その日もいつもどおりの一日になると思ってた。
本当にそう思ってた。
いつもそうだから、その日もそうだと思ってた。
9月8日は何もせず、次の日に備えてさぁ寝ようかなと思ってた。
長姉からのLINE。
先日、わだかまりが解けてLINEを復活させたところだった。
「母親の血圧が急激に下がったと病院から連絡があった。」
この日曜日に入院している部屋が変わったので、体調が悪くなった程度にしか捉えてなかった。
そのLINEを見てから就寝したけど、なぜか3時半位に目が覚めた。
「母親が痙攣を起こしている。病院に向かって欲しい。」
そのLINEをみて取るものを取らずに原チャで向かう。
それでも心のどこかに余裕のようなものがあった。
4時半位に病院到着。
母親を見ると反応がない。
土曜日はそれなりに反応があったのに。
朝が明けるにしたがって、みんなが集まってくる。
みんな焦りと不安もあるけど、どこかに心に余裕がある感じ。
しかし万一の備えとして、服とかを確認するために11時くらいに一旦帰宅。
スーツなんかの確認をして、15時くらいに病院に向かう。
それから20時くらいまでいた。
その間、特に変わったことはなかった。
その間、母親と二人きりになることがあって手を握ってたけど、なにか語りかけると握り返してくれるような気がした。
でも話しかけても返事はない。
先週金曜日にお見舞いに来た時は、私が食事介助した。
ちょっと食べさせては冗談を言って笑わしてた。
そのときは確かに少しは会話ができた。
土曜日は反応は薄かったが、寝起きなんだろうと思ってた。
それから2日ほどしかたってないのに、こんな状況になってた。
それだけで泣けてきた。
それだけで悲しくなってきた。
やがてみんな戻ってきた。
しばらくして長姉が一人残り、解散。
次の日、私は5時半に病院到着。
長姉によると、4時くらいから30分おきに痙攣があるそうだ。
それを聞いて母親の手を握り、朝の挨拶をするとこっちを見て、名前を呼んでくれたような気がした。
それからも30分おきに痙攣があった。
6時半くらいに、呼吸をしてない感じがしたのでじっと見てた。
その前に止まったように見えたから変な声を出したら姉に注意されたので、しずかに見てた。
それでもおかしい感じがしたので、姉に声をかけ見てもらった。
ゆすっても反応がない。
看護師さんを呼ぶ。
看護師さんが来て、聴診器を当てて呼吸停止を確認。
6:43
いろんなところに姉と手分けして連絡。
連絡できるところに電話連絡したけど、ちゃんと伝わっているかどうかわかんなかった。
現実じゃないような感じ。
グレーがかった不安が頭を駆け巡る。
本当に眠るように息を引き取った。
7年間の闘病生活が嘘のようだ。
8時くらいまでにみんなそろう。
当直医が来て、死亡確認。
8:27
号泣し続けるかと思っていたけど、意外な程に泣かないものだ。
葬儀会場とかの予約・連絡を長姉がする。
その間、湯灌や死化粧なんかをしてもらう。
マニキュアなんかもしてもらってた。
12時に葬儀屋さんがお迎えに来た。
私は寝台車に乗り、実家に向かう。
家の前まで行ってくれるそうだ。
実家に到着して、一旦ドアを開けて覆いをとってもらう。
母親が帰ってきたがってた我が家。
なんのかんので団地が建った時から住んでいる。
しばらくしてから斎場に向かう。
斎場に入ると24時間会えなくなってしまうのだそうだ。
その間に葬儀の打ち合わせをしてから一旦解散。
一度、病院に送ってもらってから原チャで帰宅。
現実じゃないような気がして仕方ない。
でもこれが現実。
ただボケ~っとしながらいろんなことを振り返る。
やっとこさ、スタートラインに立つことができてこれから親孝行の真似事ができるかもって思ってた矢先だったのに。
もっと母親の手料理を食べたかった。
もっと話をしたかった。
もっといろんなところに連れてきたかった。
もっと話を聞いて欲しかった。
もっと叱られたかった。
もっと褒めて欲しかった。
