前回まで淳和天皇御火葬所に注目してきたが、淳和天皇陵にも注目してみる。
淳和天皇は840年6月7日崩御。遺詔により火葬され、遺骨は「大原野西嶺上」で散骨された。現在の小塩山と考えられ、そこに「淳和天皇大原野西嶺上陵」があるが、これは明治になって修造されたものだ。それまでは「淳和天皇御火葬所」が「御陵」であった。
(淳和天皇陵)
筆者は、この淳和天皇陵の所在地が京都府京都市西京区大原野南春日町の「南春日町」という地名が気になっていた。
なぜなら、淳和天皇の父、桓武天皇の祖父(淳和の曽祖父)は春日宮天皇(志貴皇子)と呼ばれているからだが、それだけではない。淳和天皇と縁の深い神社に西院春日神社があるからだ。
⇒西院春日神社(ウィキペディア)
淳和天皇が退位に伴ない淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)へ居を移すに際し、天長10年(833年)にその守護社として創建された。付近では当時の淳和院の遺構が発掘されており、規模の大きな離宮であったことが判明している。
元に戻って「南春日町」であるが、これは、同じく南春日町に所在する大原野神社に由来するようだ。
(大原野神社)
⇒大原野神社(ウィキペディア)
大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、京都市西京区大原野にある神社である。奈良春日社(現在の春日大社)から勧請を受けたもので、京春日(きょうかすが)の別称がある。
(中略)
桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が社殿を造営した。
(中略)
貞観18年(876年)、清和天皇の女御となった藤原高子(二条の后)が当社に参詣した際、右近衛権中将で高子のかつての恋人であった在原業平がその行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠んだ。
淳和天皇の時代には、まだ社殿はなかったようだけれど、この地に散骨されたのは、そこが春日神を祀る場所であったからではないかと思う(そういう説が既にあるのかは不明)。
春日神は藤原氏・中臣氏の氏神である。なぜ淳和天皇が春日神と関わりがあるのかと言えば、単純に考えれば母が藤原氏(藤原百川の娘・旅子)であったからだと思われる。が、気になるのは、中臣氏が山階を拠点としていたこと。山科は天智天皇陵の所在地でもある。
そして、実は、大伴黒主が歌に詠んだ「近江の鏡の山」と、額田王が歌に詠んだ「山科の鏡の山(天智天皇陵)」と「大原野神社」がほぼ一直線に並ぶ。
※リンク先に飛んで確認してください。
⇒マイマップ(鏡の山)
新羅明神を祀る三井寺と天智天皇陵を結ぶと淳和天皇御火葬所に至り、新羅の王子天日槍ゆかりの鏡の山と天智天皇陵を結ぶと散骨の地大原野にある大原野神社に至るのである。
ただし、近江の「鏡山」と大原野神社とでは繋がりが弱いように感じるので筆者も自信があるわけではない。あくまで参考程度。
(つづく)
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淳和天皇は840年6月7日崩御。遺詔により火葬され、遺骨は「大原野西嶺上」で散骨された。現在の小塩山と考えられ、そこに「淳和天皇大原野西嶺上陵」があるが、これは明治になって修造されたものだ。それまでは「淳和天皇御火葬所」が「御陵」であった。
(淳和天皇陵)
筆者は、この淳和天皇陵の所在地が京都府京都市西京区大原野南春日町の「南春日町」という地名が気になっていた。
なぜなら、淳和天皇の父、桓武天皇の祖父(淳和の曽祖父)は春日宮天皇(志貴皇子)と呼ばれているからだが、それだけではない。淳和天皇と縁の深い神社に西院春日神社があるからだ。
⇒西院春日神社(ウィキペディア)
淳和天皇が退位に伴ない淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)へ居を移すに際し、天長10年(833年)にその守護社として創建された。付近では当時の淳和院の遺構が発掘されており、規模の大きな離宮であったことが判明している。
元に戻って「南春日町」であるが、これは、同じく南春日町に所在する大原野神社に由来するようだ。
(大原野神社)
⇒大原野神社(ウィキペディア)
大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、京都市西京区大原野にある神社である。奈良春日社(現在の春日大社)から勧請を受けたもので、京春日(きょうかすが)の別称がある。
(中略)
桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が社殿を造営した。
(中略)
貞観18年(876年)、清和天皇の女御となった藤原高子(二条の后)が当社に参詣した際、右近衛権中将で高子のかつての恋人であった在原業平がその行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠んだ。
淳和天皇の時代には、まだ社殿はなかったようだけれど、この地に散骨されたのは、そこが春日神を祀る場所であったからではないかと思う(そういう説が既にあるのかは不明)。
春日神は藤原氏・中臣氏の氏神である。なぜ淳和天皇が春日神と関わりがあるのかと言えば、単純に考えれば母が藤原氏(藤原百川の娘・旅子)であったからだと思われる。が、気になるのは、中臣氏が山階を拠点としていたこと。山科は天智天皇陵の所在地でもある。
そして、実は、大伴黒主が歌に詠んだ「近江の鏡の山」と、額田王が歌に詠んだ「山科の鏡の山(天智天皇陵)」と「大原野神社」がほぼ一直線に並ぶ。
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⇒マイマップ(鏡の山)
新羅明神を祀る三井寺と天智天皇陵を結ぶと淳和天皇御火葬所に至り、新羅の王子天日槍ゆかりの鏡の山と天智天皇陵を結ぶと散骨の地大原野にある大原野神社に至るのである。
ただし、近江の「鏡山」と大原野神社とでは繋がりが弱いように感じるので筆者も自信があるわけではない。あくまで参考程度。
(つづく)
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