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往事追憶

あるイスラエル詩人が言う~
贈人玫瑰 手有余香~人にばらを贈った後、手に余香が残る。

有り難い教科書  (再投稿)

2013-11-25 07:32:36 | 日記

 

 

 

 

 

X市外国語大学、史上初の日本語学部の学生となって9ヶ月経った時のこと、憧れの通訳の仕事に恵まれて以来、日本からの訪中団がX市を訪れる度に必ず市の外事課に手伝いに行けたことは、当時の私にとって、それは日本語会話練習の絶好の機会となっただけではなく、訪中団の方々が日本から持参するいろんな新聞や雑誌等をもらえるのも大きな楽しみの一つだった。彼たちが読み終えた新聞等を見るたびに、私はすぐ「先生、日本語の新聞や雑誌を捨てないでください、それがほしいです」とたどたどしい日本語で訪中団の方々に言った。(中国の場合初対面の男性を「先生」、女性を「小姐」と呼ぶ)

すると、訪中団の方々は困惑するような表情で「いいよ。だけど新聞と雑誌で何をするの?なんで日本の雑誌と本がほしいの?」と不思議そうに私に聞いた。

「それはとても有り難い教科書なんです」といつも素直にこう答えた。時々ホテルの掃除係のおばさんに「日本人の方たちの読み終えた新聞や雑誌がゴミ箱に捨てないで、ちゃんと取って置いてくださいね」と頼んだことも何回かあった。

通訳の仕事が終わった後、大学生の宿舎で夜中まで懐中電灯を使って、もらってきた雑誌に書かれた日本各地の記事、祭り、天気予報と時評、小説、随筆など、辞書を片手に貪るように読んだ。日中両国の共通の「偉大な」漢字のおかげで、文章の意味などはさほど難しく感じなくて済んだ。どうしても分からないところは担当の先生や日本人の通訳の方に教えを乞うこともあった。分かりやすい文章を早速ノートにうつし早朝、大学の運動場の仄かな照明灯の光を借りて一生懸命に暗唱した。

30数年前外国語の教科書等極めて不足していた時代では、訪中団の方たちが持参する新聞、雑誌類、文庫本などは当時の私にとっては、とても有難い「本物の教科書」であり、まるで天からの贈り物のようだった。その中で、一番心に響いて何度も繰り返し読んだのは、作家宮本輝の『泥の河』だった。それは今でも手元に大切置いてある。

不思議なのは、大阪に住んだ頃のマンションはちょうど小説の舞台となった道頓堀川のすぐ隣で、仕事を終えた後よく道頓堀と心斎橋の辺りを散策した。

1979年文化大革命が終了後、10数年ぶりの全国大学院の統一試験を無事に合格できたのも、大学時代に、通訳の仕事をした時の訪中団の方たちから頂いた新聞、雑誌等のお陰でもあり、そのおかげでより早く生の日本社会、日本文化などを直接かつ感覚的に触れ合うことができ、その後の勉強と仕事にとても役立った。

1983年初めて日本に派遣留学された折、大阪の大きな書店でずらりと並んでいる本や雑誌等を見た時、とても懐かしく胸がいっぱいになった。

大学時代の影響もあってか、今でも本や雑誌を買うのが好きだ。

 

 


ある青年の思い(再投稿)

2013-11-24 09:09:36 | 日記

 

 

 

店に飾ってある書画等を季節ごとに取り替えるのは私の楽しみの一つでもあるが、開店当初からの一枚の大きい額だけは、7年経った現在まで一度外したことがない。お客様の間では常に話題になり、大切な存在となっている。

1982年の春、私は四川外国語大学日本語研究科を卒業し、X市にある国家重点大学の外国語学部に配属され、日本文学の講義の外、国家経済委員会の依頼によって設立された西北地区の「日本語速成班」(短時間で日本語を修得する)の講師も担当していた。受講生達は上海、山西、山東、安徽等各地の病院、国営企業から選ばれた優秀な医師、エンジニア、資料室の研究員達だった。彼らはここで1年の日本語文法、初級日本語会話を学習後、日本へ先進的技術、医療等の勉強に派遣される予定だ。