もっと見ていて欲しかった。
そんなことを考えてた。
もう帰ってこないこの日々。
親戚と従兄弟にそれぞれ現状を連絡。
早く寝ろってLINEが来て、早々に寝る。
目覚めたのは3時半くらい。
それから5時半くらいまでうだうだと過ごす。
朝一番に散髪に行き、身支度して12時半くらいに斎場に向けて出発。
季節はずれの暑さを感じながらの移動。
道中は母親が好きだった落語「地獄八景亡者戯」を聴いてた。
亡者たちが地獄で織り成す珍道中を90分の落語にしたものを、これまた母親が好きだった桂米朝が演じているものだ。
途中で買い物。
偶然、母親の知り合いの元市会議員さんに会う。
斎場に着く直前に、着替えを持ってくるのを忘れたことに気がつく。
もういいや、なんでも。
斎場に入って、ぼけっとしてたら島根からの親戚が来る。
一時間ほど話してたら、いとこが渡したいものがあるという。
何かいなと思っていたら、親父の実家で発見したという手帳。
おじいさんのものだ。
中を見たら、徴兵中に色々とあったことをメモしてたようだ。
ゾクゾクした。
ちょっと興奮した。
でも、こういうことには必ず共感してくれるであろう母親はもういない。
その現実を突きつけられた。
そうこうしているうちにみんな来た。
会場も入れるということなので、控え室に入る。
祭壇はまだ出来てなかったけど、母親とは対面できた。
ちょっと口が開いてたので、寝ている感じがした。
あれこれ準備しているうちに、通夜。
通夜中は雨が降ってた。
涙雨とか言うんだろうが、そんなことはどうでもよかった。
通夜は私が進行。
ほとんどグダグダ、事前に業者さんから聴いてたことをメモしたカンペを読んでいるだけだった。
会場で流す曲は前から母親がリクエストしてた曲と、好きな歌手の曲をかけた。
CDを編集したときは違和感があったけど、会場で曲をかけたらそうでもなかった。
結局、このCDを告別式でもかけた。
通夜にはいろんな方が来てくださった。
思ったより人数は少ない感じはしたが、母親の年齢を考えるとこんなものだろうなって思う。
終了後、泊まる連中と一旦帰宅する連中で別れる。
泊まる連中は想い出話に華が咲く。
が、緊張が解けたのか眠気が一気に襲ってきた。
いつ寝たのか覚えてない。
3時半頃、義兄のいびきで目覚めてうだうだと6時くらいまでしてた。
次姉が用意してくれてた朝食を軽く済ませる。
そこで気がついたのが、昨日はほとんど食事してなかったこと。
食事を忘れるってこういうことなのね。
遠くから来た親戚に挨拶をし、告別式の打ち合わせ。
正午より告別式。
喪主であるオヤジに代わって挨拶をしないといけないけども何も言えず、結局オヤジに挨拶させた。
そのまま火葬場へ。
棺桶を運搬する台車に乗せるまでの男手を甥っ子達に頼んでおいたが、自分にも役目が廻ってきた。
顔近くを担いだ。
もう本当に最期かと思ったら泣けてきて、棺桶から手を離したくなかった。
火葬場で本当に最期のお別れ。
そのままゲートが閉じる。
その間に精進上げ。
目では美味しいものってわかっているのに、全く味がしない。
小一時間してから連絡を受けて、火葬場に先に一人で案内されて入る。
火葬場の扉の確認をしてゲートが開き、お骨になった母親との対面。
人間ってこんなに残らないものなのかって驚いた。
お骨拾いは別の場所で行った。
喉仏もほとんど形がなくてボロボロだった。
親父が拾ったお骨を私が箸で受け取って骨壷に入れる。
この行為を不思議そうな顔で見てた甥っ子が少し笑えた。
骨壷にそれぞれ入れてもらい、帰宅。
やっと家に帰ってこれたね、お母ちゃん。
郵便不在票が入ってたので送り主を確認したが、そのときはよくわからなかった。
業者が祭壇を用意してくれ、綺麗に祀られた。
小一時間ほど話をしてたときに、先ほどの不在票の送り主が母親の弟で私以上に偏屈で変わり者で大馬鹿野郎の叔父さんだってことが判明した。
そういうことするなら、顔出せよ。
最後のチャンスだったのに、馬鹿野郎が!
