たかが装いの性差。全裸ならまだしも、衣服をしっかり着用しているのである。法に触れるわけでもないので、犯罪ではない。みっともないから……という美醜の問題ならば、締め切り前に身なりをかまう余裕もなく頭ボサボサ顔カビカビで出歩いている私のほうが、よほど犯罪的だ。周知のように、世の中には生物学的女性であるが放ったらかしの私のような駄目おばさんより、よっぽど麗しい女装男子の方が大勢いる。うん。書いていて、なんか泣きたくなってきた。
よく指摘されることだが、日本社会は異性装に比較的寛大である。歌舞伎や宝塚のように異性装がもはや様式美と確立した表現ジャンルもあり、日常的にもテレビをつければ、マツコ?デラックス以下ドラァグ?クイーンの方々が、ゴールデンタイムにひしめいている日常。これは、ニューバランス 1400世界的に見ても稀有な文化現象だ。ところで、装いの性差は、一般に文化社会的性差であるジェンダーの問題である。一方、生物学的性差はセックス、性的志向性全般はセクシュアリティに属す。
誤解されていることが多いが、ジェンダー?アイデンティティとセクシュアリティとは異なる場合も珍しくはない。もちろん、異性装者がすべて同性愛者なわけでもない。だが、これらはしばしばひとくくりにされ、あまり内実を問われてこなかった。これは、この国の文化的多様性についての、一見「寛容」だがその実「無関心」なまなざしと同根かもしれない。ただ異性装に関しては、欧米キリスト教圏とは異なる素地もある点を指摘しておきたい。
そもそも日本では、古来よりジェンダーならびにセクシュアリティの攪乱やゆらぎが美学的モチーフとして好んで取り上げられて来た。古くは『古事記』において、ヤマトタケルがクマソ征伐の際、女装して敵の首長を討ち果たしたという逸話は有名である。この件は、女装により無力を装い敵の「油断」を誘ったということ以上に、当時美しい年少者は、「男性/女性」の差異がそれほど認められなかっことを示唆するものでもある。とりわけ、「アディダス スニーカークマソ」は男色の文化が濃厚な地域であったという指摘もある。
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