多少 資源相場も持ち直した10/18週末朝5時
銅相場の仮定計算は757円/㌔ なので四捨五入して76万円/㌧ほっと胸をなでおろした朝 実は25時に起床して これは確認して たいへん熟睡できた
大阪港で けっこうに大量にクズ物の銅含有品 いわゆる雑品を扱うモノ トーナイ
銅は ピカピカと光り輝く 金属で 磁石にはひっつかない
奈良の大仏が 大昔に 出来上がった時には 大きいことにも びっくりしたが
その輝きかたにも 人々は凄く 威圧され驚かされたと思います
その銅を日々 求めて 買い取り捲っているのが とうない 東内 藤内 唐内 ㈱トーナイ
たいていは 日々千万円を買います 日々1000万円なので 月にしたら2.4-2.6億円買うモノです
相場がこの週は大きく崩れた なので 昨日は朝早くから 岡山 美作 の 神々にお祈りをしなきゃ あかん と
9時過ぎには 大阪を発って
里の ごホコの ご神前に向った 大急ぎで、向った
御鉾の神さんは 金属の神様 でもあると 信じているので 金属の相場がやばいと 御願いに帰らねばならないんや
次の次の世代の 東内誠の男の子の孫もつれて 急いでノンストップで150km走って帰った
戦国時代の 秀吉の 高松城から 走って帰った 急いで京都までかえって それが たしか7日間やから
今時では 出雲街道も 山陽道も たいへん 走り易くして頂いた。
出雲いずも街道も 古地図と 今の 中国自動車道が まったく同じ道中らしいんだよ
出雲と皇族も 今年というか つい先日 ご結婚がなされた 今でも 何か いにしえからのご縁の不思議を感じますよね
美作市 楢原には 火の神 という 小さな祠も あるんだ
火の神様 は たぶん タタラ系の神様だと思うよ
その川の土手 横にも これは 南北朝の時代だが 後醍醐天皇 南朝の天皇が そこでお休みになった場所も残っている
南朝の天皇にも ご縁が深い土地柄では ないのかな と とうないは思っている
美作 楢原の周辺 その川の付近から ワシの家の神宿周辺の奥まで どうやろう2km ほどか
南の方向には たぶん 20-30km ほどは、山の中で ワシの先祖は かなり大きな顔をしていたと思う
まあ 大昔から とうない は 金属を追う習性が強いことは 確かじゃ
そして 祈りまくる傾向が強い 本能なんや
しかし 良かったよ 昨夜は南欧の国債も買われた 株にも資金が流れた VIX指数も多少回復した
円買いも 止まったようで・・・ダウも回復した しかし されど この週は 相場かなり下げた
1018 18日という日も よい数字や 8も 良い数字 東内誠は5に ご縁が強いが 八は とてもよい
8は 末広がり というて ゲンがエエんや
18は いちかばちかの 大勝負の18や
こんな 風な思想は 唐(から/とう) 中華から その思想が 昔々 来たと思うよ
そうやねん
古代史 ごほこたて
その昔から とうない には祈り系の 一家だという 昔からの物を 調べた文章などを以下に書いた
長いこと 美作の歴史を研究しておられるかたの HPからも 拝借した
たぶん 深い 先祖は 同じ血かも 知れない方なので 怒られない と思う
藤内家書記如左是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。
則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者先年(神の)御宿を申し候につき,
その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。六郡の内‥‥‥。
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。棟を別にして方二間半ばかり。
藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。
一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。
その祭祀最も奥秘の神事とす。
世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。
その法は石基を四方と中央に安して,各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。
嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う
嘉承二年を 検索すると 西暦では1100年ごろの時代 「出雲国」を とうない が 藤原氏?の御指示で
武器を手にとり攻めたのかも知れんし 祈祷 神事をしただけかも 知れない
この英田郡史(美作国)では 矛殿 「中山太 では なくて 中山大神宮」 と なっている(平成の時代の東内 の東内誠メモ)
この西暦1100年の時代は 東内ではなく 藤内となっている 今よりも、900年前の時代
「世に叛臣あるとき」 がんしん とは 政権にたてつく 謀反のもの という 意味は東内誠 いくら無学でも読める
『藤内』とは 辞書で調べれば 【藤原氏の内舎人】 警護などと 殿のお世話をする手下という立場
今で言う 特攻隊長やな(とうない)
■■■■■
東内五家 六家
夏秋二度初穂取六家
藤内日向 (受領の家)
藤内源太郎
藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家)
藤内主計
藤内三大夫
おそらく?東内誠の ワシの爺さんは 東内勘太夫(かんたゆう) だと 思う
太夫とついたお墓もある
3代前の爺ちゃんも 勘 かん か、 甚太朗やから・・・
■■■■■
作陽誌(上) 昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。
藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。 既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下)
山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記 昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥‥。
東内誠メモ
「もんむ・てんのう の時代」とは・・・
文武天皇【もんむてんのう】
7―8世紀の天皇。草壁皇子の子。母は元明天皇。天武直系として697年持統天皇譲位により即位,707年まで在位。
藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とし,その治世は不比等の勢力が強かった
吉備・岡山県では 備前から 美作国を分割なされた時代背景である。東内誠メモ。
津山史(1) 中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。
神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。
この神を斎き祭ったのが、楢原の東内氏であり,
東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。
それより以後 東内氏は 東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り
http://tohnai.com/top_main.html
10/17は 2代あとの 男の子の 孫の一人を連れて ごほこの 周辺で2時間ほど遊ばせた
先祖や 神様の 祠の中に 住んでいるので 子達 孫たちも見守ってくれていると
東内誠 当代は信じている この五矛たては 子や孫 その子孫にも承継するつもり
