JEC狭山福音教会(大阪狭山市)の聖書・キリスト教・例話コラム

大阪狭山市にあるJEC狭山福音教会(プロテスタントキリスト教会)の牧会スタッフによる聖書・キリスト教・例話コラム。

メッセージ@2009年7月26日(川崎豊信)

2009-08-01 22:32:31 | 日記
日時:2009年7月26日
所:狭山EC
聖書箇所:創世記7:11~19、8:14~20
タイトル:「頼れることの幸い」

 ある教会に、新任の牧師が赴任してくることになった。 教会役員たちがそろって駅まで迎えに出ましたが、だれも牧師の顔を知らない。
どうしようかと話し合っているうちに、列車がホームに到着してしまった。
 彼らは目を皿のようにして、改札を通ってくる人をひとりひとり、注意深く観察しました。そしてついに、あの人にちがいないと、全員の意見が一致した人がいたのだ。
 みんなは喜び勇んでかけより、その人を出迎えた。「牧師先生ですか?」すると、その人はけげんそうな顔をして言った。
「何のことでしょうか?私は長い間、胃をわずらっていて、入院中なのです。今日は所要でちょっと家に戻ってきたところなのですけれど・・・」
 
 人間とは実に頼りにならないものである。教会役員の宛ても外れたのであるが、人のお世話をするはずの牧師が、人の世話が必要な病気がちであったりするという笑えないジョークである。
 しかし聖書の神は、昼も夜もまどろむことない強い方である。この方に頼るこのできる幸いを聖書では記している。(詩篇121:1~「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。121:4 見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。」)

ノアの時代には、人の悪によって地は洪水となった。ノアとその家族7人と動物たちは
箱舟に乗って助かった。
箱舟製作など120年に及びなすべきことを終えたノアは、最後に、箱舟の戸は閉ざされた。その後40日洪水は続いた。一年後に、ノアたちが地上に降り立ったとき、初めになしたことは、祭壇を築くことであった。
この箇所を2つのポイントで見ると次のようになる。

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A 閉ざされた後ろの戸(7:11~19節)
―神に信頼したノア―
B 回復した地上(8:14~20節)
―祭壇を築いたノア―
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A 閉ざされた後ろの戸(7:11~19節)
―神に信頼したノア―

7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。
7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。
7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。
7:16 はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。
7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。

(固定的メッセージA)
16節「・・・それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。・・・」を中心として教えられることは次のようである。ノアは神が命じられたとおりにした。そして戸は閉じられたのである。人事を尽くして天命を待ったのだ。人のなすことは、その荷は決して重荷ではない。主は負えないような重荷は要求しないからだ。するとその後に、神の力によって人が出来ないことが出来てくる。
 ノアは神に信頼して、なすべきベストを行った。そして祈りの内に後の日を待ったのである。
 私たちも、自分のなすべき分を把握して行っていけるよう祈ろう。またその後、祈り神に信頼できるように祈ろう。

(例話A)
1970年4月11日、アポロ13号(ジム・ラヴェル船長(映画ではトム・ハンクス)とフレッド・ヘイズ(ビル・パクストン)ジャック・スワイガート(ケヴィン・ベーコン))は現地時間13時13分に打ち上げられた。当初の飛行は順調であったが、月に到着する直前の4月13日、酸素タンク撹拌スイッチ起動により爆発が発生。酸素タンクから急激に酸素が漏れだした。酸素は乗員の生命維持だけでなく電力の生成にも使用するため、重大事態となる。
当初、事態をつかみ切れていなかった乗員や管制官たちは、途中まで月面着陸を諦めていなかったが、やがて地球帰還さえできないかもしれないという重大事態であることを把握した。二酸化炭素濃度の上昇、電力の不足。地上の管制センターでは、管制官達だけでなく、メーカーの人間も含め、関係者全員が招集され、対策が練られた。搭乗しなかったケンは、電力をいかに節約するかをシミュレータを使って検討、地上からラヴェルら乗員をバックアップした。残存電力を保つため、船内は最低限の電力しか使わず、ウインナーが凍るほど寒くなるが、乗員同士支え合う。
やがて大気圏再突入となるが、再突入時には通常、通信が約3分間途絶してしまう。ケンは何度もアポロ13号を呼び出すが、3分間経っても返答はない。しかし約4分後、交信が入る。限られた資源と時間を使って奮闘した乗務員と管制センターの連携により、彼らは無事に地球に戻ることができたのだった。
管制センターとの協力の下、二酸化炭素のフィルター製作、電力の生成、起動の手動による修正などいくつものハードルを乗り越え、後は天にゆだねた(この際、大気圏再突入角度がわずかに浅くなっていたが、軌道修正は不可能と判断され乗員には伏せられた)。
この3人の宇宙飛行士たちは、熱心なクリスチャンであったといわれる。それぞれが祈りの中で示された御言葉は「1コリント10:13・・・むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます・・・」であったといわれる。

B 回復した地上(8:14~20節)
―祭壇を築いたノア―

8:14 二月二十七日になって、地は全くかわいた。
8:15 この時、神はノアに言われた、
8:16 「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。
8:17 あなたは、共にいる肉なるすべての生き物、すなわち鳥と家畜と、地のすべての這うものとを連れて出て、これらのものが地に群がり、地の上にふえ広がるようにしなさい」。
8:18 ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。
8:19 またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た。
8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。

(固定的メッセージB)
20節「ノアは主に祭壇を築いて・・・」とは、ノアは助かったときにまずしたことは祭壇を築き礼拝を捧げたことだ。ノアは、清い動物の中から全焼の生贄をささげることにより、感謝と献身の気持ちを表したのである。
詩篇34編では「私はあらゆる時に主をほめたたえる」とダビデは歌っている。ダビデはこの時に気違いを装うなど普通の状況ではなかった。賛美や感謝は感情ではなく意思による。ノアもまたこの時に助かったとはいえ、困難の途上、前途多難であった。
またルカ17章では「感謝をささげた者は、十人のらい病人のうち、1人のサマリヤ人であった。」とある。このサマリヤ人の信仰がほめられている。感謝と信仰とは表裏一体である。

(例話B)
ウィリアム・テンプル(1881~1944)は、英国国教会の聖職者で、1942年カンタベリー大主教となった。その後、教会合同運動の指導者、また社会問題、政治問題の改革者としても活躍した。その彼が、感謝について次のように語っている。
われわれの霊的生活は、感謝することがあまりにも少ないために貧困になり、阻害されているかもしれないということは大いにありうる。
与えられた祝福を神に感謝することは、何かを祈り求めることよりも大切である。未来のものを祈り求めることは、確かに神への信頼の表現であるという点において正しくはあるが、少なくとも関心という点においては自己中心的である。祈りによって何かを得ようとするのだから。
しかし、過去に与えられたものを感謝するというのには、それが全くない。自己中心的でなく、それゆえ愛に近い。われわれが神を愛するのは、すべて神がわれわれを愛してくださることに対する応対である。決してわれわれの側から始めるのではない。
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Iヨハネ4:19)。
ノアの燔祭は感謝と献身の表れであった。私達も日々、主の祭壇(感謝と献身)を築いてゆけるよう祈ろう。

(結論)
 ノアは、神の御旨を忠実に実行した。人の分を果たし、後は神にゆだねたのである。その結果としてノアとその家族は祝された。乾いた地に降り立ったノアは祭壇を築き、感謝と献身を表明した。献身とは神と共に歩むということだ。祭壇を築くことが人の精神の土台となる。