子育て時々ジョギング

三人の男児と旦那様 紅一点…もしくは、4対1。毎日奮闘しています

諸法無我

2024-03-30 15:00:18 | 日記

 3月23日母が亡くなりました。今回のブログだけ、今の心境をつづります。

 癌が発覚して、2年。急変したのは今年に入ってから。去年の秋から痛みが出てきて、横になる事が多くなった母。私が母の家事の代わりになれるよう帰省しても、母は私に会えてうれしいのと、離れて暮らす私にユックリさせたい一心で、動いてしまう。そんな母。

 叔母から聞いた話、母はラーメン屋に生まれた長女で忙しい母の両親は母を親戚に預け、殆ど一緒に暮らしたことがない。その分、私と弟は沢山の愛情が注ぎ込まれていた。私たちへの愛はすごかったという。言われてみれば・・・と思う。私は結婚するまでカギを持つことなかった。必ず母が家にいた。何不自由なかった。全て母がやってくれていた。それが当たり前かのように。

 母が亡くなって色々知った事もあり、こういう機会がなければ、話さない事もあり、こういう時間・・・は・・・いろんな意味で大切な時間だと思う事に。

 私は実家から離れて生活していて、弟たちが両親の近くにいて、この度も弟が全てやってくれている。今年長男の受験が終わってから、頻繁に帰省するようになったが、母の様態は急変していく。オムツを換えるのだが、その時の母の身体が、あっという間に母の身体は細くなってしまった。というか、骨と皮に。脳におそらく癌が転移してしまったようで、殆ど喋る事ができない。そんな母を自宅で父は介護し続けました。

最終的には水分の点滴=延命治療

母は昔から延命治療はいらない。と言っていた。いざそういう状況になった時、本人の気持ちは。そして長年連れ添った父の気持ちは。そして娘である私の気持ち。

母は喋れなくても耳はしっかり聞こえていた。点滴を打ち始めたら一時良くなった!それを見て父は延命をし続ける事を決めた。しかしそれは私が帰省した日のみだった。母をまた、頑張らせてしまったかなと思ってしまった。

娘の私としては、延命治療をすべきか否か決断できない。父は少しでも味のあるものをと、口から味の着いたものを飲ませる。それが弱った気管に入り苦しんで亡くなってしまったら、母も父も苦しむことになる。

結局往診にきてくれたお医者さんが、父に判断させるのは酷だと、私(医者)が判断しましょうかと言ってくれたので、父はそれで願いします。と。

その6日後、母は、上がるはずの無い手を上げ、父を呼び、声が出なかったはずの声を出して、息を引き取った。そして、その時間に私は自分の家で、手をケガした。たまたま、偶然なのだが。その時にケガしたという事が心に刻まれる。

母はドライアイスのせいもあり、とても冷たかった。何も食べていないから顔はいつもの母の顔ではなかった。火葬する間際、思わず母に「暖かくなるからね」と。母に怖い思いをさせたくないという気持ちもあった。「大丈夫だから」と最後に声をかけたような。母が焼かれる不安と、そして残された私達に対しての ダイジョウブ と一言声をかけた。

亡くなったと口では言えるものの、心がそう思っていない。実感がない。

母から電話がかかってくるような気がする。新幹線で帰省したら、改札口で手を振って待つ母がいそうだ。実家に着いたら台所に立って、色々出してくれそうだ。ひといき入れたら、洗濯物を取り入れる母がいそうだ。そして私の子供(母にとっては孫)とトランプやダイアモンドゲームをする母がいそうだ。

夜は最後まで起きて私が寒くないかと布団を首元までかけなおしてくれる母がいそうだ。いつも笑顔だった。

今回の母の死が、私が母になり、子供達を毎日毎日叱っていて・・・そんな思い出しか無いのは子供も可哀そうだし、私もそういうイメージで終わりたくないなと思うようになった。なるたけ、怒鳴る前に深呼吸おけるよう努力しよう。そして、健康でいるために、検診には行き続け、何か違和感や異常があれば、診察を受けるべきだという事も教えてくれた。

通夜と葬式が終わり、子供達も疲れたのだろう。次男はどうしてもはずせない用があり、先に帰ったが、用事終えたら、発熱。疲れからの発熱は初めてだった。何も口には出さないけど・・・主人も疲れたと思う。  母も含めみんなお疲れ様でした。


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