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The Curry Rice

30年ぶりに再結成した堂々の親父バンド。
紅白出演を目指します。

ザ・カレーライスの歴史02

2010-04-07 14:26:44 | 日記
中学2年になり、ギターもコードびきなら何曲かできるようになってきたころです。
中学2年の春です。クラス替え間もない席順はあいうえお順に並んでいました。
カレーライスは、関と中山の二人でしたが、カーペンターズからビートルズを目指し始めた私たちは、二人という編成から4人に増員することにしました。当時は楽器ができるできないは関係なく、一緒にバカをやってくれる仲間という感じのノリです。
関は、自分の前の席にいる柴崎に声をかけ、中山は、前の席の中西に声を掛けました。
出席番号の自分の直前の奴ということです。彼ら二人はカレーライスが何するものとも解らず、「いいよ。やるよ」とメンバーに加入することになりました。
柴崎はギターを買うことを決意。関は、箱ドラムだったので、中西のんべは「じゃぁ、のんべベースね」とベースというものもわからないうちにベースに決定させられていたのでした。いいかげんな決定でしたが、のんべはベースよりドラムがやりたかったらしく、大学に入ってからドラムになり、現在までドラムを続けているというわけで、当時無理やりベースにしてごめんね。
でも、素人ではじめたベースも高校になってからは結構うまくなっていて、いいベーシストだったんですけどね。というわけで、中2のはじめで中西のんべの加入となりました。

つづく

ザ・カレーライスの歴史01

2010-04-06 14:14:37 | 日記
バンドの結成当時のことを思い出しながら歴史を書いていこうということになり、思い出しながら書いてみます。
中学1年の夏休み頃だったかな。中山が小学校の頃の同級生だった野口孝一郎氏の家に遊びに行ったのです。すると小学校卒業して数ヶ月の間に野口氏は、ギターが弾けるようになっていて、しかもオリジナル曲を作り私に聞かせてくれました。やはり小学生の頃の同級生だった佐藤ナオユキ氏と「ピッポス」というフォークバンドを作った。とのこと。
これに刺激を受けて、家にうずもれていた叔父の使っていたギターをひっぱり出し、中山はギターを始めました。当時仲良くしていた関氏に声をかけ、そしてもう一人小岩氏に声をかけ、カレーライスの前身NSKが結成されました。ギターがあまり弾けなくてもバンドはオリジナル曲がないといけないと思い込んでいた私たちは、ギターが弾けないのに曲を作ったのです。それが「青い空」。単音で音を探しながら、なんとかめちゃくちゃな譜面に書き留めてなんとか覚えるという無謀さです。
たしか、1973年11月4日がカレーライスの誕生記念の日です。当時珍しく書いていた日記にありました。11月頃になると中山はギターのコードをいくつか覚えて弾けるようになっていました。ちょっと出遅れた関は、音程のないドラムをやると言い出し、箱ドラムと称していろいろな空き箱を並べて叩き始めました。早々と楽器を諦めた小岩は、録音技術員となることを宣言し、とりあえずカレーライスは関と中山で結成され、録音技術員として小岩が就任することになったのでした。NSKはそのままNSK放送と称して、カレーライスの曲を専属で放送する放送局となったのでした。ただし、放送できる範囲は、ワイヤレスマイクの届く半径30メートルという誰も聞いてないことはお構いなしの活動でありました。
主な活動としては、放課後の掃除の時に箒をギターに見立ててオリジナル曲を歌うというただのバカ集団であった。
当時の歌は「青い空」というフォーク調の結構まじめな曲。と「ピラキのテーマ」という自然とともに暮らすピラキ族の騒ぎを表現した前衛的な曲。「あーの歌」という交通戦争で死んでしまうあっけない人生を歌った歌。「この世は地獄」という社会風刺的な歌など、今思うと面白い着眼点での歌が数多くあった。
ここら辺が、中学1年の時の活動になるかな。
思い出すとワクワクするような楽しい毎日であったのは間違いない。



レコーディング

2010-04-05 14:33:47 | CD
3日土曜日は、レコーディングリハでした。3曲なんとか録音できました。
昼間は花見だったので、少し酔いをさまして行ったけど、ベースは間違いが多いなあ。
とりあえず、ドラムどりなので、ベースはあとで差し替えます。
それと、ユーチューブに曲を紹介していこうということになり、アルバム曲10曲は登録しました。でも、ユーチューブは音が悪いです。


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