比叡山延暦寺と天智天皇陵、三井寺と天智天皇陵の関係については既に書いたが、天智・桓武と深い関係にある寺院は他にも存在する。
その一つが崇福寺(大津市)。天智天皇によって建立された(『扶桑略記』によると天智7年)。
(崇福寺跡)
早速、崇福寺と天智天皇陵とを結ぶ直線を引いて、そこに何かないか調べてみたいところだが、それには問題がある。というのも崇福寺は発掘調査の結果、北尾根に弥勒堂、中尾根に塔と小金堂、南尾根に金堂と講堂が配置されていることがわかったのだが、そのどれを基点にすれば良いのかわからない。それ以前に、それらの正確な位置情報がわからない。
地図上の「崇福寺跡」と記されている場所は、おそらく石碑のある場所であろうと思われる。そこは南尾根の金堂跡らしい。
⇒民話でたどる滋賀の風景/崇福寺跡
位置情報がわかるのは「崇福寺跡」と表示されている地点だけなので、そこを基点にして直線を引く。すると一つ、著名な「聖地」が見つかった。
四天王寺(大阪市天王寺区)だ。「崇福寺跡」と天智天皇陵、四天王寺は「ほぼ一直線」に並ぶ。
(四天王寺)
四天王寺は現在「和宗総本山」として独立しているが、元は天台宗で、延暦寺や三井寺と同じ。だが、四天王寺といえば聖徳太子であり、天智や桓武と特に強い関係があるようにも見えない。しかし、どうしても気になることがある。
それは梵釈寺。延暦5年(786年)に桓武天皇が天智天皇の冥福を祈るために創建したとされる寺院。場所は不明だが、上に書いた崇福寺跡のうち、南尾根の建物群が梵釈寺ではないかという説が有力視されている。つまり、現在地図上で「崇福寺跡」と表示されている場所は、梵釈寺の金堂である可能性が高いということになる。
ところで、ウィキペディアの梵釈寺の項に「当初は四天王を祀ったことから四天王寺とも称されたが、延暦14年(795年)に梵釈寺と改名されて本格的な寺院建設が始まった。」との記事がある。
⇒梵釈寺(ウィキペディア)
これらを総合すると、桓武天皇が天智天皇追慕のため建立した寺は、当初「四天王寺」と称され、後に梵釈寺と呼ばれるようになった、その寺があったと推測されている場所は、大阪の「四天王寺」と天智天皇陵を結んだ直線の先にあるということになる。
最後にいつものようにGoogleマップで地図を作成したのでリンクを貼っておく。
⇒マイマップ(三井寺-淳和天皇御火葬所)
(つづく)
人気ブログランキングへ
その一つが崇福寺(大津市)。天智天皇によって建立された(『扶桑略記』によると天智7年)。
(崇福寺跡)
早速、崇福寺と天智天皇陵とを結ぶ直線を引いて、そこに何かないか調べてみたいところだが、それには問題がある。というのも崇福寺は発掘調査の結果、北尾根に弥勒堂、中尾根に塔と小金堂、南尾根に金堂と講堂が配置されていることがわかったのだが、そのどれを基点にすれば良いのかわからない。それ以前に、それらの正確な位置情報がわからない。
地図上の「崇福寺跡」と記されている場所は、おそらく石碑のある場所であろうと思われる。そこは南尾根の金堂跡らしい。
⇒民話でたどる滋賀の風景/崇福寺跡
位置情報がわかるのは「崇福寺跡」と表示されている地点だけなので、そこを基点にして直線を引く。すると一つ、著名な「聖地」が見つかった。
四天王寺(大阪市天王寺区)だ。「崇福寺跡」と天智天皇陵、四天王寺は「ほぼ一直線」に並ぶ。
(四天王寺)
四天王寺は現在「和宗総本山」として独立しているが、元は天台宗で、延暦寺や三井寺と同じ。だが、四天王寺といえば聖徳太子であり、天智や桓武と特に強い関係があるようにも見えない。しかし、どうしても気になることがある。
それは梵釈寺。延暦5年(786年)に桓武天皇が天智天皇の冥福を祈るために創建したとされる寺院。場所は不明だが、上に書いた崇福寺跡のうち、南尾根の建物群が梵釈寺ではないかという説が有力視されている。つまり、現在地図上で「崇福寺跡」と表示されている場所は、梵釈寺の金堂である可能性が高いということになる。
ところで、ウィキペディアの梵釈寺の項に「当初は四天王を祀ったことから四天王寺とも称されたが、延暦14年(795年)に梵釈寺と改名されて本格的な寺院建設が始まった。」との記事がある。
⇒梵釈寺(ウィキペディア)
これらを総合すると、桓武天皇が天智天皇追慕のため建立した寺は、当初「四天王寺」と称され、後に梵釈寺と呼ばれるようになった、その寺があったと推測されている場所は、大阪の「四天王寺」と天智天皇陵を結んだ直線の先にあるということになる。
最後にいつものようにGoogleマップで地図を作成したのでリンクを貼っておく。
⇒マイマップ(三井寺-淳和天皇御火葬所)
(つづく)
人気ブログランキングへ