日本の「レイライン」を真面目に研究するブログ

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聖なるライン(17)

2008-02-28 21:52:54 | 聖なるライン
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)と皇位を譲り合い、兄に引き受けさせるために自殺したことは前回書いた。

これは儒教思想に基づいた説話だと考えられている。

遥か後の江戸時代、水戸光圀は同母兄の頼重をさしおき水戸徳川家2代目藩主となったが、兄の子の綱方を養子とし後継者にしようとした。だが相続前に死亡したので、その弟の綱條を養子とし後を継がせた。自身の子である頼常は、兄の養子となり讃岐高松藩を継いだ。光圀が儒教を重んじていたことは良く知られている。


ところで、儒教思想で見た場合、天武天皇(大海人皇子)の行動はどう評価されるのであろうか?


『日本書紀』によると、壬申の乱を先に仕掛けたのは大友皇子(近江朝廷)側だとされている。であれば、大海人皇子の反撃は「正当防衛」だということになる。


もちろん、それを額面通りに受け止めるのは問題がある。だが、それはそれとして、もし本当に止むを得ない事情によるものだったとして、それで大海人皇子の行動が正当化できるのかという問題があるように筆者には思える。いついかなる場合でも正当防衛が認められるかといえば、そういうわけではないだろうと思うからだ。


事実はどうあれ、『日本書紀』を読んだ当時の人々が、これをどのように受け止めるかということが肝心だ。天武朝が編纂したものだから、天武に不都合なことは書いていないという先入観を抜きにして考えたい。だが、筆者は儒教に詳しくないので、ここが良くわからない。これからの課題としたい。


ところで、兄の息子を討って即位した天武天皇であるが、後を継いだのは皇后であった持統天皇である。天武の妻であるが、天智天皇の娘でもある。

これは通常、天武との間にもうけた皇太子草壁皇子が早世し、草壁の子の軽皇子(文武天皇)が即位するまでの「つなぎ」だと考えられている。事情はどうあれ、ここで既に「女系」ではあるが、天智朝が実質的に復活したとも考えられる。次の文武天皇は天武の孫であるが、持統の孫でもあり、すなわち天智の曾孫である。文武が早世して後を継いだのは、文武の母の元明だが、彼女もまた天智の娘であった。

こうして見ると、壬申の乱で「正当防衛」という止むを得ない事情とはいえ、兄の息子を討って誕生した天武政権にとって、後継者が天智天皇の血を引いていることは、とてつもなく重要なことであったのではないかと筆者には思えてくる。



さて、ここで「聖なるライン」に戻る。

キトラ古墳菟道稚郎子皇子の墓が同じ東経135度48分18秒に位置するのは偶然なのか?

片方は父に皇位継承者として指名されながら兄に譲るために自殺した菟道稚郎子皇子の墓。もう片方は兄から後事を託されながら固辞し、後に兄の息子を討ち、自身が皇位に就いた天皇の皇后が造った都にある古墳。

もし両者に関係があるとしたら、キトラ古墳の被葬者も、菟道稚郎子皇子と似た立場にあった人物の可能性がある。その場合、一番相応しいのは高市皇子ではなかろうか。天武天皇の長男で、壬申の乱の勝利に重要な役割を果たしたが、後継者にならなかった。母が豪族の娘だというのが理由だと考えられており、それが真相なのかもしれないが、そこに儒教的な物語を重ね合わせることも可能ではなかろうかと思うからである。

(終わり)

※ただし前回書いたように菟道稚郎子皇子墓は疑問視されているので、あくまで仮定の話。


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聖なるライン(16)

2008-02-28 21:51:56 | 聖なるライン
最後にもう一つだけ気になる点を書いて、「聖なるライン」についての検証を終わりにする。

キトラ古墳(東経135度48分18秒)を北上すると、「鬼の爼・鬼の雪隠」と呼ばれている遺跡があり、さらに北上すると、耳成山の山頂に至るということは、「聖なるライン(3)」で既に触れた。この時は紹介しなかったが、さらに北上すると、もう一つ古代遺跡が存在する。

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の墓だ。「国土地理院地図閲覧サービス」の位置情報では、東経135度48分18秒で、キトラ古墳と完全に一致する。


この菟道稚郎子(『古事記』では宇遅能和紀郎子)皇子という方はどういう方であるかというと、応神天皇の皇子であり、天皇が次期天皇に指名したのは、この皇子であった。

ところが皇子は、天皇崩御後も皇位を継ごうとせず、異母兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に位を譲ろうとして、即位しなかった。兄弟は皇位を譲り合い、三年間空位が続いた。皇子はそのことを苦しみ自殺した。その後、大鷦鷯尊は天皇に即位した(仁徳天皇)。

また、この間に、同じく応神皇子の大山守皇子が皇位を奪おうとしたのを大鷦鷯尊が知り、太子(菟道稚郎子)に伝え、それを知った太子は粗末な麻の服を着て渡し守に混じって、宇治川を渡ろうとした大山守の船を転覆させ、大山守は水死したというエピソードがある。


(菟道稚郎子皇子墓)

ただし、本当にこの古墳が菟道稚郎子の墓だという確証はない。ウィキペディアの菟道稚郎子の項は、
菟道山上(『延喜式』諸陵寮に宇治墓)に葬られた。同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定され、宮内庁の管理下にあるが、この地は宇治川右岸に近接して「山上」と呼ぶに相応しくない。
として疑問視している。

