みなさんは世界にファインカントリー(Fine Country)と呼ばれている国があることをご存知でしょうか。
Fineなんてさぞかし爽やかで素敵な国っぽいネーミングですが、
実はファインカントリーこの国は東南アジアのシンガポールなんです。
これはシンガポールはゴミのポイ捨てなどの規律が厳しく清潔で治安もいいため過ごしやすい(Fine)という側面と、
なににつけても罰金(Fine)が多いという側面をかけたニックネームなんです。
たしかにシンガポールは規則が多いためか統制の取れた社会構造をしており、
現在は東南アジア随一の先進国となっています。
しかしこのシンガポール、なかなか苦難の歴史を歩んできてことをご存知でしょうか。
シンガポールはご存知の通りマレー半島の先端にあり、
インドと東アジアをつなぐ海上交通の要衝となっています。
そのため1000年以上前から多くの船が寄港する港町であったとされており、
14世紀には「様々な国の船がやってくる海賊たちの国」との記述が中国の文献に残っています。
当時このシンガポールは「テマセック」という名前で呼ばれていましたが、
14世紀末にはサンスクリット語で「ライオンの町」という意味である「シンガプーラ」という
名前が定着し、現在のシンガポールの名の由来となっています。
その後マラッカ王国の支配下におかれますが、マラッカ王国はポルトガルの侵攻を受け、
シンガポールが焼き払われた1613年以降放棄され人々から忘れ去れることとなります。
そんなシンガポールが再び脚光を浴びるのは1814年まで待たなければなりませんでした。
1814年、シンガポールにイギリスのトーマス・ラッフルズが上陸します。
当時シンガポールを支配していたのはマラッカ王国を継承したジョホール王国で、
ラッフルズはこのシンガポールの立地に注目し、商館の建設をすることになります。
ラッフルズは当時なにもなかったシンガポールを商館を中心に都市化を推し進め、
上陸の10年後の1824年、イギリスの植民地として正式に割譲されることとになります。
その後イギリスの海峡植民地の首都となったシンガポールは
インド洋と太平洋をつなぐ交易の要衝となっていただけでなく、
マレー半島で採れた産物の積出港として機能していました。
そのためインドや中国、インドネシアなど周辺諸国から多くの移民が労働力として移り住み、
現在のシンガポールのような多民族国家となってゆくのです。
1869年にスエズ運河が開通するとヨーロッパからの交易路の中継地点にもなり、
シンガポールはイギリスの東南アジアの拠点として未曽有の繁栄を遂げることとなります。
そんなシンガポールにも戦争の足音はやってきてしまいました。
20世紀前半、当時シンガポールには15万人を超えるイギリス軍が駐留する軍事要塞でもありました。
そのため太平洋戦争がはじまると、開戦と同日の1941年12月8日に日本軍による空襲を受けます。
また同年12月10日に起こったマレー沖海戦ではシンガポールに拠点を置く東洋艦隊と
日本海軍が激突し、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本軍により撃沈されます。
このイギリスの威信をかけた戦艦の撃沈はイギリス本国にも激甚な衝撃を与え、当時のチャーチル首相は
「このニュースほど衝撃を受けた知らせはなかった」と振り返るほどでした。
この東洋艦隊の壊滅の後シンガポールは陥落、日本軍の占領下に置かれます。
シンガポールは昭南島と改称されたうえで軍政が敷かれ、
日中戦争の影響から反乱を恐れた日本軍により中華系住民が多く粛清されるなど
多くのシンガポールの住民が戦争の犠牲になりました。
日本の敗戦後は再びイギリスの植民地となりましたが、
マレー半島で植民地搾取を行っていたイギリスに対する反感も強く、
シンガポールやマレー半島では独立に向けた動きが活発化していきます。
第二次世界大戦後で疲弊したイギリスにはこの動きを余力はなく
1963年、先にイギリスから独立したマラヤ連邦とともに
マレーシア連邦として独立を果たすのです。
こうしてイギリスした独立したシンガポールですが、
先述の通りマレーシアの一部としての独立でした。
しかしここでシンガポールとマレーシアの溝が浮き彫りになっていきます。
というのも当時マレーシアはマレー人を優遇するブミプトラ政策というものを執っていました。
特定の人種や民族を優遇する政策というのは少し変な感じがしますが、
これにはマレーシア独特の民族的事情があるのです。
マレーシアは地理的にインドや中国からの移民が多く、
特にイギリスの植民地になってからはより多くの民族が
労働力として流入することとなりました。
その中で中国系の住民は比較的経済的に豊かな人が多く、
逆に「地元民」であるマレー人は経済的に厳しい立場におかれていたので、
それが民族対立を生んだことからマレー人を国策として優遇することで
民族間の経済格差を少なくしようというものでした。
このブミプトラ政策についてはマレーシアでも賛否両論でしたが、
特にシンガポールでは大きな反発を生むことになります。
というのも、シンガポールは実は中国系の住民が多い国であり、
人口の7割以上が中国系となっています。
そのため「少数派」ともいえるマレー系住民を優遇する政策は
シンガポールにとっては受け入れ難いものでした。
その結果マレーシア中央政府と平等政策をとるシンガポール人民行動党が激しく対立し、
死傷者がでるような暴動が発生する始末になります。
その結果マレーシア中央政府はシンガポールとの関係修復は困難と判断し、
マレーシアのラーマン首相とシンガポール人民行動党のリー・クアンユー党首が合意の上
シンガポールはマレーシアから追放される形で都市国家として独立を果たすのです。
こうしてシンガポールはマレーシアと袂を分かつことになったわけですが、
ここから様々な壁を乗り越えながらもシンガポールの快進撃が始まっていくのです。
シンガポールが独立してからのお話はまた別の記事にて。
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