息子の障害については前に少し書いた。
もう生きているのが苦しい時も、俺が今いなくなったら息子はまだ自分だけで
食っていくことが難しいと思い、死にたいと思っても思いとどまってきた。
何でもっと早く気づいてやれなかったのか。
小中学校では成績はクラスで1か2番だった。ずっと。高校は町で一番の進学校に入学し、大学も5大学7学部合格し結構難しい大学に入学した。
しかし、卒業がもうすぐというところへ来て、発達障害であることが判明し、
「俺は就職なんかしねえ。なんで就職しなくちゃなんねえんだ。」と言い出した。その後の詳細はもう書きたくないので割愛する。調子悪くなってきたんだ。
自分が。自分の持病が。
今はアルバイト店員として働いている。俺はそれでいいと思っている。
食っていければいい。別にアルバイトでいい。
ここまで来るまで筆舌に尽くしがたい紆余曲折があった。
俺は走り回り、精神障害者支援センターや、心理療法士、大学の心理学の先生で、発達障害では国内では有名な先生の講演会に行き、終わってから先生をつかまえて息子のことを話して相談した。診てもらえないか頼んだ。しかし、遠回しに断られた。ダメだ!医者も、心理療法士も、発達障害者支援センターも、大学の先生も頼れないことはわかった。
じゃあ、生きていく術を俺が教えるしかない。そう決心した。
1年間、仕事に同行させた。いろんな人に会い、俺がお客さんから怒鳴られたり、雨の中を危険作業をやったり、人との関係を作ることと(仕事で)仕事の厳しさと悲しさと、体力の限界を見るようなきついスケジュールでの仕事をこなし、やっと1人でアルバイトに行けるようになった。
お金を稼ぐ厳しさもわかったようだ。夏は皮膚に太陽光が刺さり、埃や油にまみれ、雨の日は雨具を着て、冬は-10度くらいまで下がる中での仕事をこなして、一日1万円にもならない。お金を稼ぐのは大変なことだと。
俺は、お前と姉ちゃんを、夏は熱中症になりながら、冬は寒くて倒れそうになりながら、日当2万円にもならない仕事を継続して育てたんだ。家も買った。
家は残していくから、あとは自分で生きていくんだぞ と念押しして、俺の仕事からは解放した。
息子のことは、親として失格だ。子供の時にわかっていればまた違う方向を見つけられたかもしれない。薄氷を踏む思いだ。
お金は簡単には転がりこんでこない。お金は借りるな。自分で働いて稼げ。
としか言えない。
こんなことを書いていたら体調が落ち込んできた。
明日は遠くへ仕事で行かなくてはならないので、これ以上意識が落ち込まないように頑張らないと。
希死念慮なんか、体験した人にしかわからない。昨日朝5時に起きてから出発し
20時に特高変電所が復旧、送電終了までずっと希死念慮に苦しめられた。
それはほんの些細なことから起きる。しかし、起きたら熾烈な闘いとなる。
誰だって、いつだって俺のようになってしまうかわからない。
精神力だとか、裕福だとか、お金がないとか、友達がたくさんいるとか、友達は居ないとか、そんなことには関係なく突然病気は襲ってくる。
苦しみながら困っている人に手を差し伸べても、些細な言葉尻をとらえて攻撃する人は多い。本当に。そういう経験は1度や2度じゃない。
全力で、生きるか死ぬかの毎日と闘いながら、一時の安寧を求めても自分が望むものは得られない。
そとから見たのではわからないが、心の中では生きるか死ぬかの激烈な闘いをしている。それがメンタルの病気の大半だ。そうじゃない病気もあるが。
もう、人のためにとかはいい。やめた方がいい。
傷つくのは自分だ。本当に参った。負けそうだ。
明日から大きな仕事がある。心を立て直していかないと大変なことになってしまう。体調が悪いから延期して欲しいなんてことは不可能だ。
今日は、月次の点検は中止して体調を何とか持ち上げることと、明日からの準備を万全にしておくことにした。
もう疲れた。もう一つ何かとどめを刺されたらもう闘えない。
そしたらさよならだ。
さよならしたら、まわりの人は「えっ、何で。先週会ったときはあんなに元気だったのに。」と言うだろう。
有名人が亡くなった時と同じだ。
俺は有名人じゃないから、狭い生活範囲で関係する人だけだよ。
今、減薬していたクスリを追加で飲んで、元の量にもどした。飲んでいい上限まで。先日の希死念慮もクスリのせいじゃなかったんだ。
もう、お前なんか死んでしまえ と思っている人いるんだろうな。
お金をたくさん援助した人も。
少ししか渡せなかった人も。
援助しようとしたら、なんか喧嘩みたいになってしまった人も。
援助して恨まれるならしない方がいい。
人からは恨みを買うが、俺が病気と激烈な闘いをしているのを助太刀してくれる人は居ない。
もう、いいや。
