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岡部元信

2016-09-14 21:22:26 | 日記
岡部元信は、今川家の姜維とも呼ばれた戦国武将である。駿河の有力な土豪、岡部氏の出身で、岡部氏は東海道の岡部宿に、その名を今も残している。父親の親綱は、今川家の家臣で、奏者という役職に就いていた。奏者というのは、病弱な主君に替わり、家臣の意見を聞き、床に臥している主人に伝え、主人の下命を家臣に伝えるという、家臣団の中でも最上位に位置している役職だった。落魄して都から逃れて来て、今川家に寄食している没落貴族からの苦情を受け付ける窓口ともなっていた。親綱の転機は、花倉の乱と呼ばれている事件だった。花倉の乱というのは、今川家の当主、氏親と弟の彦五郎が同じ日に死ぬという事件を発端とした、今川家の家臣である土豪、福島越前守の主家に対する反乱だった。越前守が、居城の花倉城で挙兵したので、花倉の乱と呼ばれている。この時、越前守が勝利していれば、花倉の変と呼ばれたことだろう。氏親と彦五郎が死ぬと、母親の寿桂尼が、今川家の政務を執り行い、出家していた自分の息子、今川義元を還俗させて、当主にしようとしたのだが、これに対して異議を唱えたのが福島越前守だった。彼は義元よりも、年長の自分の娘が産んだ玄広恵探を、今川家の当主に押し立てようと画策した。こうした対立の勝敗を決するのは、親綱のように有力な家臣である土豪たちが、どちら側に着くかという帰趨に他ならなかった。この時、隣国の北条氏や武田氏を説得して、義元側に着かせたのが、義元の教育係として側に着いていた太原雪斎である。雪斎の活躍により、大勢は義元側に決した。こうして勝利を得た義元に対して、親綱が人質として差し出したのが、長男の貞綱(與惣兵衛、~1566)が跡継だったため、次男の元信だった。元信は同じく人質であった孕石主水(はらみいしもんど)や、後には徳川家康らが軒を並べる一画に、屋敷を与えられて暮らした。元信の才能を見出したのは太原雪斎だった。雪斎は元信を武将として育成して、自分が死んだ後も今川家を盛り立てさせようと考えた。元信が頭角を現すのは、尾張の織田信秀との戦いである小豆坂の戦いの折りだった。劣勢に立たされた実戦の総大将である太原雪斎は、元信に手勢を預けて、敵の腹背を突かせた。この時、元信は筋馬の鎧と猪の前立て(兜飾り)という出で立ちで颯爽と姿を現し、軍配を振るったという。これを見た三河勢が奮戦して、最終的に今川軍は勝利した。この軍功を契機として、安祥城の攻防でも活躍し、信長との戦である赤塚の戦いの折りには、雪斎の命令で元信は笠寺に詰めていた。山口親子が粛清された後には、元信は鳴海城の城将となる。そして桶狭間の合戦の折りには、信長方の善照寺の偽兵を見抜き、鳴海表の合戦で千秋季忠と佐々政次を討ち取るのだが、義元は討ち取られてしまった。その後、元信は鳴海城に籠城するが、信長から義元の首と交換に城を退去するように勧告され、駿河へと帰ることになった。その途中、織田方の刈谷城を攻めて、水野信近を討ち取ったという。駿府に戻ると、義元の息子、氏真に仕えることになる。武田信玄が家康と結んで、今川の領内へと攻め込んで来た時には、氏真に従って、父親の親綱と共に、朝比奈泰朝の掛川城へと向かい、籠城軍に加わった。掛川城の今川方は、家康の軍勢の攻撃に合い、たまらず氏真は降服して開城してしまう。その後、氏真は相模の北条氏を頼ることになるが、これにも元信は親子で同行した。永祿十二年には、その父、親綱が死去した。その後、氏康が死ぬと、北条氏は氏政の代となり、氏政は武田氏と協調路線を取ったため、氏真は北条氏から離れ、家康のもとへと向かうことになる。しかし元信は、家康のもとへと向かうのを潔しとはしなかったため、氏真とは別れて、相模の地で仏門に入り、和泉守入道を名乗った。再び、元信が武士に戻ったのは、信玄が信長、家康の連合国と手切れとなり、将軍の義昭と結んで、三河へと攻め込むことが決まった時だった。信玄は三方原で、家康に大勝しながらも、その生涯を野田城で終える。その後も元信は信長、家康と敵対する武田氏に仕えて、勝頼の下で小山城を任されることになった。その後、長篠の戦いで勝頼が大敗すると、今度は前線の高天神城を任されることになった。やがて、武田氏劣勢のうちに、援助の物資の道も途絶え、元信は反間の計を用いることに決し、家康に投降の書状を送る。家康は、これを喜び、信長に同意を求めたのだが、それを信長は許さず、家康も仕方なく元信を投降させることを断念した。そうこうしている間にも、高天神城は城内の備蓄米も底を突き、元信は遂に城から討って出ることを決意する。天正九年、三月二十二日の夜半になって、元信は高天神城から家康の陣へと討って出た。元信は、横田甚五郎(猛将、原虎胤の孫)、相木市兵衛らと共に、四百人の手勢で、林ケ谷の敵陣へと切り込んだ。この持ち場を守っていた家康方の武将は、大久保忠世で、元信は敵を次から次へと薙ぎ倒し、忠世の弟、大久保彦左衛門と組打ちになったが、彦左衛門が危ないと見て取ると、味方の本田主水が助太刀をして来たので、元信は遂に力尽き、主水に「この首、そなたに渡そう」と告げて、討ち取られたという。次の日、主水が元信の首を提げて、首実検をしたところ、忠世の同心になっていた元今川方の鵜殿長照の子、氏長がいて、元信のことを見知っていたので、「これは敵の御大将の首だ」と教えた。家康は今川家にいた頃の同僚の首を差し出されると、手を合わせて拝んだという。

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