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tory burch

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47NEWSよんななニュース

2013-01-16 14:46:38 | 日記

1985年8月12日-。520人が死亡し、単独機の事故としては史上最悪の惨事となった日航ジャンボ機墜落事故。兵庫県関係の犠牲者だけで100人を超えた。あの日から、間もなく23年。遺族の高齢化が進み、事故を知らない世代も増えた。しかし、家族の元に残る数々の遺品は今なお、事故の記憶と犠牲者の無念を伝え続ける。(磯辺康子、中島摩子) 輝いていた姿土居満代さん「大月真珠」(神戸市)の宝飾部で活躍していたキャリアウーマンだった。神戸市東灘区の土居満代さん=当時(42)=の遺品は、生き生きと働いていた姿を映し出す。グッチの赤い財布と名刺。サファイアやルビーが埋め込まれたネックレス。事故は東京出張の帰途だった。遺体安置所で弟の正栄さん(62)=宍粟市一宮町=は、無数のひつぎを見て途方に暮れた。約一週間後、ひつぎに張られた一枚の紙に目が留まった。「指輪金色で上に赤い石が三個ついている黒色のサマーセーター丸首でバレンチノ製両足に赤色ペディキュア」。紛れもなく姉だった。指輪は、本人とともに荼(だ)毘(び)に付した。ネックレスが見つかったのは二年後。事故の衝撃で宝石が取れ、花のデザインは変形していた。満代さんは宍粟市出身で、五人きょうだいの二番目。社交的な性格で、各界の著名人と交流を深めた。雑誌にモデルとして登場したこともある。「パッと輝いて、パッと散って…。今も、亡くなったというより、どこかに行っているみたい」ネックレスは修復した。華やかだった姉を思い、「きれいに元に戻してあげたかった」と正栄さん。だが財布と名刺は焼け焦げたままだ。遺体発見の現場に立つ石碑には、こう刻まれている。「永遠の輝き一生忘れません」 最後まで乗客の誘導考え対馬祐三子さん〈おちついて下さいベルトをはずし身のまわりを用意して下さいハイヒールを脱いで下さい〉123便に乗務していたアシスタントパーサーの対馬祐三子さん=当時(29)=は不時着を想定し、緊急アナウンスの内容を手帳に記した。乱れた文字。機体が迷走した三十二分間を思わせる。手帳は、日航が社員らの安全教育を目的に開設した「安全啓発センター」(東京都大田区)に展示されている。神戸市中央区に住む父、前田治郎さん(82)の元にはコピーが残る。祐三子さんは県立御影高、甲南大で学んだ。事故に遭ったのは入社七年目。一カ月前に結婚したばかりだった。前田さんは、祐三子さんの言葉をよく覚えている。「ジャンボは安全の点で二重、三重もの構造だから絶対に落ちない」。その信念があったからこそ、最後まで乗客の誘導に思いを巡らせていた。前田さんが寝起きする部屋には、祐三子さんの写真や遺品が並ぶ。中学時代に羽田空港で買った人形、目覚まし時計…。メモをつづった赤い手帳も大切に保管してきたが、二年前、センターの開設時に提供した。「私ももう年を取った。自分が持っているより、少しでも安全や職務に対する意識向上の手助けになればいい」「安全第一」を次の世代へ引き継ぎたい。娘の遺品に、切なる願いを託す。 生きた証しに痛む胸田中愛子さん焼け焦げたズボンとサンダル。私立松蔭中・高校(神戸市)の体育講師だった田中愛子さん=当時(26)=の遺品は、事故のすさまじさを物語る。父の蔚(しげる)さん(84)=西脇市=は、「愛子の遺品」と記したビニール袋に入れて大切に保管する。遺体安置所となった体育館で看護師から受け取った。「娘の生きた証し」という。愛子さんはダンス講習会の帰途、事故に遭った。遺体の確認は、事故の一週間後。片方の脚がなかった。蔚さんは右脚だと思っていたが、今ズボンを見ると、左脚と思われる側の破れ方が激しい。サンダルも、左が見つかっていない。「もしかしたら、なかったのは左脚だったのかもしれません」。遺品を見つめ、つぶやく。それほどに、遺体確認は混乱を極めていた。墜落現場へは、三年前を最後に行っていない。九年前、妻の高子さん=当時(64)=を病気で亡くし、気力が薄れてきた。「心の中では妻の存在が大きくなり、娘が遠くなっていく。愛子にはいつも、『こらえてくれよ』と謝っています」遺品はつらすぎて、長い間手にできなかった。今も、見ると胸が痛い。しかし、「日航にとっては、空の安全を考えるための宝物ではないか」。娘の最期を知る遺品はいつまでも、あの夏の日を伝え続ける。 搭乗券の印字今も鮮明工藤由美さん機体前方左側、窓側の「12A」。それが、工藤由美さん=当時(24)=の座席だった。神戸市東灘区に住む両親、北村喜由(きよし)さん(75)、美江子さん(72)の手元には、由美さんの搭乗券が残る。便名の「123」、日付の「12」。座席番号は今も鮮明だ。搭乗券が入っていたポシェットは肩ひもがちぎれ、底が破れている。財布には、羽田空港の土産物店のレシートがあった。印字された時刻は午後四時三十二分。羽田をたつ約一時間半前だった。由美さんは事故の半年前に結婚し、神戸から埼玉県草加市に移り住んだ。「やっぱり神戸はいい」。電話でそう言っていた。事故当日は、結婚後初めての里帰りだった。「十二日の123便で帰るから迎えに来て」。喜由さんは、事故二日前に電話してきた由美さんの声が忘れられない。「どうしても迎えに来て」と、珍しく強い口調で言った。それが最後の会話だった。阪神・淡路大震災で自宅が全壊。由美さんの遺品も埋もれた。がれき撤去の際、保管していた神棚の周辺は特別慎重に作業してもらった。昨年十一月には、先祖代々の墓地だった三重県から、神戸に墓を移した。街や港が一望できる山の上だ。「喜んでいると思います」と両親。由美さんは、生まれ育った神戸に戻ってきた。日航ジャンボ機墜落事故1985年8月12日午後6時56分ごろ、乗員・乗客524人を乗せた羽田発大阪行きの日航123便(ボーイング747)が、群馬県上野村の「御巣鷹(おすたか)の尾根」に墜落した。520人が死亡、4人が重傷。伊豆半島上空付近で異常が発生してから墜落までの32分間、機体は迷走を続けた。運輸省航空事故調査委員会(当時)は、事故原因を「機体後部の圧力隔壁の破壊」と推定。破壊は、事故の7年前に起きたしりもち事故の後、ボーイング社が犯した修理ミスに起因しているとした。90年、日航関係者らの不起訴が確定した。

 

 


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