ととちーのブログ

てきとーに書いてきます。のんびり、ゆったり。

2020/04/27

2020-04-27 06:47:00 | 日記
死生観と私たち

私たちが惹き付けられる、映画や小説、ドラマ、アニメなどの物語作品の多くには「死生観」が登場しています。

難しい言葉になりますが、私はこの「死生観」という言葉を「死に対する考え方、価値観、生きることに対する考え方、価値観」と解釈しています。
それは、自分の死生だけではなく、他人の死生も関わってくるのです。

物語について、先ほどいくつか例を挙げましたが、物語には作者がいます。
その作者の死生観とううものが物語にメッセージとして届けられているということがしばしばあるのではないかと私は言いたいのです。

例えば、ドラゴンボールで言えば、エンマさまがいたり、天国と時刻があったりします。

他にも、死後の世界に対する考えはさまざまで、(前記のように)あの世とこの世をわける考え方や、人は死んだらお星様になる、という考え方もあるのです。

それは人それぞれであり、あるいは信教のお話と絡んでくるでしょう。

自分の死生を見つめ、他人の死生を見つめるということ、それは日々の生活のなかにあるものなのです。
特にマンガや映画を見る方は、他人(作者や作品)の死生観を覗いているのです。
例えば、親がいなかったり、友人や恋人を亡くしたりするなかで主人公の苦悩や心情が描かれたりするわけです。

そのことを私たちは魅せられているし、何より死生観に対する価値観というのはそれぞれに価値があると私は思います。

みなさんの死生観に価値があると思います。




2020/04/27

2020-04-27 06:10:26 | 日記
哲学を学んで ~自由ってなんだ?~

去年、私は哲学を大学の講義で学んだ。
歴史とか、人物とかは頭には入ってないんだけど、「なぜ?何?」から始まっていくものは面白かった。

コロナで自粛という日々が続いていますが、あるひとりの男子大学生の話を読んで(聞いて)くだされば幸いです。

自由というのはある意味「罰」であるということ

自由というのは、選択を迫られているのであって、「選択をしない」ということも選択をすることになっていくのである。

緊急事態宣言が出され、大学の開始時期が伸び、更にバイト先は休業となり、「自由」になった。たしかに、私は自由を手に入れた。

しかし、自由であっても「する」ことが見つからない、選択肢が消えていく。しかし、選択をしなければならない=何かをしなければならない(なにもしないということも選択をするということ)

ゲームをしても飽きてしまう、絵を描いても飽きてしまう、パズルをやっても飽きる。なにもしていない時間も飽きてしまう。

この連鎖が「自由」という「罰」へどんどん入っていくことになる。

私がたどり着いた先は、「虚無感」だった。選択肢が消えていっても、選択しなくてはならないということが消えていかない。このことは、やるせなさを生んでいく。

まわりはきっと「贅沢だ」と言うかもしれない。その通りである、贅沢である。

しかし、人と会話をしないということ、選択肢が消えていくということは、なんとも心が貧しくなっていくのである。
隔離されていく、狭くなっていくということは罰であるのではないか。

はやく、学校に行きたい。
バイト先に行きたい。

そう思えることがいかに恵まれているか、ということもまた噛み締めなくてはならない。

全てが自由な世界を私は望まない。