日本の「レイライン」を真面目に研究するブログ

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三井寺-天智天皇陵 (14)

2008-04-14 00:44:44 | 桓武天皇陵はここだ!
前回まで淳和天皇御火葬所に注目してきたが、淳和天皇陵にも注目してみる。


淳和天皇は840年6月7日崩御。遺詔により火葬され、遺骨は「大原野西嶺上」で散骨された。現在の小塩山と考えられ、そこに「淳和天皇大原野西嶺上陵」があるが、これは明治になって修造されたものだ。それまでは「淳和天皇御火葬所」が「御陵」であった。



(淳和天皇陵)

筆者は、この淳和天皇陵の所在地が京都府京都市西京区大原野南春日町の「南春日町」という地名が気になっていた。

なぜなら、淳和天皇の父、桓武天皇の祖父(淳和の曽祖父)は春日宮天皇(志貴皇子)と呼ばれているからだが、それだけではない。淳和天皇と縁の深い神社に西院春日神社があるからだ。


西院春日神社(ウィキペディア)
淳和天皇が退位に伴ない淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)へ居を移すに際し、天長10年(833年)にその守護社として創建された。付近では当時の淳和院の遺構が発掘されており、規模の大きな離宮であったことが判明している。


元に戻って「南春日町」であるが、これは、同じく南春日町に所在する大原野神社に由来するようだ。


(大原野神社)

大原野神社(ウィキペディア)
大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、京都市西京区大原野にある神社である。奈良春日社(現在の春日大社)から勧請を受けたもので、京春日(きょうかすが)の別称がある。
(中略)
桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が社殿を造営した。
(中略)
貞観18年(876年)、清和天皇の女御となった藤原高子(二条の后)が当社に参詣した際、右近衛権中将で高子のかつての恋人であった在原業平がその行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠んだ。

淳和天皇の時代には、まだ社殿はなかったようだけれど、この地に散骨されたのは、そこが春日神を祀る場所であったからではないかと思う(そういう説が既にあるのかは不明)。


春日神は藤原氏・中臣氏の氏神である。なぜ淳和天皇が春日神と関わりがあるのかと言えば、単純に考えれば母が藤原氏(藤原百川の娘・旅子)であったからだと思われる。が、気になるのは、中臣氏が山階を拠点としていたこと。山科は天智天皇陵の所在地でもある。


そして、実は、大伴黒主が歌に詠んだ「近江の鏡の山」と、額田王が歌に詠んだ「山科の鏡の山(天智天皇陵)」「大原野神社」がほぼ一直線に並ぶ。


※リンク先に飛んで確認してください。
マイマップ(鏡の山)


新羅明神を祀る三井寺と天智天皇陵を結ぶと淳和天皇御火葬所に至り、新羅の王子天日槍ゆかりの鏡の山と天智天皇陵を結ぶと散骨の地大原野にある大原野神社に至るのである。

ただし、近江の「鏡山」と大原野神社とでは繋がりが弱いように感じるので筆者も自信があるわけではない。あくまで参考程度。


(つづく)



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三井寺-天智天皇陵 (13)

2008-04-13 22:38:08 | 桓武天皇陵はここだ!
三井寺-天智天皇陵についての検証が意外に長引いてしまった。

そもそものきっかけは桓武天皇陵を通過する二つの方位線のうちの一つに比叡山延暦寺-天智天皇陵-桓武天皇陵があり、もしかしたら三井寺と天智天皇陵を結ぶラインもあるのではないかという仮定を基に調べてみると、そこに淳和天皇御火葬所があったことであった。

大友皇子大友村主氏と関わりがある三井寺、「大伴」の名を持つ淳和天皇、両者をつなぐものは何かということを考察してきた。それは未だにわからない。

しかし、調べるにつれ「おおとも」と呼ばれる人物に新羅と関わりがあるケースが多いようだということが見えてきた。また、「鏡山」・「天日槍」・「神功皇后・応神天皇(八幡神)」というキーワードがポイントになっているらしいことも見えてきた。


