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相楽総三

2016-09-15 14:49:04 | 日記
赤報隊事件で有名な相楽総三(さがらそうぞう)は、22歳(文久元年)の時に、父親の小島兵馬(へいま)から五千両を借りて旅に出たのだが、この金は桃井(もものい)可堂の挙兵計画に出資されたといわれている。しかし、この当時、可堂の計画は影も形もなかった。唯一、存在していたのは大橋訥庵(とつあん)の挙兵計画だった。訥庵は倒幕派ではなく、改革派だったのだが、門下に強硬な倒幕派が混じっていて、訥庵に挙兵を懇請していた。その小高長七郎と多賀谷勇両名の気迫に圧されて、訥庵は人数が集まれば挙兵しよう、という言質を取られてしまったのだ。この時、小高長七郎は江戸にも出向いたということだから、その同士募集のアンテナに、相楽総三は引っ掛かった可能性がある。また、この時の旅に総三と同行していた金井之恭(ゆきやす)は、桃井可堂の門人だったのだから、そのルートから訥庵の挙兵計画を知った可能性もある。この時、総三は当時、既に成立していた国学ネットワークを最大限に利用して、信濃、秋田と精力的に同士募集のため動き回った。しかし訥庵は結局、この計画を充分な人数が集まらなかった、という理由で却下した。多賀谷などは、面前で泣きわめいて訥庵に翻意を懇請したという。この頃、可堂は備前庭瀬藩板倉家の儒臣として召し抱えられており、江戸にいて、身動きが取れなかった。ただ、彼の息子が訥庵の門人となっており、挙兵の計画は知っていたはずだ。可堂は息子の動静を心配して、江戸で息子の八郎(畳山)と旗本(菊池というので訥庵の兄、菊池教中であったかもしれないが、当然、教中は商人であって旗本ではない)を交えて会合しているのだが、訥庵に同心するという可能性はあったとしても、自身の挙兵計画などは毛頭、考えてはいなかったはずだ。(「桃井可堂」山口平八氏著)従って総三の当初の借金の目的が、最終的に転用されたのだとしても、可堂の挙兵計画への出資ではなかった、ということは明らかなことになる。
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