60年~80年代の半ばまで、「亜州三条龍」(経済、文化、国民の生活水準はとても高い日本、台湾、シンガポールをアジアの3匹の龍だと言われる)の「龍頭」だと賞賛された日本への視察、留学 研修ができることは、文化大革命が収束した直後の多くの知識人達の憧れだった。

目標をしっかりと決められた受講生らの意欲的に日本語を取り組む姿勢は、今でもはっきりとまぶたに焼き付いている。

ある午前中の授業を終えた日のことだった。

教職員食堂に行く途中、突然一人の20代半ばぐらいの青年が私の目前に立って「すみませんが、市科学教育委員会の栄東(えいとう・仮称)と申します。先生にご相談したいことがあるのですが、少しお時間をいただけますか?」と少し緊張気味に聞いた。

全く知らない若者に声をかけられた私は「私のことですか?何のことでしょうか?」と聞いてみたら「先生のクラスで日本語を習いたいのです。勤務先の資料室には日本語の資料が沢山保管されています。それが読みたいのですが意味は分かりませんので、とても困っています。聴講生として授業を受けさせてください。お願いします」と彼は丁寧に頭を下げられた。

目の前の誠実そうな青年の話を聞きながら、「今すぐ返事が出来ません、学部長と相談してみますが、これまで聴講生の受け入れの前例がありませんので」と私が言うと、彼は「私はすでに学部長には相談しました、直接担当の先生に相談してみてくださいという返事をいただきましので、先生にお願いに来たわけです」と言った。しばらくして、「実は今まで3回ほど学部長にお願いに来たのですが、今日は4回目です。先生にお話を聞いていただけたらきっと分かってくださると思いました。どうか勉強の機会を作ってください。私にとって最後のチャンスだと思います。大学の進学はもう無理だと思って諦めましたが、今度是非聴講生として授業を受けさせてください。お願い致します」と彼は繰り返しお辞儀をしながら私に言った。

 2週間後、彼は再び講師室に姿を表し、「先生、本当に有難うございました。やはり直接先生にお願いをしてよかったです。聴講料まで免除してくださって、夢みたいです。先日父のお墓に行って報告してきました。父もきっと喜んでくれていると思います。私は必ず一生懸命に頑張って、日本語を覚えますから、これからもよろしくお願いします」と、彼は目を潤ませながら喜んでくれた。そして、「先生、これは亡くなった父の所蔵品です。どうぞ、受け取ってください」と言いながら、手提げカバンから綺麗にたたんである黒っぽい紙を私の目の前に広げた。それはこれまで見たこともない一枚のとても珍しい拓本だった。

 「お父様が遺されたこんなに貴重な拓本をご自分で大切に持っていてください。貴方の意欲と情熱に感動しました。今度例外として聴講生の許可が取れました。これからも頑張ってください。そして、お母様のご病気を早く治してあげてください。こんなに素晴らしい拓本を見せて下さっただけでとても嬉しいです」と私はその拓本を彼の手元に戻した。その後、彼は幾度もお辞儀をしながら講師室を去って行った。

彼と初めて教職員食堂の前で話をした日の午後、私は学部長室に呼ばれ、学部長から彼のことを詳しく聞いた。

 栄東さんの父親は元X市博物館長だった。文化大革命の中で政治的な迫害を受けて亡くなった直後、母親はショックで重度の精神病になった。その後、彼は父の友人のお世話で自宅の近くにあるX市科学技術委員会に就職した。母親の看病をしなければならない事情を考慮した上で、彼を資料室に配属したそうだ。幼い時から大学に進学したい夢をずっと持ち続けていた彼は、その夢をとうとう果たすことが出来なかったが、大学の日本語「速成班」の噂を聞いた時、彼は是非聴講生になりたいと何回も学校に申し出たが、しかし、彼の30元(500円)程度の月給は殆ど母親の治療費に使われ、年間500元前後(7000円)の聴講料を払うと、親子の生活が成り立たなくなるに違いない。一方、彼の聴講料を受け取らないと、担当の講師のその分のボーナスがもらえなくなる。そこで、受講生に直接に担当講師と話をしてもらった上で、受講できるかどうかを決めるのが当時のやり方だった。

 学部長から栄東さんのこういう家庭の事情を聞いた私は「私のボーナスより、彼に勉強する機会を作ってあげたいです。ボーナスのこと等はお考えにならなくて大丈夫です」と学部長に言った。