ところで筆者は恥ずかしながら重要なことを見落としていた。


それは応神天皇も「おおとも」だということだ。

また息長帯比売命 こは大后なり。を娶して生みましい御子、品夜和気命、次に大鞆和気命《おおともわけのみこと》、亦の名は品陀和気命《ほむだわけのみこと》。ニ柱 この太子の御名に大鞆和気命と負はせし所以は初め生れましい時、鞆の如き宍御腕に生りき。かれ、その御名を著けまつりき。
(『古事記 全訳注』 次田真幸 講談社)


生まれられた時に、腕の上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆《ほんだ》(弓を射た時、反動で弦が左臂に当るので、それを防ぐためにはる革の防具)のようであった。これは皇太后(神功皇后)が男装して、鞆をつけなさったのに似られたのであろう。それでその名を称えて誉田《ほむた》天皇というのである。
(『全現代語訳 日本書紀』 宇治谷孟 講談社)

繰り返しになるが、神功皇后は新羅の王子、天日槍の末裔だ。子の応神天皇は皇后の新羅出兵の際、腹の中にいた。

ここまでくれば「おおとも」と新羅が関係していることは決定的ではなかろうか。


だが、肝心の淳和天皇と新羅の関係は不明だ。通説のように淳和天皇の名が「大伴」なのは大伴氏が養育氏族であったからと考えるべきなのだろう。

とはいえ、三井寺と天智天皇陵と淳和天皇御火葬所が一直線に並んでいるのは、ただの偶然ではなく「おおとも」という名を持つことが関係しているのであろうと筆者は考えている。


(つづく)



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三井寺-天智天皇陵 (12)

2008-04-12 21:07:05 | 桓武天皇陵はここだ!
ところで「鏡山」と言えば佐賀県唐津市の鏡山が有名だ。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。
鏡山(ウィキペディア)

松浦佐用姫の伝説についてもウィキペディアより引用する。
537年、新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集にはこの伝説に因んで詠まれた和歌が収録されている。
松浦佐用姫(ウィキペディア)

ここに今までの検証で出てきた「鏡山」「大伴(おおとも)」・「新羅」・「(新羅の王子、天日槍の末裔である)神功皇后」というキーワードが結集している。

これが偶然だとはとても思えない。(なお福岡県田川郡香春町の「鏡山大神社」も神功皇后伝説の地)

明らかに「おおとも」は新羅と関わりがある。ただし親しいということではない。

天智天皇・大友皇子の近江朝廷は新羅と対立する側であった。大友村主氏はその近江を地盤とする一族である。

三輪君の祖大友主は新羅の王子である天日槍を尋問した。

天日槍の末裔である神功皇后は新羅に出兵した。大三輪大友主君と大伴武以連が登場するのは仲哀天皇の死の場面で、皇后から天皇の死を隠して宮中を守ることを命じられたのである。仲哀天皇が死んだのは神託(新羅出兵)を受け入れなかったためだ。

大伴狭手彦は宣化天皇2年、新羅が任那を害するので任那を助けるために派遣された人物。


むしろ敵対しているように見える。


ところで三井寺には新羅善神堂があり新羅明神が祀られている。新羅と敵対していた近江朝廷の都で新羅の神が祀られている意味は何か?

伝説では、円珍が唐から帰国するとき船中に出現し護法を誓ったという。しかし、実際は大友村主氏の氏神であったと考えられているようだ。ではなぜ大友村主氏の氏神が新羅明神なのだろうか?素直に考えれば大友村主氏は新羅系渡来人だったということになる。しかし、ウィキペディアには、
中国からの渡来系氏族だが、中には百済からの渡来を称したものある。
大友氏 (古代)
とある。筆者はこれについて詳しくない。

ただ、たとえ大友村主氏が新羅系だとしても、だから新羅明神が祀られているのだと単純に考えて良いものだろうかという疑問がある。大体、新羅の神だから「新羅明神」と呼ぶというのも、当たり前のようでいて、不思議な話だ。氏神だったらもっと具体的な名前があっても良さそうなものだ。