時間変更してもらい、指定時間に私が実家に来て受け取ることになった。
その後は皆解散、帰宅。
背広を脱いで、長かった日が終わった。
虚無感とはこういうものなんだろうか。
しばらくしてLINEが来て、九州の親戚が実家の墓参りをしよう言うので、みんなでついて行こうとなり、その際に本当は母親の意向でお断りしてた香典を頂いたからその返礼をさせていただこうとなった。
みんな、考えることは同じのようだ。
その後、今回参列しなかったへそ曲がりの親戚からの香典を受け取りに実家に向かう。
受け取って、長姉宅へ持っていく。
そのまま帰宅して早く寝た。
次の日は雨が降ってたせいか、寒く感じるくらいだ。
10時半くらいに実家に向かい、乗り合わせてお墓に向かう。
現地で親戚と合流して墓参り。
さっきまで雨が降ってたのに、墓地についてから止んできた。
その後、香典返しの意味を兼ねての食事会。
母親が何か家族で大事な催しがあると必ずお願いしてた料理屋さんに行く。
急な申し入れにもきちんと対応して下さり、お供えにメロンまで頂いた。
移動中に今後のことを話して、来年には実家に帰ることにした。
ストレスはかなり溜まってくるだろうけど、仕方がない。
オヤジを一人にしてられないから。
年内は朝と晩に顔を見に行くことにした。
母親がここ最近で一番心配してたこと。
なんとかやりますわ。
来年から勉強、どないしよう。
まぁ、来年考えましょうか。
次回は49日。
お墓は立てず、一心寺さんにお願いするそうだ。
ほとんどが母親の意向で進んできた。
なんとかうまくいったかな?
評価してほしいな。
ホンマに褒めてほしいな。
お母ちゃん、今までありがとう。
産んでくれてありがとう。
またそのうちに会いましょう。
またその日まで。
本当にそう思ってた。
いつもそうだから、その日もそうだと思ってた。
9月8日は何もせず、次の日に備えてさぁ寝ようかなと思ってた。
長姉からのLINE。
先日、わだかまりが解けてLINEを復活させたところだった。
「母親の血圧が急激に下がったと病院から連絡があった。」
この日曜日に入院している部屋が変わったので、体調が悪くなった程度にしか捉えてなかった。
そのLINEを見てから就寝したけど、なぜか3時半位に目が覚めた。
「母親が痙攣を起こしている。病院に向かって欲しい。」
そのLINEをみて取るものを取らずに原チャで向かう。
それでも心のどこかに余裕のようなものがあった。
4時半位に病院到着。
母親を見ると反応がない。
土曜日はそれなりに反応があったのに。
朝が明けるにしたがって、みんなが集まってくる。
みんな焦りと不安もあるけど、どこかに心に余裕がある感じ。
しかし万一の備えとして、服とかを確認するために11時くらいに一旦帰宅。
スーツなんかの確認をして、15時くらいに病院に向かう。
それから20時くらいまでいた。
その間、特に変わったことはなかった。
その間、母親と二人きりになることがあって手を握ってたけど、なにか語りかけると握り返してくれるような気がした。
でも話しかけても返事はない。
先週金曜日にお見舞いに来た時は、私が食事介助した。
ちょっと食べさせては冗談を言って笑わしてた。
そのときは確かに少しは会話ができた。
土曜日は反応は薄かったが、寝起きなんだろうと思ってた。
それから2日ほどしかたってないのに、こんな状況になってた。
それだけで泣けてきた。
それだけで悲しくなってきた。
やがてみんな戻ってきた。
しばらくして長姉が一人残り、解散。
次の日、私は5時半に病院到着。
長姉によると、4時くらいから30分おきに痙攣があるそうだ。
それを聞いて母親の手を握り、朝の挨拶をするとこっちを見て、名前を呼んでくれたような気がした。
それからも30分おきに痙攣があった。
