心の友だち

人付き合いが苦手な人のためのブログです。
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私たちを支える考え方(21)~障害者は生きる価値がないか?(2)

2016-07-29 18:50:25 | 私たちを支える考え方

次に障害者について考えてみましょう。
ナチスは、障害者が子孫を残していくことで、ゲルマン民族の優秀さが
損なわれると考えました。
現在は、支配・被支配の関係ではなく、社会的負担と社会的貢献が問
題になると思いますが、ここで考えなくてはならないことは、「人の命を
奪うほどの判断をだれがするか!」ということです。
社会的分業が進んでいる現代社会にあって、正当に人間の命を奪う決
断をするのはだれでしょうか。
加害者の彼でないことは確かです。
その判断は裁判官が判決をもって行ないます。
逆に言うと、裁判官以外の人にはその権限はありません。

さらに、その裁判官に「この人を殺してくれ!」と申し出れる人も限定され
ます。
検察官です。
それ以外の人は、そうした要求を裁判官に対してすることはできません。
この仕組みは、死刑に限らず、すべての犯罪行為に適用されます。

障害者をどうとらえようと、それは各個人の自由です。
しかし、司法機関でもない一個人が勝手に刑を執行することは、絶対に
許されないことなのです。



  

私たちを支える考え方(20)~障害者は生きる価値がないか?

2016-07-29 10:02:57 | 私たちを支える考え方

先日、障害者施設で大量殺人が行なわれました。
犯人の男性は、ヒトラーのナチスの思想を正しいと信じて実行に移した
と供述しているようです。

たしかに、施設に入るほどの障害を持っている人は、ほとんど社会的貢
献はできないでしょう。「お金を無駄に使わせている!」と言われてもし
かたのない面はあります。

私たちの実存的認識からこの事件を考えてみましょう。

まず、過去のナチスのように、「ユダヤ民族や障害者は抹殺すべきだ!」
という考え方についてですが・・・・

ユダヤ民族は、今はイスラエルという国を与えられていて、近隣諸国と紛
争はあるものの、とりあえず安住の地を持っているわけですが、以前は自
分たちの国がなく、ヨーロッパ各地に散らばって生活していました。
一般のヨーロッパ人からみると、ユダヤ人というのは「血も涙もない欲深い
守銭奴」という印象があったようです。金貸しなどの人にきらわれる仕事に
ついている場合も多く、人を踏み台にして社会的成功者になった人も多か
ったようです。
しかし、それは他民族の集団の中で生きなくてはならない少数民族の生き
る知恵だったのだと思います。そういう仕事にしか就けなかったと言い換え
てもいいでしょう。

ヒトラーの率いるナチスは、ゆがんだ社会主義思想を持っていました。
自分たちゲルマン民族の国が、他民族によって支配されているといっても
いい状態を解消することが目標とされたのです。
「追放」という方法もあったでしょうが、ゲルマン民族がこれから全ヨーロッ
パを支配するということになると、「どこへ追放するか?」が問題になるし、
いくら追放しても、入り込むのが得意なユダヤ民族は、しばらくするとまた
勢力を伸ばしてくるだろうことは十分に予想できます。
それで、子供も含めてすべてのユダヤ民族を地上から抹殺する!という方
法を選択したのです。

もちろん、こうした考え方は「異常」としか言えないのですが、民族間の紛争
というものは、「全員皆殺し」になりやすいのです。
実際に、アフリカなどでは、部族間の争いで、「その部族を全員抹殺する」と
いうことが行なわれています。
少しニュアンスは違いますが、インドネシアでも独立をめぐって大量虐殺が
行なわれ、国連が介入することで鎮静化させるという出来事がありました。

~続く~



  

私たちを支える考え方(19)~実存と外部世界

2016-07-27 11:03:47 | 私たちを支える考え方

世の中で最も大切なことは、実存的認識を持つことです。
これは、真に「生きている!」と実感できるのが、自分ひとりだけだから
です。あまりにも当然なことなのです。
世界のあちこちでテロによって多くの命が奪われていますが、そのこと
よりも、今自分が蜂に刺されたことの方が重大問題なのです。
その痛みは直接自分に響いてくるからです。

自分を実存者として認識したとき、外部の世界をどうとらえるかが問題
になってきます。
存在しているか存在していないか分からない曖昧な世界ではあります
が、実存的認識をひとつの世界観として説明する相手は、その曖昧な
世界の住人です。
だから、そうした世界の存在を否定してしまうと、「何のために説明して
いるの?」ということになってしまいます。
説明するという行為そのものが、外部世界の存在を前提にしているの
です。
今私がこうしてブログ記事を書いていることからして、外部世界に働き
かけているわけですから・・・・。

こうして、人間は外部世界との関係の中で生きているわけですが、主
体はあくまでも自分自身です!自分の認識によって、はじめて外部世
界がその存在を現わしてくるからです。

