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バタ屋東内は1300年前から神宿に元々は藤内という姓で住んでたという歴史書より銅精錬

2013-12-08 20:30:18 | Weblog
東大寺の建設が 今から1300年ほども前の時代で
大宝律令も その50年後頃の時代だった
ワシのトーナイ 東内の先祖が美作市楢原 
神宿の(ワシの生地 本籍地地番)にて 
神から なんらかの お告げをうけたのが 今から どうでしょう1300年以上も 前であるという かなりの証拠文書が見つかった
 
東内の記述が 吉備国 美作の 歴史書にでてきて
 1300年前に家の前に神が現れて ・・・
 
 
日曜日の朝からバタ屋東内 興奮 冷めやらずなのです
 
吉備国とは いうが 出雲大社への通り道でもあるので
出雲系なのか 吉備国人 なのか 藤なので 藤原にも なんらかの関係がるのかは 解からない
ただ 出自を追って 1306年も先祖を 追っかけることが 出来たのは 幸運というか 
ワシの しつこい 性格もある
祭神は 『大国主命』である
銅の追っかけを している 子孫のバタ屋東内には
1300年も前に ワシの先祖が 銅を精錬し鉄製造にも関連し 鏡の製造をうかがわせる史書がある
ワシ 金山(かなやま)に 何度も 危ないのに潜入してたんや などと 此処でも何度か 書いていたきたの ですが
そうですねん 鉱山が 山の中に 何箇所かあったの 
うちの上 池の上の谷山なの そこには近づくなとは言われていましたが 幼かったのでな
そう よく 山で遊んでいたんや 何でかというと8歳の時に 母と死別して 1人遊びも多かった
そや家の敷地内にある祠のなかでもよく眠っていたんや
意味不明なことを いうのんも 何か 神事じみたことを口走るのも 何か DNAの中には眠っているんじゃ とか自分で勝手に そう思ってる
郡史とか 1300年の歴史を誇る 神社から 出た資料なので かなり 確信しているの・・・
 
継体天皇が 500年代なので 1460年くらいの過去なの
この天皇の御陵が ワシのいま 住まいする大阪府の高槻市でしょ 1460年前や なんとなく 引き付けられてこの地に 流れついたのが35年前で 
そこで暮らしていて 里を捨てて出た自分なのですが 
なぜか 気に掛かるのんが 里の家の
祠を守れ って誰かがささやくような気が するのよね~
 
まあ 東内トーナイは 1300年前から 銅に関連していたことは まず 間違いない 鏡や石にも 関連してる
 
ワシの先祖は 多分 渡来人だと思う まあ 日本人は ほぼ 全員 渡来人なのですがね
 
古代の氷河期に 氷の上を渡ってきた 民族と
その後の 舟ができた 時代に 大陸から渡ってきている民族 であることは 100%確実なの
しかし ワシの場合は 1300年追っかけていけた事にはまあ たいへん 良かった
 
なんで ワシ こんなに しつこく銅を追うのか それは 本能的に そうなっていたんじゃ と結論しようかなあ とも 思うが ・・・・まだまだ 
いろんな神社の歴史も追わねば 納得はできていない
 
大正時代に 歴史学者が 何度も うちを訪ねてきていたことは おぼろげながら 聞いてはいたのんやけどな
 
なので その後の時代は 何時も言ってるが 
ワシの先祖は百姓やな
蚕も飼った 牛も飼った そのかたわらシャーマン的な事も 多少はやってきたのんじゃ と 思う
なので 今でも トーナイは 博打打ち的思想も強い
 