今日も早出だった。もう年次点検、(停電させて精密点検をする)の季節がやって来た。早出は週に3回か4回になる。4時とか5時に出発して、1時間くらい運転して現場に行く。自分の持病は朝が1番調子悪い。自◯が多いのは朝だ。電車が人身事故で不通になっているというニュースは、皆飛び込みだ。俺、秋葉原駅でその瞬間に居合わせたことがある。運転席のガラスはヒビが入り、若い運転士は先輩に支えられてふらふらで降りて来た。駅員は数人でブルーシートを持って駆けてきた。俺は飛び込んだ人も見てしまった。が、怖いとか、大変だ、とは思わなかった。「この人は、これで全ての苦しみから、解放された。どうか成仏して下さい」と思った。家族がいたら家族はこれから苦しみを抱えて生きていかなくてはならない。絶対に自◯はしないように頑張らないといけないと思った。しかし、病気は強烈を極め、想像を絶する闘いとなった。夢も希望も目標も持てない。誰も助けてくれない。連れ合いからも見放され、友達も亡くなり、先輩も師匠も亡くなり、文字通り孤独となり、しかし休息の時はない。いつ呼び出され緊急出動になるかわからない。コンビニのオーナーと同じだ。コンビニのオーナーも常識外れの自◯率だ。
儚い希望は、俺を大事にしてくれる人を欲した事だった。何もしてくれなくていいから、手を握っていっしょに居てくれる人が欲しかった。女房にはそれを求めても無理なことはわかった。主治医にも言われた。家族には、病気で辛くなった時も絶対言わないと宣言した。
メンタルを病んだ家族の苦しみも良く知っていた。親友が俺と同じ病気で自◯したのを目の当たりにしたから。発病から終わりまで全て見ていたから。
どうすれば、俺は頑張れるか悩み、考えた。
短いスパンでの希望を実現させること。
大きな希望でなくていい。
月に1日、半日でもいいから、何にも優先して自分を大事にしてくれる人に巡り会いたい と。
だって、いつも後回しの扱いしかされて来なかったから。
でも、そんな事無理なんだよ。自分が愛した人にしか、自分の時間を犠牲には出来ない。
全て、遅きに失したようだ。
儚い希望は持たない方がいい。
どうやって生きていこう?
自損事故を起こした話は先日ちょっと書いたが、一週間ぶりにワゴンRの修理を終えて帰ってきた。タイヤのホイールが婉曲し、その内側のホイール自身を支える部品とベアリングを交換したそうだ。それでハンドルの振動は止まった。
スズキのサービスの人の話では、クルマをリフトしてタイヤを回転させたら波打って回っていたので、まずそこを交換したとのこと。
まだ、後ろからはタイヤのうなり音がするのだけれど、様子を見て下さいとのこと。「相当激しくぶつかったようですね。」とのこと。
そう、居眠り運転だからノーブレーキだ。真っ暗な場所だから、場所さえ覚えていない。幸いだったのは人身事故を起こさなかったことだ。あと対向車線に出なかったのは幸運だった。トラック街道だから、どうなっていたかわからない。
早朝だからみんな高速道路じゃなかと思うほどスピードが出ている。
このことは、全て「自分の中で処理」した。他に被害がなかったから。修理代がかかっただけだから。「ちょっとぶつけた。」で済ませた。
本当は精神的に結構まいってしまい、誰かに泣きを入れたかったが我慢した。
そう、居眠りの原因はクスリだから。それは主治医も認めた。早朝出発の時は夜のクスリを時間を前倒しして飲むようにと言われた。
そう。もう病気のことは誰にも言わないと決めたから。先生だけに。
あまり人に病気のことを言おうとすると、その人の気分を害するようなことを言ってしまう。してしまう。自業自得なんだろうけど、好意的になんて聞いてくれるはずはない。絶対に。まして同情してもらおうなんて思ってもその逆、嫌われてしまう。メンタルを病んでいる人はみんな辛い気持ちを誰かがわかってくれるんじゃないかと思い、病気のことをちょっと知り合った人に言ってしまう。すると、相手は嫌な気分になりその人に近づかなくなる。
そういうことは、第三者としてずっと見てきたが、1人や2人、3人どころじゃなくたくさんの人を。
「自分はそうじゃない」と思っても、感じるのは相手だ。
もう、年齢的に「夢」というものが持てなくなった。というか、若いころから夢は成就せずに、とにかく稼ぐことが全てだったから。
趣味にガス銃の射撃大会(きちんとした競技です。外国では盛ん。銃が持てる国では、実銃での競技もガス銃での競技もある)に出ているが、何かやらないと脳がだんだん活性が悪くなるからと、運動になるからやっている。大好きだからやっている訳じゃない。インストラクターの人も親身に教えてくれるし。
だが、若い人とは同じには出来ないから、彼らの射撃を眺めていたりする時間が多いし、練習に行ける日も少ない。
これからの若い人に、何かを成就するためのお手伝い、経済的なお手伝いしか出来ないがそういうことをしていこうと、東日本大震災の後そう思いいろいろなところへ、または個人へ援助をしてきたが、本当はそういう大義の下、人とのふれあいを求めていたのかも知れない。
でも、なかなか上手くいかないな。ちょっと気を緩めると病気が出てくる。すると、人は去っていく。
今度は感電事故を起こさないように細心の注意を払っている。悲しい部分に心を奪われ、注意力不足になったら大変だ。
本当に、一撃必殺だから。それがむき出しで目の前にあるのだから。それが毎日続くのだから。
1人で病気とは戦いながら、神経衰弱のような仕事を毎日続ける
家族にもいうことは出来なくなった体調不良。一人で片づける。いつまでもつんだろうか?