6時半くらいに、呼吸をしてない感じがしたのでじっと見てた。
その前に止まったように見えたから変な声を出したら姉に注意されたので、しずかに見てた。
それでもおかしい感じがしたので、姉に声をかけ見てもらった。
ゆすっても反応がない。
看護師さんを呼ぶ。
看護師さんが来て、聴診器を当てて呼吸停止を確認。
6:43
いろんなところに姉と手分けして連絡。
連絡できるところに電話連絡したけど、ちゃんと伝わっているかどうかわかんなかった。
現実じゃないような感じ。
グレーがかった不安が頭を駆け巡る。
本当に眠るように息を引き取った。
7年間の闘病生活が嘘のようだ。
8時くらいまでにみんなそろう。
当直医が来て、死亡確認。
8:27
号泣し続けるかと思っていたけど、意外な程に泣かないものだ。
葬儀会場とかの予約・連絡を長姉がする。
その間、湯灌や死化粧なんかをしてもらう。
マニキュアなんかもしてもらってた。
12時に葬儀屋さんがお迎えに来た。
私は寝台車に乗り、実家に向かう。
家の前まで行ってくれるそうだ。
実家に到着して、一旦ドアを開けて覆いをとってもらう。
母親が帰ってきたがってた我が家。
なんのかんので団地が建った時から住んでいる。
しばらくしてから斎場に向かう。
斎場に入ると24時間会えなくなってしまうのだそうだ。
その間に葬儀の打ち合わせをしてから一旦解散。
一度、病院に送ってもらってから原チャで帰宅。
現実じゃないような気がして仕方ない。
でもこれが現実。
ただボケ~っとしながらいろんなことを振り返る。
やっとこさ、スタートラインに立つことができてこれから親孝行の真似事ができるかもって思ってた矢先だったのに。
もっと母親の手料理を食べたかった。
もっと話をしたかった。
もっといろんなところに連れてきたかった。
もっと話を聞いて欲しかった。
もっと叱られたかった。
もっと褒めて欲しかった。
もっと見ていて欲しかった。
そんなことを考えてた。
もう帰ってこないこの日々。
親戚と従兄弟にそれぞれ現状を連絡。
早く寝ろってLINEが来て、早々に寝る。
目覚めたのは3時半くらい。
それから5時半くらいまでうだうだと過ごす。
朝一番に散髪に行き、身支度して12時半くらいに斎場に向けて出発。
季節はずれの暑さを感じながらの移動。
道中は母親が好きだった落語「地獄八景亡者戯」を聴いてた。
亡者たちが地獄で織り成す珍道中を90分の落語にしたものを、これまた母親が好きだった桂米朝が演じているものだ。
途中で買い物。
偶然、母親の知り合いの元市会議員さんに会う。
斎場に着く直前に、着替えを持ってくるのを忘れたことに気がつく。
もういいや、なんでも。
斎場に入って、ぼけっとしてたら島根からの親戚が来る。
一時間ほど話してたら、いとこが渡したいものがあるという。
何かいなと思っていたら、親父の実家で発見したという手帳。
おじいさんのものだ。
中を見たら、徴兵中に色々とあったことをメモしてたようだ。
ゾクゾクした。
ちょっと興奮した。
でも、こういうことには必ず共感してくれるであろう母親はもういない。
その現実を突きつけられた。
そうこうしているうちにみんな来た。
会場も入れるということなので、控え室に入る。
祭壇はまだ出来てなかったけど、母親とは対面できた。
ちょっと口が開いてたので、寝ている感じがした。
あれこれ準備しているうちに、通夜。
通夜中は雨が降ってた。
涙雨とか言うんだろうが、そんなことはどうでもよかった。
通夜は私が進行。
ほとんどグダグダ、事前に業者さんから聴いてたことをメモしたカンペを読んでいるだけだった。
会場で流す曲は前から母親がリクエストしてた曲と、好きな歌手の曲をかけた。
CDを編集したときは違和感があったけど、会場で曲をかけたらそうでもなかった。
結局、このCDを告別式でもかけた。