 その後、日本語「速成班」の開講から終了まで、特別聴講生の彼はほぼ毎日のように誰よりも早く学校に来て、授業が始まる前に講壇の机に魔法瓶とコップを用意してくれた。

 私は日本への派遣留学が決まり、講師室で書類等を整理していたある日の朝、栄東さんが久しぶりに講師室に現れた。2年ぶりの再会だった。「先生、日本への留学おめでとうございます」と、とても流暢な日本語で挨拶してくれた。「お久しぶりですね、日本語はとてもお上手になられましたね。しかし、どうして留学の事をご存知なのですか?」と私不思議に思いながらそう言った。彼は私の質問が聞こえないのか、「先生、これは私からの餞別です。いつか先生に役立つかも知れません。今度こそ、是非受け取ってください・・・」と言いながら、カバンの中からきちんとたたんだ黒っぽい紙を私の前に差し出した。それはあの時の素晴らしい拓本だった。しばらくすると、彼は「私はお金がありません。父が遺ってくれたこの拓本を是非先生に差し上げたいのです。お受け取りください。どうぞ、日本で頑張ってください」と言って、拓本を私の机に置いた後、急ぐように講師室を去って行った。

 来日後、私は友人に頼んで京都の老舗の表具店で栄東さんから頂いた拓本を綺麗に表装し、とても立派な額に入れてもらった。

 30年近く、仕事の関係で日本各地を転々とし、荷物を減らしたり増やしたりの繰り返しだったが、その拓本はずっと大切に保管してきた。大変お世話になった親しい友人から「あの拓本がほしいなあ」と幾度も言われたが、私はどうしても手放すことが出来ないでいる。その拓本の中に一人の青年の純粋な思いをいっぱい詰め込まれているからだ。

 


無題

2013-11-16 21:21:59 | 日記
只今若くて素敵な内科や糖尿病専門の女医さんたちを見送りしてきました。女医って幼いころからずっと憧れた職業です。今でも時々女医になった夢を見ます・・・。
写真: 只今若くて素敵な内科や糖尿病専門の女医さんたちを見送りしてきました。女医って幼いころからずっと憧れた職業です。今でも時々女医になった夢を見ます・・・。

雑感

2013-10-22 10:52:28 | 日記

早朝の星空はとても綺麗です。昨日は取材にこられたある雑誌の編集長に新作の「豆鼓入り長崎牛の味噌煮担々麺」を試食していただきました。激辛お好きな彼女は大喜んでくれました。12月一ヶ月限で定皆さんに提供する予定です。知的で魅力いっぱいの編集長が私の大好きな栗菓子も持って来てくれました。取材が終わった後、すぐ波佐見の印刷会社に行って、多忙の丸田社長にラベルの制作をして頂きました。そして、久しぶりに音楽家の山口修先生ご夫婦と陶芸家の吉野先生も次々と社長さんの所にお見えになりました。外見ではそう目立たない小さな会社ですが、いろんな国の人、芸術家、音楽家たちがよく来られる不思議な魅力を持っている中身が大きい会社です。長い人生の中でいろんな出会いがあります。出会いによって笑いがあり、涙もあります。出会いによって人生の流れが変わります。笑い、涙、無意味な出会いが一つもないと思います。10数年来、丸田社長や編集長さんと沢山の素晴らしい方達との出会いがあったからこそこの地で生きて来られるのだとつくづく思います・・・


新作

2013-10-06 17:21:47 | 日記
昨日作った「水煎包」(スイセンバオ)をお客様に食べていただきましたが、「何個でも食べられます。やみつくわ」とお客様は大喜んでくれました。先日福岡からこられた友人より頂いた佐賀県武雄市の農家の方が作られた「百笑梅酒」との相性はとてもいいです。灯火特製ラー油とゆずや黒酢で作ったタレも美味しいです。
写真: 昨日作った「水煎包」(スイセンバオ)をお客様に食べていただきましたが、「何個でも食べられます。やみつくわ」と大喜んでくれました。先日福岡からこられた友人より頂いた「百笑梅酒」との相性はとてもいいです。灯火特製ラー油とゆずや黒酢で作ったタレも美味しいです。