いつだって!宮城梓さん応援ブログ 

沖縄の情景のように真っ直ぐな歌声と見事な三線を届ける唄者・宮城梓さんを応援します。

我喜屋優監督に人生を学ぼう!

2010-08-25 20:33:08 | Weblog

興南高校県民祝賀会盛り上がってますか!

我喜屋優監督に人生を学ぼう!

 

「沖縄の歴史に大きな意味」=興南ナイン、知事に優勝報告

第92回全国高校野球選手権大会を沖縄県勢として初めて制覇し、史上6校目の春夏連覇を果たした興南が25日、沖縄県庁を訪れ、仲井真弘多知事に優勝を報告した。
 我喜屋優監督は「この栄冠は沖縄県民一人ひとりのものだと思っている」とあいさつ。我如古盛次主将も「県民全員で勝ち取った優勝」と感謝の言葉を述べた。仲井真知事は、深紅の優勝旗を見ながら「皆さんは沖縄県の歴史にとって意味のあることを成し遂げた」と語り、県民の悲願に応えたチームをたたえた。
 仲井真知事は、我如古主将に優勝メダルを見せてもらったり、優勝旗を興味深そうに眺めたりした。また「一度握手してみたかった」と、エース島袋洋奨投手と握手し、満面に笑みを浮かべた。 
(2010/08/25-19:37)時事通信


[興南 結実の夏・全国高校野球選手権 初V](3)強打支えた観察眼
2010年8月25日 09時51分    沖縄タイムス
 
(10時間20分前に更新)

 来た球を打つ。言葉ではたやすいが実践となると簡単にはいかない。しかし、王者興南は我喜屋優監督が掲げる「反応バッティング」でこれを可能にした。

 今大会で興南打線が放った安打は83本。打率は約4割になる。

 我喜屋監督は言う。「うちは、『カーブいきます。ストレートです』のような練習はしない」。打撃練習では球速、球種、コースとさまざまな組み合わせのボールを打つ。しかも「人間が投げるのと機械では違う」(我喜屋監督)の方針で、投手が投げる「生きた球」が中心だ。研ぎ澄まされた観察眼で投手と対峙(たいじ)する。これがぎりぎりまでの見極めにつながる。

 3点差をひっくり返した準々決勝の聖光学院(福島)戦で放った3安打がことごとく得点に絡んだ5番の銘苅圭介は「選抜のころより、よりボールを引き付けられるようになった」と語った。変化球の見極めで打者優位な状況がつくり出される。

 決勝での左中間最深部への3点本塁打を含め、今大会25打数12安打で打率4割8分と打ちまくった3番我如古盛次も「思いっきり振る意識でやっている」「調子が良ければだいたいのピッチャーは打てる」との自信の裏付けがあった。

 徹底した逆方向へのバッティングとともに、我喜屋監督の「ストライクは通すな」の教えに基づく積極性も目についた。

 今大会の83安打のうち、初球打ちは24本で、3球目まででは、実に全体の7割超の61本になる。

 県大会の不調を脱し、11安打を放った2番の慶田城開の場合、5本が1球目だった。「狙い球は絞らない。ストライクは初球からいく」

 我喜屋監督は語っていた。「変化に対応するのが野球。甲子園にはいろんないいピッチャーがいる。いかに準備するか。ここ(甲子園)に来てからやるのでは話にならない」。沖縄から甲子園に発つまでに、誰がどこに何をどう投げようと、反応できる体と心の備えができていたのだ。

 プロ注目の右腕・一二三慎太を擁する東海大相模(神奈川)との一戦で記録した19安打と12点差は、それぞれ決勝戦での大会史上3番目の数字。反応バッティングの集大成となった試合だった。

 

[興南 結実の夏・全国高校野球選手権 初V](1)攻守盤石 別次元
「反応打撃」敵なし ─どこが相手でも5点は取れる
 2010年8月23日 09時23分      沖縄タイムス

