国内仮定銅価格に4万円7.7%+ 一夜の上げ余地、7.13朝3時現在 昨日、次々船の契約を 慌ててせずに、良かった
安倍総理は改憲勢力で憲法改正案の提出に必要な3分の2議席を参議院で確保した アジア情勢が激変する中 たいへん良かったのではないか
大阪2名当選でうまく戦った
今年にやってきた鉄くず価格の急騰は瞬時に冷めてしまった
708銅相場トーナイ 奈落(那落)をみるか 金属屑相場 奈落とは地獄のこと
銅先物4675$先日よりも大きく下げた7/8朝4時
原油の下げ率は大きい 連れて下げた非鉄全般、
アルミ1638 ニッケル9685$ 鉛1813$
上海銅先物昨日36910元 このところ38000より
1000元も以上下落(人民元→円=15.02)
仮定銅相場 このままなら 今年最安値になる・・
以下は超古代史トーナイ 金属を追う一族
聖徳太子が遣隋使を大阪港から出航させたのが
今から1400年前 小野妹子を2回も 隋に派遣した
日出処の天子、書を没する処の天子に致す つつがなきや
小野さんは 滋賀県の出の 和邇氏ワニ氏の一族みたいだ
小野妹子は40-50mの長さの外航船に乗って
大阪港(住吉の津)を出ていって2度も往復に成功しているので
運がよい人です(この時代の 船の旅は 危険だった)
どうだろう5月6月の 海の荒れない時期に出航したか
往復で 約1年もかけた船も利用した旅だったようだ
この時代 仏教の勢力が強くなり 蘇我氏が力をつけていった
西暦555年 トーナイの田舎 の 岡山県にも
屯倉が設置されていった
蘇我氏のボスも 美作を訪れて 白猪の屯倉を設置している
神社系の 物部系 中臣(後の藤原氏)はかなり 寂れていた
その後、645年 中臣鎌足 乙巳の変(蘇我氏を滅ぼす)
蘇我氏を打倒し 百済・重視を続けるが
その後に 白村江の戦い(663年)で
百済は滅亡し その外交の進めたかは破綻 したか?
その時代 岡山県でも 百済系が やられた? のか?
西暦で663年の後くらいの時代
桃太郎伝説を深く読むと ウラは百済の王子で その時代
までは 吉備を押えていた か?
ウラを 吉備津ひこ が退治するというストーリーだが・・
吉備津彦の時代は 卑弥呼の時代なので もっともっと古い
実は 吉備津彦と
吉備津日子は まったく時代が違う人かも知れん
白村江の戦争の 後のこと? なのか・・・
ワシは吉備津彦ではなく 吉備津日子ミコトを
祀っているので
悩んでいる
もしかして 吉備津日子は
西暦で600年代後半の朝廷側の勝者の側か?
歴史は その時代の 勝者の力で書き換えられることも多い
超古代史は 読解がけっこうに困難 吉備津日子を祀る東内
一時代は 藤原正照 という 先人も名前が残っている
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(藤内 トーナイは中国地方一帯の 神様系を仕切っていた・・・吉備津の宮から・・)
兵庫県のホームページでもアメノヒボコは出てくる 仁徳天皇の時に 渡来した とあるから
西暦で450年前後の時代になるだろう
この時代から 午 馬も日本に来た(出土する 馬の埴輪の年代)
大吉備津日子ならば 年代が もう200年から300年も溯ることになる
中山神社も 此処に中山の神が示現する前は 大国主命を祀っていたともある
先月2日の鉄鉱石62%CFR 47.46$→今月1日52.73$
古市古墳群 藤井寺 倭の五王の時代 400年過ぎからトーナイ古代史
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnai99へのリンク
写真が多くて本日は ヤフーブログに移動願います
7/3藤井寺市の歴史資料館のアイセル・シュラホールに お邪魔した 藤井寺の駅付近は慣れないと一方通行が多くて歩けば800mほど か そこまで 車では なかなか辿りつかないが 道を尋ねる耽美に此の街の人々の優しさを感じる地区じゃな~5人の人に道を尋ねて それぞれ 全員が 詳しく教えて下さって 気の優しい人の多い街
人口が 多分 6-8万人 この規模の街がエエな~
ここへ行ったのは もちろん古市古墳群
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倭の五王の時代 西暦400年代 藤井寺市の古墳群 トーナイ 中山太訪問
7.02早朝トーナイ銅相場ブログ この週は先週末の4660$から250$程も銅相場は海外ではあげて終えた
60日ほど前の報道より(4月28日午前の東京外為市場で、ドル・円は急落。日銀の政策決定を控え緩和期待による円売りが強まっていたが、現行の金融政策維持の決定で失望感からドル売りに振れた。ドル・円は朝方111円37銭を付けた後、日経平均株価の堅調地合いを受け株高を意識したリスク選好的な円売りで一時111円88銭まで上昇した。日銀による追加緩和期待もドルを押し上げた。ただ、日銀金融政策決定会合が現行の金融政策の維持を決定したと報じられると、円は一転して買いが強まり、ドルは一時108円77銭まで値を下げた。)
こうした状態は、370年に前燕が前秦(ぜんしん)に滅ぼされるにいたって変化します。前秦との関係はおおむね友好的に進みました。したがって、高句麗の領土拡張政策の矛先は後顧の憂いなく半島南部に向けられることになったのです。
4世紀の後半、建国まもない百済と新羅は、北の高句麗の脅威にさらされることになります。特に百済はたびたび戦火を交え一進一退の攻防を繰り返したのです。
図:320年~370年の東アジア(大庭脩「五世紀の東アジアと国際情勢」『仁徳陵古墳築造の時代』1996年より)
『広報ふじいでら』第398号 2002年7月号より