表題のような短編小説があります。
これは、日本の精神的風土のありようを「日本の霊」として人格化して物語に仕立てたものです。
戦国期に渡来した宣教師の内省と、「日本の霊」との対話で、物語は展開していきます。
この小説で、芥川龍之介は、外来の文物はすべて、「本地垂跡」にかかっては土着化させられてしまうことを説いており、それを「造り変える力」という言葉で表現しています。
(※本地垂跡とは、「神道の神々は、実は仏教の仏が姿を変えて現れたものである」という考えのことです)
外来の文物は、日本の精神的風土に適合させられて、もともと日本の精神的風土が生み出したものであるかのように観念されるようになる、というのがこの小説での芥川の主張です。
確かに、そうかもしれません。
もともと、仏教は何よりもまず厳しい修行を重んじますが、日本に輸入されるや、戒律は排除されてしまいます。
儒教については、礼儀作法、あるいは学問としてのみ輸入されたのであって、宗教としてではありませんでした。
それぞれ、中心を欠くカタチで取り込まれ、しかも、仏教も儒教も日本に根を張っており、それが外来の宗教・思想であるとは観念されていません。
この作品の中で、「日本の霊」は、オルガンティノ宣教師に警告します。
「事によると、泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません」。
わたしたちは、変わるべきでしょうか?
そうではありません。
16世紀末に日本のクリスチャン人口は全人口の10%に達していたと言われています。
それは、オルガンティノ宣教師のような、「日本の霊」に篭絡されない信仰の持ち主が伝道をしたからこそのことでしょう。
当時の宣教師たちは皆、第一級の人物ばかりです。
決して、本国に居場所が得られなくてトバされたわけではありません。
そんな人なら、遠い異国で尊敬と信頼を勝ち得て、その伝道が実を結ぶはずはないのです。
……いえ、私たちは変わるべきです。
キリストの香りを放つ人間に。
著作権の切れた作品を公開している「青空文庫」に『神神の微笑』全文が掲載されていますので、よろしければどうぞ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html