 15日間にわたり熱戦を繰り広げた第92回全国高校野球選手権大会は、興南が「別世界」ともいえるような突出した強さで、史上6校目の春夏連覇を成し遂げ、幕を閉じた。県勢としては夏の大会初制覇。投攻守で、すきのない野球は圧巻の完成度を誇り、沖縄野球史に金字塔を打ち立てた。

 圧倒的な勝ちっぷりだった。1試合平均8点超の打線。エースの島袋洋奨を柱に、チーム防御率は1・83。失策は6試合でわずかに4と、すべてにおいてハイレベルな野球を見せた。

■脅威の打

 今大会、見るものをうならせた打撃は、選抜からさらに進化を遂げた。

 球種やコースの的を絞らずきた球を打つ「反応打撃」の完成度は高く、元報徳学園の監督で高校野球に詳しい福島敦彦氏は「どこが相手でも5点以上は取れる」と舌を巻いた。

 その実力をいきなり見せつけたのが1回戦の鳴門(徳島)戦。毎回の15安打で大量9点を奪った。続く明徳義塾(高知)戦も先発全員の13安打8得点と打ちまくった。春夏合わせ初戦20連勝の明徳義塾の馬淵史郎監督を「あれだけ打たれると厳しい」と脱帽させた。

 準々決勝の聖光学院(福島)戦は3点差を、準決勝の報徳学園(兵庫)戦は5点差をひっくり返し、投手を強力に援護した。

 特に報徳戦は我喜屋優監督が「がけっぷちに落とされたような気持ちだった」という状況から、選手が自力ではい上がった。

 決勝はまさに興南の打撃ショー。東海大相模(神奈川)の好投手、一二三慎太を打ち崩し、2投手から今大会2度目となる先発全員の19安打13得点で、一気に深紅の大旗をもぎとった。

 先制打の伊禮伸也は「きた球をしっかり振ろうと打席に入った」と大舞台でも、反応打撃を貫いた。

 今大会、チームは6試合で83安打をマーク。智弁和歌山の大会記録100本(2000年)に迫る本数を量産。本塁打も3本放つなど、力強いスイングが目立った。

■安定の投

 4季連続のマウンドとなったエース島袋洋奨は、やはり安定感が抜群。制球が乱れ得点圏に走者を背負うも、「試合をつくる」の言葉通り、勝負どころでは自慢の直球がうなり、打者をねじふせた。

 対戦相手が研究してくる中、決勝では変化球を主体に打ち取る、新しい投球スタイルも披露し、最後まで成長の跡を見せた。島袋は「最後の最後で理想の投球ができた」。

 島袋の今大会の防御率は1・94。51イニングで53三振を奪う貫禄(かんろく)の投球。相手の弱点を見つけ、徹底的に攻める女房役の山川大輔の好リードも光った。

 東海大相模の門馬敬治監督は「島袋もそう簡単には崩れないが、山川のリードがうまい」と、バッテリーの巧みさに目を見張った。

■堅実な守

 守っては6試合で失策はわずかに4。3試合を無失策で切り抜けた。好判断のもとに生まれる併殺や中継プレーには、スタンドから感嘆の声が漏れた。

 我如古盛次主将は「守りがいいから打線も活気づく」と、攻守にリズムをもたらした。

■卓越の走

 走塁も卓越。ずばぬけた俊足選手はいないが、盗塁、ヒットエンドランを巧みに駆使。塁上をにぎわせ、じわりと攻め立てる野球は洗練されていた。

 捕手のタッチをかいくぐるスライディングも鍛えられており、我喜屋監督は「アウト、セーフの攻防は50センチの判断で決まる」と、瞬時の判断力も備わっていた。

 投攻守走、すべてに洗練されていた興南野球。福島氏は「高校レベルの一つ上をいっている」と称賛。

 首里が1958年に初出場してから52年。沖縄野球が全国トップに到達した。


【なにわコラム】優勝の影にいた人たち
2010.8.24 10:17サンケイスポーツ
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 夏の甲子園は興南が強さを見せつけて、史上6校目の春夏連覇を達成した。沖縄初の栄冠は、高校野球に新たな歴史を刻んだと思う。