謎は多いが、筆者には、近江朝廷が新羅と対立し、また新羅王子の末裔神功皇后が新羅を攻めたということを考慮すれば、新羅の神を祀るという行為は、「新羅攻略」のためであるように思える。すなわち、新羅の神は日本の味方であり、正統性はこちら側にあるという思想が隠されているのではないかと思う。

などとは誰も主張していないと思うので、これはトンデモ説であるが、歴史上、敵の家督相続権や王位継承権を主張して侵攻するなど珍らしくもない話であり、可能性としては有り得るのではないかと考える。

(つづく)



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三井寺-天智天皇陵 (11)

2008-04-11 06:48:54 | 桓武天皇陵はここだ!
レイラインの話から外れるが、源氏と新羅の神の関係について。

坂口安吾は「源氏は新羅系で平氏が百済系」と主張しているそうだが、筆者は詳細を知らないので、独自に考えてみる。

源氏の氏神は八幡神である。八幡神が外来の神だという説があるが、それについて言及すると話が長くなるので省略。なぜ八幡神が源氏の氏神なのかという問題も省略。とにかく源氏の氏神は八幡神であるというところから始める。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある宇佐神宮。祭神は応神天皇・比売大神・神功皇后。比売大神は宗像三神のこととされる。宇佐神宮の大宮司は大神氏であったが、後に宇佐氏が継承する。大神氏の出自は大和の大神(大三輪)氏との説があるが異説もあり不明。


ところで、先にふれたが、天日槍「新羅の王子」である。その天日槍について『日本書紀』は垂仁天皇条に記しているが、『古事記』では「天之日矛」と表記され、応神天皇の記事に登場する。天之日矛の伝説を記した後の記述を『全訳注 古事記(中)』(次田真幸 講談社)より引用する。

ヒホコはそのまま但馬国にとどまり、但馬のマタヲの女のマヘツミという名の人と結婚して、生んだ子がタヂマモロスクである。
(中略)
そして上に述べたタジマヒタカが、その姪のユラドミと結婚して生んだ子が、葛城のタカヌカヒメノ命である。この人はオキナガタラシヒメ命の御母である。

要するに、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神宮皇后と、子の応神天皇はアメノヒボコの末裔ということを記したものだ。

ここで神宮皇后の出自を記したのは、単に系図を記したという以上の意味を持つだろう。なぜなら、神宮皇后は神託により新羅に侵攻したからである。

すると皇后が神がかりして、神託で教えさとして仰せられるには、「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目のくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う」と仰せになった。(引用同上)

『日本書紀』によると天日槍は新羅の王子であるが、国を弟に授けて日本にやってきたという。すなわち新羅の王は天日槍の弟(知古)の末裔であり、神宮皇后・応神天皇は兄の末裔ということになる。『古事記』の応神天皇の記述は、仁徳天皇と莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の逸話にもあるように儒教思想が反映しているとされている。これを総合すれば、日本が兄で新羅は弟ということになり、長幼の序で言えば、新羅が日本に服属するのは当然ということになる。

『古事記』が、神宮皇后がアメノヒボコの末裔であることを記すのは、そのような意味が含まれているのではなかろうか。
(これが史実か否か、あるいは何かしらの史実を反映したものなのかの考察は省略)


さて、源氏に戻ると、新羅三郎義光三井寺の新羅明神で元服した。源義経は元服の際、天日槍を祀る鏡神社に参拝したという伝説がある。この両者の共通点は何かというと「弟」であるということだ。

新羅三郎は八幡太郎義家の弟である。義経は源頼朝の弟である。

鎌倉には鶴岡八幡宮がある。
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
鶴岡八幡宮(ウィキペディア)


河内源氏の棟梁が八幡神と関係し、その弟が新羅明神と関係する。ここには、そのような思想があるのではないだろうか?