だが、前々回と前回に書いたように、藤原京と宇治とに「つながり」があるのではないかと感じている筆者にとっては、さらにここで「宇治」が登場してくることが気になる。

(つづく)



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聖なるライン(15)

2008-02-10 23:26:35 | 聖なるライン
前回、藤原京の「南西」にある墓域についての考察をした。

ところで、以前、筆者は「聖なるライン(4)」で、「聖なるライン」に位置すると考えられる古墳群の南北に存在する遺跡等について調べた。

そこで、東経135度48分21秒周辺に宇治陵があることを指摘しておいた。



(宇治陵)

ここで、東経135度48分21秒周辺としたのは、地図記号がそのあたりに書かれているからであり、実際は、JR木幡駅(東経135度47分58秒)近辺までを含む広い領域である。

残念ながら調査不足で正確な範囲がわからず、ましてや墳墓の位置情報も不明なのだが、この藤原氏の墓域は、藤原京南西にある「墓域」の真北に位置することだけは間違いない。もちろん、ただの偶然という可能性も高いが、気になる。

なお宇治には、国宝の平等院鳳凰堂があり、東経135度48分27秒に位置する。これが天武・持統合葬陵の真北に位置することも前に指摘した。


(平等院)

平等院は平安時代に藤原道長の別荘「宇治殿」を、子の藤原頼通が寺に改めたもの。この道長・頼通は宇治陵に葬られていると考えられている。

なお、宇治には萬福寺という黄檗宗の寺院があり、江戸時代の創建であるが、東経135度48分21秒にあり、中尾山古墳、高松塚古墳の真北に位置する。この地は中世には近衛家の家領であった(ただし平安時代まで遡れるかは不明)。


以上、宇治について書いたが、さらに北上すると、京都市山科区に勧修寺がある。平等院と同じく東経135度48分27秒にあり、すなわち、天武・持統合葬陵の真北に位置する。そして勧修寺もまた藤原氏と関係の深い寺院だ。


(勧修寺)

勧修寺は醍醐天皇の生母藤原胤子追善のため創建された寺だが、『今昔物語』によれば、藤原高藤と宮道弥益の娘列子の娘が胤子であり、勧修寺はその宮道弥益の邸宅を寺にしたものだという。なお物語では宮道弥益は「宇治大領(郡司)」ということになっているが、実際はそうではなかったらしい。伝説とはいえ、ここで「宇治」が登場するのも気になるところだ(ついでに宮道という姓についても気になる)。


藤原氏は日本を代表する氏族であり、関係する遺跡は数多い。だから「聖なるライン」の延長線上に藤原氏ゆかりの宗教施設が多くても、それはただの偶然かもしれない。

しかし、藤原氏の祖、中臣鎌足が天智天皇より「藤原」の姓を賜ったこと、天智天皇陵の位置が藤原京中心線と一致することなどを考えあわせると、そこに何か意味があるのではないかと思ってしまうのである。

(あと少しだけつづく)



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聖なるライン(14)

2008-02-10 23:21:50 | 聖なるライン
聖なるラインについて、あと少しだけ検証してみたい。


特集 高松塚光源 (奈良新聞)

 故岸俊男・京都大学名誉教授が想定した藤原京の範囲は南北3.2キロ、東西2.1キロ。大藤原京では内郭に相当する。これを京域の南西にもってくると「聖なるライン」を東辺にして長方形の墓域が想定できる。県立橿原考古学研究所の河上邦彦副所長は「中国の陵園制度をまねて天武の陵園をつくろうとしたのではないか」とみている。

 唐代の中国では、皇帝墓の周囲に家族や家臣が葬られ、巨大な陵園が形成された。周囲が60キロに及ぶこともあった。河上氏は「藤原京の南には天武・持統朝の古墳が集中しており、地図におとすと内郭と同じ面積になる。これが天武の陵園で、その中に皇子、皇女を葬ったのではないか。同時期の古墳は今後も発見される可能性があり『聖なるライン』は成り立たない」と話す。

筆者は既に書いてきたように、古墳が従来考えられてきたように直線上に配置されているとはせず、直線を基準にして東西に配置されているとした上で「聖なるライン」について肯定的に考えているが、河上邦彦教授は「聖なるライン」を否定している。その点で考えが異なる。

ただし、「聖なるライン」を東辺にして長方形の墓域が想定できる。という点については、ほぼ同意する。河上教授は「聖なるライン」を否定し、その代わりに南西の墓域を想定したのだと思われるが、「聖なるライン」を肯定しても、南西の墓域は想定可能だ。


ところが、ここでさらなる問題が発生することになる。

記事には『「聖なるライン」を東辺にして長方形の墓域が想定できる。』と書いてあり、藤原京中心線と、天武持統陵その他の古墳を「聖なるライン」として一まとめにしてあるが、既に筆者が再三指摘したように、実際は、天武・持統陵、菖蒲池古墳、文武天皇陵が藤原京中心線より僅かに東にずれているのである。

これは三古墳が、藤原京の「南西」ではなく、ほんの僅かではあるが、「南東」に位置するということを意味する。

これを「誤差」と考えてしまえば話は簡単だが、意図的なものだと考えた場合、この三古墳には、特別な意味があった可能性が推測できる。しかし、それが何であるか筆者には予想もつかない。


※なお、これら三古墳の内、被葬者がほぼ確定しているのは、天武・持統合葬陵のみであり、真の文武天皇陵は「中尾山古墳」だという説が有力である。

(つづく)



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