 決勝戦ではアルプス取材に奔走した自分にとって、試合以上に印象的だったのは沖縄独特の応援だ。各々が鳴らす指笛に、話題となった「ハイサイおじさん」は迫力十分。ゴーヤ片手にお祭り騒ぎのアルプスを見ると、聖地が沖縄一色に包まれていた。

 高校野球では応援でブラスバンドは必須。でも意外とチョイスされる楽曲は少ない気がする。定番となった曲が多いのだ。それぞれ県特産の農産物を片手に応援する姿も多く見受けられたが、そんな中でもやはりこの沖縄の民謡のようなリズムは際だっていたように思う。

 選手たちにもこの応援は届いていたようで、「やっぱりハイサイが一番ですね」という選手もいた。こういった聞き慣れた音楽を耳にしながら戦うことで、普段通りにリラックスできていたのかな、とも思った。

 春は勝てても、夏には弱かったことを我喜屋監督は、温暖な気候のため冬場から練習ができ、春から夏にかけての伸びしろが少ない、と分析していたという。そのため今大会前には、これまで技術練習が多くなっていた時期に、素振り1000回やバーベルを担いでのスクワットなどの基礎トレーニングをみっちりおこなってきたという。

 確かに興南の選手は精神的にも肉体的にも、他校の選手と比べても圧倒的にたくましく見えた。そんな快挙を目にできたことを素直にうれしく思う。


■ 応援、力に…興南高・我喜屋監督が白老町民に感謝
【2010年8月24日(火)朝刊】 室蘭民報

 夏の甲子園で優勝、春夏連覇を達成した沖縄・興南高校。沖縄凱旋から一夜明けた23日、我喜屋優監督から白老町民や勤務していた北昭興業に感謝のメッセージが多数寄せられている。白老町では、我喜屋監督を再び白老へ招く動きもあり、連覇の祝賀ムードに包まれている。

 21日の決勝当日、白老町北吉原町の北昭興業(佐野昌源社長)では社員、町民らが大型テレビを囲み、興南ナインへ大声援を送った。試合は中盤で大量点を奪った興南が優位に試合を進める展開だが、社内は一投一打に大歓声が上がり、優勝の瞬間は「バンザイ」の大合唱。

 大昭和、ヴィガしらおい時代から我喜屋監督と苦楽をともにした佐野社長も「彼はここに勤務中も野球のことで勉強を続けてきた。連覇は信じていたし、自分のことのようにうれしい瞬間だ」と25年間の在籍を思い起こしながら目を細めた。 

 今後の対応について、同社では「我喜屋監督は、日米親善野球の監督にも選ばれ、国体などで日程がいっぱい。秋くらいに白老に来てもらえるよう今後本人とも相談したい」と話している。佐野社長も「決勝直後に本人から電話で優勝報告をもらった。まずはお祝い金という形で優勝を祝福したい。落ち着いたらゆっくり話したいが、今は何をするにも大変でしょう」と気遣った。

 室蘭民報社の取材に対し、我喜屋監督は「北昭興業に社員や町民が集まって応援したことも聞いていました。お世話になった佐野社長をはじめ、町民の方には感謝の気持ちでいっぱいです」と述べた。さらに「6月の北海道遠征で北海道のみなさんにも連覇を誓いましたが、実現できてうれしい。北からの興南の大声援は力になった」と話している。
(高橋昭博)

なんくるないさ精神排除 我喜屋監督「高校野球の監督は畑仕事」
 
 沖縄に初めて深紅の大優勝旗をもたらした興南の我喜屋(がきや)優監督(60)。07年4月の就任後、わずか3年あまりで史上6校目となる春夏連覇の快挙を達成した。自身、現役時代に甲子園4強、都市対抗優勝など輝かしい球歴を持つ同監督。北海道での社会人野球時代、そして母校に戻って高校球児の指導にあたるその信念とは。全国4028校の頂点に立った名将の素顔に迫った。

