店に飾ってある書画等を季節ごとに取り替えるのは私の楽しみの一つでもあるが、開店当初からの一枚の大きい額だけは、7年経った現在まで一度外したことがない。お客様の間では常に話題になり、大切な存在となっている。
1982年の春、私は四川外国語大学日本語研究科を卒業し、X市にある国家重点大学の外国語学部に配属され、日本文学の講義の外、国家経済委員会の依頼によって設立された西北地区の「日本語速成班」(短時間で日本語を修得する)の講師も担当していた。受講生達は上海、山西、山東、安徽等各地の病院、国営企業から選ばれた優秀な医師、エンジニア、資料室の研究員達だった。彼らはここで1年の日本語文法、初級日本語会話を学習後、日本へ先進的技術、医療等の勉強に派遣される予定だ。
60年~80年代の半ばまで、「亜州三条龍」(経済、文化、国民の生活水準はとても高い日本、台湾、シンガポールをアジアの3匹の龍だと言われる)の「龍頭」だと賞賛された日本への視察、留学 研修ができることは、文化大革命が収束した直後の多くの知識人達の憧れだった。
目標をしっかりと決められた受講生らの意欲的に日本語を取り組む姿勢は、今でもはっきりとまぶたに焼き付いている。
ある午前中の授業を終えた日のことだった。
教職員食堂に行く途中、突然一人の20代半ばぐらいの青年が私の目前に立って「すみませんが、市科学教育委員会の栄東(えいとう・仮称)と申します。先生にご相談したいことがあるのですが、少しお時間をいただけますか?」と少し緊張気味に聞いた。
全く知らない若者に声をかけられた私は「私のことですか?何のことでしょうか?」と聞いてみたら「先生のクラスで日本語を習いたいのです。勤務先の資料室には日本語の資料が沢山保管されています。それが読みたいのですが意味は分かりませんので、とても困っています。聴講生として授業を受けさせてください。お願いします」と彼は丁寧に頭を下げられた。
目の前の誠実そうな青年の話を聞きながら、「今すぐ返事が出来ません、学部長と相談してみますが、これまで聴講生の受け入れの前例がありませんので」と私が言うと、彼は「私はすでに学部長には相談しました、直接担当の先生に相談してみてくださいという返事をいただきましので、先生にお願いに来たわけです」と言った。しばらくして、「実は今まで3回ほど学部長にお願いに来たのですが、今日は4回目です。先生にお話を聞いていただけたらきっと分かってくださると思いました。どうか勉強の機会を作ってください。私にとって最後のチャンスだと思います。大学の進学はもう無理だと思って諦めましたが、今度是非聴講生として授業を受けさせてください。お願い致します」と彼は繰り返しお辞儀をしながら私に言った。
2週間後、彼は再び講師室に姿を表し、「先生、本当に有難うございました。やはり直接先生にお願いをしてよかったです。聴講料まで免除してくださって、夢みたいです。先日父のお墓に行って報告してきました。父もきっと喜んでくれていると思います。私は必ず一生懸命に頑張って、日本語を覚えますから、これからもよろしくお願いします」と、彼は目を潤ませながら喜んでくれた。そして、「先生、これは亡くなった父の所蔵品です。どうぞ、受け取ってください」と言いながら、手提げカバンから綺麗にたたんである黒っぽい紙を私の目の前に広げた。それはこれまで見たこともない一枚のとても珍しい拓本だった。
「お父様が遺されたこんなに貴重な拓本をご自分で大切に持っていてください。貴方の意欲と情熱に感動しました。今度例外として聴講生の許可が取れました。これからも頑張ってください。そして、お母様のご病気を早く治してあげてください。こんなに素晴らしい拓本を見せて下さっただけでとても嬉しいです」と私はその拓本を彼の手元に戻した。その後、彼は幾度もお辞儀をしながら講師室を去って行った。
彼と初めて教職員食堂の前で話をした日の午後、私は学部長室に呼ばれ、学部長から彼のことを詳しく聞いた。
栄東さんの父親は元X市博物館長だった。文化大革命の中で政治的な迫害を受けて亡くなった直後、母親はショックで重度の精神病になった。その後、彼は父の友人のお世話で自宅の近くにあるX市科学技術委員会に就職した。母親の看病をしなければならない事情を考慮した上で、彼を資料室に配属したそうだ。幼い時から大学に進学したい夢をずっと持ち続けていた彼は、その夢をとうとう果たすことが出来なかったが、大学の日本語「速成班」の噂を聞いた時、彼は是非聴講生になりたいと何回も学校に申し出たが、しかし、彼の30元(500円)程度の月給は殆ど母親の治療費に使われ、年間500元前後(7000円)の聴講料を払うと、親子の生活が成り立たなくなるに違いない。一方、彼の聴講料を受け取らないと、担当の講師のその分のボーナスがもらえなくなる。そこで、受講生に直接に担当講師と話をしてもらった上で、受講できるかどうかを決めるのが当時のやり方だった。
学部長から栄東さんのこういう家庭の事情を聞いた私は「私のボーナスより、彼に勉強する機会を作ってあげたいです。ボーナスのこと等はお考えにならなくて大丈夫です」と学部長に言った。
その後、日本語「速成班」の開講から終了まで、特別聴講生の彼はほぼ毎日のように誰よりも早く学校に来て、授業が始まる前に講壇の机に魔法瓶とコップを用意してくれた。
私は日本への派遣留学が決まり、講師室で書類等を整理していたある日の朝、栄東さんが久しぶりに講師室に現れた。2年ぶりの再会だった。「先生、日本への留学おめでとうございます」と、とても流暢な日本語で挨拶してくれた。「お久しぶりですね、日本語はとてもお上手になられましたね。しかし、どうして留学の事をご存知なのですか?」と私不思議に思いながらそう言った。彼は私の質問が聞こえないのか、「先生、これは私からの餞別です。いつか先生に役立つかも知れません。今度こそ、是非受け取ってください・・・」と言いながら、カバンの中からきちんとたたんだ黒っぽい紙を私の前に差し出した。それはあの時の素晴らしい拓本だった。しばらくすると、彼は「私はお金がありません。父が遺ってくれたこの拓本を是非先生に差し上げたいのです。お受け取りください。どうぞ、日本で頑張ってください」と言って、拓本を私の机に置いた後、急ぐように講師室を去って行った。
来日後、私は友人に頼んで京都の老舗の表具店で栄東さんから頂いた拓本を綺麗に表装し、とても立派な額に入れてもらった。
30年近く、仕事の関係で日本各地を転々とし、荷物を減らしたり増やしたりの繰り返しだったが、その拓本はずっと大切に保管してきた。大変お世話になった親しい友人から「あの拓本がほしいなあ」と幾度も言われたが、私はどうしても手放すことが出来ないでいる。その拓本の中に一人の青年の純粋な思いをいっぱい詰め込まれているからだ。