通夜にはいろんな方が来てくださった。
思ったより人数は少ない感じはしたが、母親の年齢を考えるとこんなものだろうなって思う。
終了後、泊まる連中と一旦帰宅する連中で別れる。
泊まる連中は想い出話に華が咲く。
が、緊張が解けたのか眠気が一気に襲ってきた。
いつ寝たのか覚えてない。
3時半頃、義兄のいびきで目覚めてうだうだと6時くらいまでしてた。
次姉が用意してくれてた朝食を軽く済ませる。
そこで気がついたのが、昨日はほとんど食事してなかったこと。
食事を忘れるってこういうことなのね。
遠くから来た親戚に挨拶をし、告別式の打ち合わせ。
正午より告別式。
喪主であるオヤジに代わって挨拶をしないといけないけども何も言えず、結局オヤジに挨拶させた。
そのまま火葬場へ。
棺桶を運搬する台車に乗せるまでの男手を甥っ子達に頼んでおいたが、自分にも役目が廻ってきた。
顔近くを担いだ。
もう本当に最期かと思ったら泣けてきて、棺桶から手を離したくなかった。
火葬場で本当に最期のお別れ。
そのままゲートが閉じる。
その間に精進上げ。
目では美味しいものってわかっているのに、全く味がしない。
小一時間してから連絡を受けて、火葬場に先に一人で案内されて入る。
火葬場の扉の確認をしてゲートが開き、お骨になった母親との対面。
人間ってこんなに残らないものなのかって驚いた。
お骨拾いは別の場所で行った。
喉仏もほとんど形がなくてボロボロだった。
親父が拾ったお骨を私が箸で受け取って骨壷に入れる。
この行為を不思議そうな顔で見てた甥っ子が少し笑えた。
骨壷にそれぞれ入れてもらい、帰宅。
やっと家に帰ってこれたね、お母ちゃん。
郵便不在票が入ってたので送り主を確認したが、そのときはよくわからなかった。
業者が祭壇を用意してくれ、綺麗に祀られた。
小一時間ほど話をしてたときに、先ほどの不在票の送り主が母親の弟で私以上に偏屈で変わり者で大馬鹿野郎の叔父さんだってことが判明した。
そういうことするなら、顔出せよ。
最後のチャンスだったのに、馬鹿野郎が!
時間変更してもらい、指定時間に私が実家に来て受け取ることになった。
その後は皆解散、帰宅。
背広を脱いで、長かった日が終わった。
虚無感とはこういうものなんだろうか。
しばらくしてLINEが来て、九州の親戚が実家の墓参りをしよう言うので、みんなでついて行こうとなり、その際に本当は母親の意向でお断りしてた香典を頂いたからその返礼をさせていただこうとなった。
みんな、考えることは同じのようだ。
その後、今回参列しなかったへそ曲がりの親戚からの香典を受け取りに実家に向かう。
受け取って、長姉宅へ持っていく。
そのまま帰宅して早く寝た。
次の日は雨が降ってたせいか、寒く感じるくらいだ。
10時半くらいに実家に向かい、乗り合わせてお墓に向かう。
現地で親戚と合流して墓参り。
さっきまで雨が降ってたのに、墓地についてから止んできた。
その後、香典返しの意味を兼ねての食事会。
母親が何か家族で大事な催しがあると必ずお願いしてた料理屋さんに行く。
急な申し入れにもきちんと対応して下さり、お供えにメロンまで頂いた。
移動中に今後のことを話して、来年には実家に帰ることにした。
ストレスはかなり溜まってくるだろうけど、仕方がない。
オヤジを一人にしてられないから。
年内は朝と晩に顔を見に行くことにした。
母親がここ最近で一番心配してたこと。
なんとかやりますわ。
来年から勉強、どないしよう。
まぁ、来年考えましょうか。
次回は49日。
お墓は立てず、一心寺さんにお願いするそうだ。
ほとんどが母親の意向で進んできた。
なんとかうまくいったかな?
評価してほしいな。
ホンマに褒めてほしいな。
お母ちゃん、今までありがとう。
産んでくれてありがとう。
またそのうちに会いましょう。
またその日まで。