 就任3年目で春夏連覇を成し遂げた我喜屋監督。その名将は少年時代、金網越しに米軍隊員がキャッチボールをしていたのを見て野球を始めた。ただ、入学した中学に野球部はなく陸上部に入部。棒高跳びを始めた。その棒高跳びで沖縄の新記録をつくったことが目に留まり興南に誘われた。

 「でも1人で棒を持って走るよりも、甲子園という大きな場所を目指す方がいいなと思って野球部に入れてもらった。途中入部だし、一生、球拾いで終わると思って球拾いとか洗濯とか、人の嫌がることばかりやってました

 1年夏に興南が甲子園初出場。「あいつは雑用を文句も言わないでやっているから」と雑用係で甲子園に帯同した。パスポートを手に船で19時間、寝台列車で18時間かけてたどりついた甲子園で衝撃を受けた。「ここで王さんや長嶋さんがやってるんだ。今度は自分たちの力で来たい」。球拾い覚悟で入部した元陸上部員は、2年後に主将として甲子園に戻りベスト4にまで進出した。

 卒業後は大昭和製紙富士を経て3年後に大昭和製紙北海道へ。72年1月10日だった。「千歳空港に降りたときはマイナス12度。絶対に人の住む所じゃないと思った」。それでも暮らしていくうちに北海道の魅力も見えてきた。「雪の下で耐えているのは生命力が強い。北海道の野球が人生に見えてきた。半年間の冬が源になる

 選手として都市対抗で北海道勢として初優勝。89年には監督に就任して4年連続で都市対抗に出場した。その後、クラブチームを率いていた際、駒大苫小牧・香田前監督から相談を受けた。「冬の練習の仕方が分からないと相談されたので、外でやれと言ったんです。雪がありますと言うから北海道弁で“取ればいいべや”と」。北海道のチームは、冬になると当然のように室内練習場にこもったが「それだと筋力は上がっても技術が上がらない」。以来駒大苫小牧は冬でも雪を踏み固めて雪上ノックを実施。04、05年と夏の甲子園連覇につなげた。同校の躍進は「高校野球の監督は絶対にやらないと決めていた」という我喜屋監督の中に「高校野球も悪くないな」と思わせた。

 そして06年夏。早実と駒大苫小牧による決勝再試合後に、母校からの監督就任要請。「実は北海道に永住しようと思って家も買っていた」。しかし、沖縄の高校球界を引っ張ってきたはずの母校は83年以来、23年も甲子園から遠ざかっていた。立ち上がらないわけにはいかなかった。

 最初に手がけたのは沖縄特有の「なんくるないさ(何とかなるさ)」精神の排除だった。整理整頓や時間厳守。「小さいことができない人は大きいこともできない」と生活面を厳しく指導した。生活面がしっかりしてくるとサインミスやボーンヘッドが減るなど、選手はみるみるうちに変わっていった。「高校野球の監督は畑仕事みたいなもの。毎日、水をやり光を当てれば育っていく」。センバツを制してからは連覇へのプレッシャーとも戦った。指揮官は選手に「大きな目標をつかむよりも、ちょっとジャンプすれば手が届く努力を毎日しよう」と言い聞かせた。そうすることで個々のレベルアップに目を向かせた。

 指導者として絶対にしないと決めていることがある。「社会人の頃から1度も手を出したことはないです。口で言えば分かる。チームづくりは言葉ですべきです」。すべての言葉に意味があり、決してブレない。我喜屋監督の信念は、沖縄に大輪の花を咲かせた。

 ◆我喜屋 優(がきや・まさる)1950年(昭25)6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれの60歳。興南の主将として68年夏の甲子園で4強進出。卒業後は大昭和製紙富士に入社して野球を続け、72年に大昭和製紙北海道に移籍。74年都市対抗で優勝した。89年に大昭和製紙北海道監督に就任。93年の同チーム休部後、94年からクラブチームのヴィガしらおいを率いた。07年から興南監督に就任。今年7月には同校理事長に就任。家族は万里夫人と2女。

 [ 2010年08月24日 09:02 ] スポニチ

 

監督!勉強になりました!