(追記 4-12 00:06)あまりにも単純なことで書き忘れていたが、新羅神社の祭神素盞嗚尊(すさのおのみこと)は天照大神のである。

(つづく)


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三井寺-天智天皇陵 (10)

2008-04-10 23:02:20 | 桓武天皇陵はここだ!
前回、源義経が元服の際に鏡神社参拝したことについて少し書いたが、実を言えば、これが史実であるという確証はなく、『義経記』では熱田神宮とされている。

義経が「鏡の宿」で元服したことは、『平治物語』に記されている。

生年十六と申、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出て、東路はるかに思ひたつ、心のほどこそかなしけれ。 其夜鏡の宿につき、夜ふけて後、手づからもとどり取上て、ふところよりゑぼし取いだし、ひたときてあかつき打出給へば、陵助、「はや御元服候けるや。御名はいかに。」と問奉れば、「烏帽子親もなければ、手づから源九郎義経とこそ名乗り侍れ。」と答て、うちつれ給て、

「平治物語」(J-TEXTS 日本文学電子図書館)

「陵助」というのは、陵助重頼のことで、平治物語では「金商人吉次」とは下総で合流すると計画していたことになっている。


ここには義経が鏡神社に参拝したことは書かれていない。この伝説がどこに記されているのか筆者は調査不足でよくわからない。「竜王町観光協会」のページには以下のように記されている。

しかし烏帽子親も無く(通常は二人の烏帽子親が必要)考えたところ源氏の祖先は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、新羅明神(しらぎみょうじん)の前で元服をしたと聞く。義経の四代前の八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前で元服し、その弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)は、新羅大明神(しらぎだいみょうじん)の神前で元服式をあげたと言われます。
ならば、牛若もそれにならい鞍馬の毘沙門天(びしゃもんてん)と、氏神の八幡神(はちまんじん)を烏帽子親にしようと思い、太刀(たち)を毘沙門天、脇差(わきざし)を八幡神に見立て、自ら元服式を行ったのでございます。

その時牛若丸16歳、鳥帽子名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とし、天日槍(あめのひぼこ)新羅大明神(しらぎだいみょうじん)を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられております。
義経元服のいわれ:鏡の宿 義経元服ものがたり(竜王町観光協会)

これを読むと、そういう「伝説」があるように見えるが、どこが伝説部分でどこが考証部分なのかはっきりしない。ただ、義経が「鏡の宿」に宿泊したという伝説自体は「平治物語」にも「義経記」にもある。そして、この地が新羅と関わりがあることは、『日本書紀』にも記されている。

そして、源氏はなぜか「新羅」と縁がある。上にも書いてあるように新羅三郎義光が元服したのは、三井寺の新羅明神の前だ(三井寺の新羅明神は円珍が唐から帰国する時に船中に出現したといわれる神)。

源氏と三井寺、新羅明神の関わりについては以下のページが詳しい。
浄妙坊と平家物語(三井寺)

(つづく)

※源義経が鏡の宿で泊った屋敷の名は「白木屋」と伝えられ舘跡の石碑がある。「白木屋」の読みは「しらきや」であり、新羅のことを「白木」と表記する場合もある。
源義経宿泊の館「白木屋」(しらきや)跡(竜王町観光協会)


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三井寺-天智天皇陵 (9)

2008-04-10 20:43:47 | 桓武天皇陵はここだ!
近江の鏡山が位置する蒲生郡竜王町鏡には、源義経が元服の際に参拝したことで有名な鏡神社がある。


(鏡神社)


祭神は天日槍(あめのひぼこ)。⇒アメノヒボコ(ウィキペディア)

時に牛若丸は16歳、自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした。(源氏は新羅系、平家は百済系と言われています)
鏡神社(竜王町観光協会)

上の記述は大変重要であると思われるが、その前に天日槍について。

天日槍については、『日本書紀』では垂仁天皇条に記してある。重要な部分を『全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社』から引用。

一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国にきて宍粟邑にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直の祖の長尾市とを遣わして、天日槍に「お前は誰か。また何れの国の人か」と尋ねられた。天日槍は「手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古に授けてやってきました」という。

(中略)
天皇は天日槍に詔して、「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい」といわれた。天日槍は申し上げるのに、「私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい」といった。そこで天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居処を定めた。それで近江国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍に従っていた者である。

