを思い浮かべた。断ったことを少し後悔した。
ツール市では、まずホテルを探した。偶然見つけたセントラルホテル。空室があった。受付嬢の顔は、映画タイタニック号の主題歌を歌っていた女性歌手に似ていた。出入りする度に僕が、片言のフランス語を喋ると、彼女は、必ずにっこりしてくれた。しかし、彼女の応対は、フランス語ではなくいつも英語だった。たまたま受付台の上に、古城巡りのミニバスのパンフレットが置いてあったので、僕は、翌日(8月20日)のツアーの申し込みをした。
その後、ツール市内をぶらついていると、ビール屋の看板が目に付いた。かなり暑い日だった。我慢できず、ふらふらと店内に入り、英語で生ビールを注文したら、マダムは英語が分からなかった。すると、客の中で、英語の分かる禿頭の男が通訳してくれた。2杯飲んだ。店を出て、地図を見ていると、先ほどの男が自転車にまたがったまま、「どこへ行きたいのか」と英語で尋ねてきた。僕が場所を言うと、今度は、フランス語で道順を教えてくれた。僕が「ありがとう」と言うと、彼は右手を出してきた。僕は、感謝の気持ちを込めて握手した。彼は、強く握り締めてきた。異国で親切な人に出会うと、心が温かくなる。僕も、同じく力を込めて握り返した。
翌朝、セントラルホテルの前にミニバスが来た。ツアー客は、僕とアメリカ人3人の4人だった。ミニバスの運転手は、パスカルと名乗った。よく喋る男で、流暢な英語でとぎれることなく喋った。僕たちは、ロワール川流域の古城を巡り、最後には、レオナルド・ダビンチが晩年に住んだ家を訪れた。途中、交通事故に遭いそうになった。パスカル君に落ち度はなかった。彼は、飛び出して来た車の運転手に対して罵り声を浴びせた。相手には、しかし、聞こえなかっただろう。アメリカ人たちは、頻りに「運転がうまい」とパスカル君を褒めた。
正直に告白すれば、晩年のダビンチの家(クロ・リュッセ)自体よりも、その受付窓口に座っていたアルバイトの少女の美貌に僕は、心を奪われてしまった。いや、彼女は、ルーブル美術館のモナリザよりも素敵なモナリザだった。下半身は左横向きで、上半身のみ正面の窓口に向けている。そして、その顔は、甘く美しく、清楚な香りに包まれていた。僕は、強く引き付けられた。どうしても盗み撮りをしたくなった。堂々と写真撮影の許可をもらえば良かったのかもしれない。しかし、断られる可能性もあった。僕は、盗み撮りをすることにした。残念ながら、帰国後、現像して見ると、はっきり写っていなかった。彼女は、正午の鐘が鳴ると同時に窓口業務を交替し、自宅へ帰った。その後ろ姿は、はっきりと撮影することができた。土壁に沿って田舎道を一人帰っていく後ろ姿には、気のせいか、寂しさが漂っていた。それは、僕の心の単なる投影だったかもしれない。出会っていなかったならば決して感じなかった寂しさだった。
ロワール川流域の古城巡りについての記憶は、今では、断片的になってしまっている。手帳やパンフレットの類を掻き回して記憶の整理をした上で書いてもいいのだが、あまり意味があるとも思えない。誰がいつどこの城を見たって他人には関係のないことだ。また、例えば、「シュノンソー城は、16世紀初頭にロワール川支流のシュール川を跨ぐ形で建設されたルネサンス形式の美しい建築だった」と書いたところで精々自分の覚えになるだけだ。シャンボール城の有名な二重螺旋階段について微に入り細をうがって書いたところで臍が茶を沸かすわけではない。バルザックが「ダイヤのように美しい」と言ったアゼルリド城も見た。しかし、そんなことを書いて何になる。それよりも、「僕にはここまで書いてきて分かったのだ。さっちゃんの言ったことの意味が」というようなことをなぜか書きたくなる。無論、それとて他人にとっては、同じように意味がないことだが、また、自分にとってもどれだけの意味があるのか分からないことだが。なぜかそうなる。甘い感傷に繰り返し浸って、過ぎ去った時間を反芻したいのか。僕は、今でもまざまざと思い出す、彼女の頬に浮かんだ恥ずかしそうな微笑と笑窪を。彼女は国際免許証がなければ、つまり、車がなければ、一緒に行きたくないということを暗黙のうちに僕に伝えた。南仏に行くにしても、ロワール川流域に行くにしても、確かに、車がなければ、不便だった。今更ながら、僕は、そのことに気付いた。僕は、タクシーや観光バスを使って古城巡りをした。フランスの地図を見れば分かる。鉄道はある。しかし、鉄道網は日本ほど発達していない。複数の行きたい所へ行くには車が必要なのだ。さっちゃんは、多分、鉄道による冒険旅行でひどい経験をしたのだろう。ストとか鉄道からバスへの乗り継ぎとかのために面倒なことや煩わしいことを。誰でも学ぶものだ。僕には、しかし、目的地がなかった。放浪者気取りの旅だった。電車に乗っていても、バスに乗っていても、心の中では、僕はいつも一人で歩きさまよっていた。時々は木洩れ日が斜めに落ち、足元に蝶のような光がひらひらと揺らめく密林を。
シュヴェルニーの城を見学した後だったか。道端に小さなワイン屋を見つけた。バスに乗る前に飲むことにした。中へ入ると、客が3人いた。2人は隅のテーブルを囲んでいた。僕は、カウンター前に立ち、赤ワインを注文した。グラス1杯180円程だった。美味しいワインが、どうしてこんなに安いのか。やっぱり本場か。感激の中で2杯立ち飲みした。僕のすぐ左斜め前には男が一人で立ち飲みしていた。黒ずくめの老人だった。鍔広の帽子まで黒だった。僕が明るい声を作って、真向かいの店主に大袈裟にフランス語で「うまいなあ」と言った。この黒い闇のような老人だけは何も聞こえなかったように何の反応も示さず、無表情のままだった。僕は、この静かな黒い闇の固まりから言葉では言い表せない何かを感じた。人生も終幕になると、良かったにせよ悪かったにせよ、一人静かに自分の心を味わうしかないのだろう。誰でもなすべきことをなしたのだ。そして、誰でもなすべきことをなさなかったのだ。後戻りは、誰にも出来ない。今、ここにあるルビー色の輝きに乾杯。僕は、人懐こそうな店主に10フランのチップを渡し、黒ずくめの老人を含めた4人に「さよなら」を言って店を出た。
続く