今、目の前に大きな山があると想像してみてください。
その山の向こう側がどうなっているかまったく分かりません。
山の向こう側は、あなたにとっては存在しないのです。

ところが、実際は、そこには大きな都市があり、大勢の人間が生活し
ていると仮定します。しかし、そこで生活する人たちは、あなたにとっ
ては「存在しない」人たちでしかありません。
つまり、その都市が誕生したこと、そこに多くの人たちが生活している
こと、そして、最終的にその都市が消滅してしまうことも、あなたには
認識できないのです。その存在は、あなたにとってまったく意味がな
いわけです。
あなたとその都市は、まったく別々に存在しているからです。

情報が遮断されたとき、すべての外部存在は、あなたに対しては消
滅してしまいます。
これを逆からみれば、勉強して知識を吸収するとは、今まであなたに
対しては存在しなかった事物を新たにあなたの前に現わす行為であ
るということができるのです。

知識を吸収する行為は、この無限に広がる世界に、あなたがたった
ひとりで存在しているのではないこと、あいまいではあっても他にも
存在するものがあることを確認することであるともいえるのです。
それは、生きる不安を解消する行為でもあるのです。



  

私たちを支える考え方(18)~仏教と実存的認識

2016-07-15 09:37:05 | 私たちを支える考え方

実存主義哲学では、自分自身を「実存者」、その他の人たちを「現存在」
と言って区別します。
なぜこのように分けて考えるかというと、自分というものは他人と比べる
ことが不可能なほど重要だからです。

世の中のあらゆることは、自分の感覚器官が正常に機能して初めて認
識できるものです。
もし、その感覚器官が機能しなかったら、すべての事物は認識できない
し、自分に対しての意味をも失ってしまいます。

感覚器官がまったく働かないというのは、どんな状況でしょうか。
そうです、「死ぬ」ことです。
自分の死は、すべての物からその存在性を奪ってしまいます。
このことは、逆からみると、「世界のすべての事物を存在させているのは
自分自身なのだ!」ということです。

過去には、実存主義者でないのに、こうした「自分という人間の特殊性・
重要性」に気付いた人たちがいました。
仏教には、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん)とい
う言葉があります。
「天上(神や仏の世界)と天下(万物の存在するこの世の中)、つまり、す
べての存在の中で、唯(ただ)我(われ)ひとりだけが尊い(とうとい)存在
である。」という意味です。
宗教家の言葉とは思えないような感じですが、修行を深めていくとこうし
た境地になるようです。

みなさんは親鸞(しんらん)という人をご存じでしょうか。
仏教の世界に浄土真宗という流派を打ち立てた人物です。
この浄土真宗は、過去においては、それこそ日本中にその信者を獲得し、
とても大きな勢力になりました。
本山は本願寺(東西に分かれています。)です。戦国時代には、織田信長
の強敵として対峙し戦いました。

その親鸞上人(しょうにん)の語録に『歎異抄』(たんにしょう)というものが
あります。
親鸞は「愛の人」と言われ、西洋のイエス・キリストと比較されるように、人
間愛を説きました。興味のある方は、『出家とその弟子』(倉田百三)という
小説を読まれるといいと思います。~薄い本です。

さて、人間愛を説いた親鸞上人ですが、『歎異抄』の中には驚くべき言葉が
あります。
「仏教典の中にある救いの言葉は、すべてこの親鸞ひとりのために述べら
れたものなのだ!」というものです。
これを自己中心主義ととっては間違いです。
実存的認識のレベルに到達していたと解すべきでしょう。

宗教における修行とは、こうした実存的世界観を体感することであるのかも
しれません。



  

私たちを支える考え方(17)~神と実存主義(その2)

2016-07-12 15:26:12 | 私たちを支える考え方

「現象のみを真実とみなす。」とは、具体的に、どのようなことなの
でしょうか。

ある人がその人の信念に基づいて特定の主張をしている場面を
想像してください。
神の存在、世界平和、人間愛、社会のしきたり、人間としての義務
など何でもいいのですが、そうした主張をしているということ、その
人がそういう考え方をしているというのは事実としてあるわけです
が、その主張する内容については、「真実であることを証明できな
い」ことから、「自分がそれを受け入れるには弱く、到底認めること
はできない」と判断するということを意味します。

世の中のたいていのことは証明できません。
そうした「証明もできないこと」に基づいてなぜ行動しなくてはいけ
ないのでしょうか。まったくナンセンスとしか言いようがありません。

以前、ある新興宗教の集まりに参加したことがありました。
勧誘の人が家に来て誘われたので、興味本位に出席しただけです。
何人もの人が次々に演壇に立ち、神のご利益について説明をして
いるなかで、ある人がこんなことを言いました。
「ゆうべ神様が私の前に現れ、~~というお告げをしました。」
というものです。
神の存在を当然のこととして受け入れている信者の人たちにしてみ
れば、耳を傾ける価値のある話なわけでしょうが、こちらは到底信じ
ることはできません。
「夢か幻覚だろう!」という程度の認識です。

つまり、その人がそういう主張をしているというのは、現象として真実
であるけれども、その主張する内容は受け入れるわけにはいかない
ということです。
その主張が間違っていると言っているわけではありません。
それは分からないことなので、「議論の対象にしない!」ということで
す。
これをフッサールは、「現象学的判断中止」と言いました。
「現象の奥にある真実というものは、分からないので、考えないように
しよう!」というものです。
(実存主義哲学以前に、現象学という哲学がありました。)