1300年前の先祖が 銅を追え と 指示してる
お米も大事にしなさいと 告げてるんやで
以下は 研究者のかたのHPを拝借しました・・・↓
 
①往古中山神社に五鉾を立てる祭事があり, 基壇となる石を四方及び中央に配し,その上におのおの鉾を立てて行われたようなのである。 この祭は,中山神社の最も奥秘の神事と言われ,この祭祀に使用される祭具の鉾を斎き祭ったのが,楢原村神宿の藤内-東内であると言われ, 藤内五家の矛殿はこの祭具ための特別の施設だということになる。 一宮(中山)社家説と藤内家伝とは, この点で完全に主張が一致している。 形状はまちまちながら, 確かに五本の矛も五家に伝世しているようなのである。
  矛を立てるための台座石というものについて,『作陽誌』は「その中央の石今苫南郡小原に遺る」と注す
②英田郡楢原邑の藤内家が,なぜ宅地内にわざわざ殿舎を造営して祭祀したか,その理由が解き明かされなければならない。中山神の神宿示現に際して,藤内が宿舎の提供や饗応に務めたことから,この時の功績を認められた代々の子孫が, 中山神の美作東六郡初穂取りの役となったという。これは解る。しかし,このことが重要な祭具とされる五鉾が
藤内家が特別に保管し,子孫がこれを今日まで斎き祭ること・・・・・・???
③津山市史(Ⅰ 
中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。
この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。
  空白の四ケ月は何を意味するか
④神宿に見る古代産鉄の要素
  鉾を作り神に奉ったとして,元々藤内の集団が持っていた技術で作られた鉾か,示現した神(集団)がもたらした新技術だったか-の問題は後に譲る。
ここでは, 楢原邑における採菰と水酸化鉄団塊生成の可能性と, 金属精錬・加工が行われた痕跡をさぐってみよう。 
地図で見ると,一帯は吉井川の二つの支流(梶並川・吉野川)によって東西を,また南北を山地によって挟まれたゆるやかな傾斜地となっている。楢原駅とため池のある辺りが小分水界を形成し,南北-とりわけ深い奥行きを持つ北の山合いからは,幾筋もの細流が傾斜地を潤して東西に流れている。黎明期の水田稲作にとって絶好の条件を備えていたように思われる。
 
この地に出雲往来の古道が通っており,鎌倉幕府打倒に失敗した後醍醐が捕えられ,佐々木道誉などに警護されて隠岐に向かったのも,この道であったという。
また,歴史の偶然でもあろうか-現代の幹線道路「中国高速」も,実はこの古道ルートをなぞったかのように走る。
  『作陽誌』によれば,藤内の祖が菰を採った場所が「乙田」の名で残るとあり,傾斜地のあちらこちらに湿地が点在していたと考えられる。また,梶並川に沿った「火の神」の杜の辺りは河岸段丘の下で,対岸の豊国原低地と合わせて,一帯は広大な葦原であったと考えられる。楢原中の対岸集落には「吉-ヨシ」村が,また,楢原下には「沢」の小字名も見え,アシ・ヨシ・コモなどの水性禾科植物が一帯に自生していたものと考えて間違いない。
 また,小分水界近くの土木工事現場で確認したが,切り取られた山の斜面は赤く発色していた。一帯の土質はかなりの鉄分を含んでいるように見受けられた。俗に-金気が多いと言われるが,こういった鉄分を多く含む湖沼や淀みには,泥土分とともに鉄分が水底に沈殿し,密生した水性植物の根の回りに吸着していったことであろう。さらに,現物は未確認ながらも,「楢原下に出す」と『作陽誌』が云う小方石は,「ます石」と呼ばれる土中の褐鉄鉱であった可能性が高い。
このことからも,
楢原邑一帯が古代の採菰・産鉄の必要条件を,十分に備えていたと見て間違いないだろう。
 
以上↑
歴史書を紐解いて研究されて いるかたのHPを拝借させて戴いた東内誠2013.12.08
 
 
 トーナイは 非鉄・鉄・中古品・廃プラスチックの売買を行い、
また廃棄物を正規に適正処理する総合的リサイクル企業です。
トーナイの大阪市此花営業所は
09年ISO14001を認証取得しました。
09年8月末には 
大阪税関より 自社保有地に一般貨物保税蔵置場許可が許可され バラのスクラップ貨物を自社ヤードで通関可能な保税倉庫の許可も取得しましたので 
 チャーターした船に 自社保税区から直接の積み込みが可能な 全国的にも珍しいリサイクルセンターとなっております
 (中国向け輸出ライセンス有) 
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マニフェスト発行も可能な中間処理業者です。
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