天日槍は「新羅の国の王子」である。「近江国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍に従っていた者である。」という点が大事だが、何といっても気になるのは、ここに「三輪君の祖の大友主」という人物が登場すること。

また「おおとも」だ。

ところで『日本書紀』崇神天皇条には三輪君の先祖として「大田田根子(おおたたねこ)」という人物が登場する。

崇神天皇7年、大田田根子を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐという霊夢を三人の臣が同時に見、天皇は大田田根子を探させたところ、茅渟県(和泉国)の陶邑で発見した。天皇が誰の子か尋ねると、父は大物主大神、母は陶津耳の娘、活玉拠姫だと答えた。


両者の関係は以下のサイトの系図によれば、大友主は大田田根子の曾孫となっているが、孫としているところもある。
社家の姓氏-大神氏-


なぜ「大友」なのかは不明。


なお『日本書紀』仲哀天皇条に、仲哀天皇が崩御した時の記事として、
皇后は大臣と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連に詔して、「いま天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、気がゆるむかも知れない」といわれ、四人の大夫に命じられ、百寮を率いて宮中を守らせられた。(『全現代語訳 日本書紀』)
とある。

これらのことを「史実」と考えれば、時代が違うので、この「大友主」と先の「大友主」が同一人物のわけがないが、これらは「伝説」と考えるべきものであるから、そう簡単に決め付けることもできない。このあたりのことを深く考察するには、とてつもない時間と能力を要する。筆者の手には負えない。

しかし、天日槍伝説に「大友主」という人物が登場する。これだけは、とてつもなく重要なこととして見逃せない。

(つづく)


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三井寺-天智天皇陵 (8)

2008-04-09 22:25:23 | 桓武天皇陵はここだ!
大伴黒主六歌仙の一人。

近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は(古今集1086)

鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると(古今集899。左註に黒主の歌かとする説を記す)

「大伴黒主」(ウィキペディア)より)


「鏡の山」「鏡山」というのは、滋賀県蒲生郡竜王町にある「鏡山」(竜王山)のことであると考えられている。


(鏡山)


ところで、万葉歌人に、天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる、鏡王女という女性が存在する。⇒鏡王女

また、天武天皇の妃である額田王(ぬかたのおおきみ)鏡王(かがみのおおきみ)の娘であるとされる。

『日本書紀』には、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇の曾孫という[1]。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で、壬申の乱の際に戦死したともいう。
額田王(ウィキペディア)

「鏡王」と「鏡山」の関係ははっきりしないが、「鏡王」がここを本拠としていたという説もあるらしい。鏡王女額田王は姉妹だという説もあるが、現在では否定的な見解が主流であるらしい。とにかく両者とも謎が多い。


その額田王の歌、
山科(やましな)の御陵(みはか)より退(まか)り散(あら)くる時に、額田王の作る歌

やすみしし 我ご大君の 畏(かしこ)きや 御陵(みはか)仕(つか)ふる 山科(やましな)の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百敷(ももしき)の 大宮人は 行き別れなむ(万2-155)

(⇒『額田王 千人万首』)。


ここに出てくる「鏡の山」とは「天智天皇陵」のことだ。

なぜ、天智天皇陵が「鏡の山」と呼ばれるのかはわからない。しかし、額田王が「鏡王」の娘であり、その鏡王が近江の「鏡山」と関係があるらしいとなれば、そこに何らかの意味があるだろうことは想像できる。

だが、それだけではない。

天智天皇陵を中として、大友皇子・大友村主氏と縁の深い三井寺と、「大伴」の名を持つ淳和天皇の火葬所が一直線に並んでいるという事実。

そして、三井寺の別当になったという説もある大伴黒主は、大友村主氏でありながら「大伴」と表記され、その黒主が「鏡の山」について歌っているという事実。あるいは大友村主氏が天文遁甲を学んだと記録にあるように「方位」に関して、特殊な技能を持っていた一族ではなかろうかと考えられる点、それらのことには密接なつながりがあるのではなかろうかと筆者には思えてならないのである。

(つづく)



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三井寺-天智天皇陵 (7)

2008-04-09 22:16:59 | 桓武天皇陵はここだ!
大友黒主「大友村主」であるにもかかわらず「大伴」と表記されているのが、単純な間違いではなく、理由のあるものだとしたら、それはどのようなものであろうか?