銅相場の仮定計算は757円/㌔ なので四捨五入して76万円/㌧ほっと胸をなでおろした朝 実は25時に起床して これは確認して たいへん熟睡できた
大阪港で けっこうに大量にクズ物の銅含有品 いわゆる雑品を扱うモノ トーナイ
銅は ピカピカと光り輝く 金属で 磁石にはひっつかない
奈良の大仏が 大昔に 出来上がった時には 大きいことにも びっくりしたが
その輝きかたにも 人々は凄く 威圧され驚かされたと思います
その銅を日々 求めて 買い取り捲っているのが とうない 東内 藤内 唐内 ㈱トーナイ
たいていは 日々千万円を買います 日々1000万円なので 月にしたら2.4-2.6億円買うモノです
相場がこの週は大きく崩れた なので 昨日は朝早くから 岡山 美作 の 神々にお祈りをしなきゃ あかん と
9時過ぎには 大阪を発って
里の ごホコの ご神前に向った 大急ぎで、向った
御鉾の神さんは 金属の神様 でもあると 信じているので 金属の相場がやばいと 御願いに帰らねばならないんや
次の次の世代の 東内誠の男の子の孫もつれて 急いでノンストップで150km走って帰った
戦国時代の 秀吉の 高松城から 走って帰った 急いで京都までかえって それが たしか7日間やから
今時では 出雲街道も 山陽道も たいへん 走り易くして頂いた。
出雲いずも街道も 古地図と 今の 中国自動車道が まったく同じ道中らしいんだよ
出雲と皇族も 今年というか つい先日 ご結婚がなされた 今でも 何か いにしえからのご縁の不思議を感じますよね
美作市 楢原には 火の神 という 小さな祠も あるんだ
火の神様 は たぶん タタラ系の神様だと思うよ
その川の土手 横にも これは 南北朝の時代だが 後醍醐天皇 南朝の天皇が そこでお休みになった場所も残っている
南朝の天皇にも ご縁が深い土地柄では ないのかな と とうないは思っている
美作 楢原の周辺 その川の付近から ワシの家の神宿周辺の奥まで どうやろう2km ほどか
南の方向には たぶん 20-30km ほどは、山の中で ワシの先祖は かなり大きな顔をしていたと思う
まあ 大昔から とうない は 金属を追う習性が強いことは 確かじゃ
そして 祈りまくる傾向が強い 本能なんや
しかし 良かったよ 昨夜は南欧の国債も買われた 株にも資金が流れた VIX指数も多少回復した
円買いも 止まったようで・・・ダウも回復した しかし されど この週は 相場かなり下げた
1018 18日という日も よい数字や 8も 良い数字 東内誠は5に ご縁が強いが 八は とてもよい
8は 末広がり というて ゲンがエエんや
18は いちかばちかの 大勝負の18や
こんな 風な思想は 唐(から/とう) 中華から その思想が 昔々 来たと思うよ
そうやねん
古代史 ごほこたて
その昔から とうない には祈り系の 一家だという 昔からの物を 調べた文章などを以下に書いた
長いこと 美作の歴史を研究しておられるかたの HPからも 拝借した
たぶん 深い 先祖は 同じ血かも 知れない方なので 怒られない と思う
藤内家書記如左是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。
則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者先年(神の)御宿を申し候につき,
その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。六郡の内‥‥‥。
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。棟を別にして方二間半ばかり。
藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。
一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。
その祭祀最も奥秘の神事とす。
世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。
その法は石基を四方と中央に安して,各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。
嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う
嘉承二年を 検索すると 西暦では1100年ごろの時代 「出雲国」を とうない が 藤原氏?の御指示で
武器を手にとり攻めたのかも知れんし 祈祷 神事をしただけかも 知れない
この英田郡史(美作国)では 矛殿 「中山太 では なくて 中山大神宮」 と なっている(平成の時代の東内 の東内誠メモ)
この西暦1100年の時代は 東内ではなく 藤内となっている 今よりも、900年前の時代
「世に叛臣あるとき」 がんしん とは 政権にたてつく 謀反のもの という 意味は東内誠 いくら無学でも読める
『藤内』とは 辞書で調べれば 【藤原氏の内舎人】 警護などと 殿のお世話をする手下という立場
今で言う 特攻隊長やな(とうない)
■■■■■
東内五家 六家
夏秋二度初穂取六家
藤内日向 (受領の家)
藤内源太郎
藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家)
藤内主計
藤内三大夫
おそらく?東内誠の ワシの爺さんは 東内勘太夫(かんたゆう) だと 思う
太夫とついたお墓もある
3代前の爺ちゃんも 勘 かん か、 甚太朗やから・・・
■■■■■
作陽誌(上) 昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。
藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。 既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下)
山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記 昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥‥。
東内誠メモ
「もんむ・てんのう の時代」とは・・・
文武天皇【もんむてんのう】
7―8世紀の天皇。草壁皇子の子。母は元明天皇。天武直系として697年持統天皇譲位により即位,707年まで在位。
藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とし,その治世は不比等の勢力が強かった
吉備・岡山県では 備前から 美作国を分割なされた時代背景である。東内誠メモ。
津山史(1) 中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。
神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。
この神を斎き祭ったのが、楢原の東内氏であり,
東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。
それより以後 東内氏は 東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り
http://tohnai.com/top_main.html
10/17は 2代あとの 男の子の 孫の一人を連れて ごほこの 周辺で2時間ほど遊ばせた
先祖や 神様の 祠の中に 住んでいるので 子達 孫たちも見守ってくれていると
東内誠 当代は信じている この五矛たては 子や孫 その子孫にも承継するつもり