それはわからない。わからないが一応「仮説」を書いてみる。
(だが、全く自信はない。荒唐無稽な話と受け取られるかもしれないが、それで、今まで筆者が書いてきたことを全て否定されたら困るということを、あらかじめ断っておく)


「仮説」

大伴氏と大友村主氏は、どちらも「おおとも」であり、それが何かは不明だが共通の属性を持っていたと仮定する。その中のある者が「大伴」と表記し、また別の者は「大友」と表記した。

それは各々が勝手に好きな漢字を選んだのではなくルールが存在した。そのルールとは、「おおとも」の中でも有力者だけが「伴」の字を使える特権があり、その他は「友」の字を使用するというものであった。「大伴氏」は有力氏族として「伴」の字を使用する特権を代々受け継いできた氏族であった。一方「大友村主氏」は地方豪族であり「友」を使用した。

すなわち、「伴」字の特権は世襲のようになってはいたが、原理的には「おおとも」の中の有力者が使用できるものであった。

大伴黒主は謎の多い人物であるが、大友村主氏であると考えられる。しかし、六歌仙の一人であり、没後「神」として祀られた。その故に「伴」の字を使用する特権を付与された。

また、天智天皇の皇子「大友」は、最初から「大友」表記と決まっていたわけではなく、「大友」と表記されるのは、皇子が壬申の乱の敗者であり、天皇に即位したという説もあるが、正史である『日本書紀』の上では、あくまで皇子として死んだとされているからである。

もう一人の「おおとも」である淳和天皇は、敗者でないが故に「大伴」表記となった。

その際「大伴氏」は、天皇の名を避けるために「伴」に氏を改めた。「おおとも」の別表記ではなく「伴」にこだわったのは、それが特権であったからである。

以上で「仮説」終わり。

(つづく)



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三井寺-天智天皇陵 (6)

2008-04-09 22:15:21 | 桓武天皇陵はここだ!
「大伴」と「大友」

この両者の関係を推理する上で興味深い人物がいる。

大伴黒主だ。


大伴黒主(ウィキペディア)

大伴黒主(おおとものくろぬし)は平安時代の歌人。生没年不詳、伝不詳。六歌仙の一。六歌仙の中で唯一小倉百人一首に撰ばれていない。本来は大友黒主の表記が正しい。

出自に関して、『本朝皇胤紹運録』に「大友皇子─与多王(大友賜姓)─都堵牟麿─黒主」と系図を掲げるが、皇裔とするのは誤りで、そのことは、『古今和歌集目録』に「大伴黒主村主」、また『天台座主記』第一巻安慧和尚譜に「(滋賀郡)大領従八位上大友村主黒主」とあることから明らかである。大友村主氏は諸蕃(渡来人の子孫)で、『続日本後紀』承和四年十二月条に「後漢献帝苗裔也」とある。

鴨長明『無名抄』に没後近江国志賀郡に祭られたとの記事がある。

古今和歌集仮名序に「大伴黒主はそのさまいやし。いはば薪を負へる山人の花の陰にやすめるが如し」と評される。

大伴黒主は「大伴氏」ではなく「大友村主氏」であるというのが通説のようだ。

おそらくそうなのであろう。

だが、それではなぜ「大伴」(『古今和歌集』)と表記されているのだろうか?

これを単純に間違いで片付けていいものなのだろうか?

そこに「大伴」と「大友」を結ぶ秘密が隠されているのではないだろうか?

大伴黒主は謎の多い人物で、それを解明するのは難しい。

だが、筆者は「何かがある」と感じるのだ。

(つづく)


※なお、滋賀県大津市には大伴黒主神社がある。また、『大日本史』によると、園城寺(三井寺)の別当であったとされ、またネットで得た情報ではあるけれど、円珍を別当とすることを要請したという説もあるそうだ。



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