2015年1月に、恩師の玉垣良三先生が亡くなった。その追悼文を書く参考に、平成7年に出された玉垣先生の京都大学定年退官記念集録を見返していた。玉垣先生の事については後日ここにも書こうと思うが、今日は(海の日で暑くて外に出ないで籠っていることもあり)、その中に集録されている田中一氏の文章の一部を採録しておこうと思う。北大で新入生歓迎講演会で話された内容とのこと。以下で出てくる「原則的」とは、ものごとの表層にとらわれず、根本にもどって論理的に考えるということであって、決して何かの原則にしがみつくという意味でないことは言うまでもない。科学者は、自然との対峙のなかで、文字通り自然にこの考え方を会得していくが、ひとたび科学の問題を離れると、科学者でさえ、やむを得ないことと正しいことの区別が曖昧になってしまうことを最近強く感じる。
以下、引用。
(前半略)
”確かに、幸いなことに現在では多くの人々の生活水準が高くなって、何とかすれば大学に自分の子供を送るだけの財政的な条件が整うようになりました。そうすると、皆さんはそれぞれ大学を志望します。その結果、入学試験が極めて熾烈になる。その入学試験を勝ち抜くためには、とにかく、何でもかんでも頭に詰め込まなくちゃなりません。それはもうやむを得ぬことで、やむを得ぬことではないかと皆さんは思われるでしょう。それは私もよく理解できます。それでは皆さんの間違えはどこにあるのでしょうか。それはやむを得ないことはすなわち正しいことである、やむを得ないことと正当なこととを等置する、そういう考え方についなってしまうところに間違いがあるのです。やむを得ないことは、やむを得ないことです。しかし、それが正しくないこと、正当性をもたないという事も、また、その通りのことです。この両者を同じくするところが問題なのです。
今まで歴史学の書をひもといてみれば分かるように、永久に栄えた国などありません。どのような国も、栄えた後に滅びていく。その滅びて行く過程の中で、その国の賢者たちは、そのone step, one stepを、これはやむを得ない、これはやむを得ないとつぶやきながら、ついに国が滅びるのもやむを得ないと思ってしまったのではないか。やむを得ないということと、正しいということとは、同じイコールで結ぶべきものではないでしょう。そういう話をしたんです。
この話は随分うけまして、大変多くの心からなる拍手が話の終わったあとで起こりました。心からなる拍手であることなんて、どうして分かるんでしょうか。それは分かる方法があるのです。私も、「あっ、これでこの話は終わった。ようやく終わった、よかった。」と思うときは、拍手はいたしますけれども、指先が曲がっています。曲がった拍手をちょんとします。しかしながら、「あーよかった。」と思う時はピーンと指先をのばして拍手をしています。だからといって、私の話の終わった後、指をまっすぐにして拍手して下さいとは決して注文しているわけではありません。念のため申し上げておきます。
成熟社会というものは、一つの特徴をもっております。それはやむを得ないことを正しい事とつい錯覚するところにあります。原則的ということは、そのようなやむを得ないことと正しいことを区別すること、そういう態度だと思います。成熟社会である現代社会は、やむを得ないことと正しいことを等置する考え方を必然的に生むと同時に、そのような考え方、姿勢に対して警鐘を発する、そういう立場が出て参ります。玉垣君の全活動を貫いてにじみでてくるその特徴は、このような意味で、現代社会、現代の成熟した社会の中で、大きな意味をもつ40年であったという風に思います。”
(後半略)
以下、引用。
(前半略)
”確かに、幸いなことに現在では多くの人々の生活水準が高くなって、何とかすれば大学に自分の子供を送るだけの財政的な条件が整うようになりました。そうすると、皆さんはそれぞれ大学を志望します。その結果、入学試験が極めて熾烈になる。その入学試験を勝ち抜くためには、とにかく、何でもかんでも頭に詰め込まなくちゃなりません。それはもうやむを得ぬことで、やむを得ぬことではないかと皆さんは思われるでしょう。それは私もよく理解できます。それでは皆さんの間違えはどこにあるのでしょうか。それはやむを得ないことはすなわち正しいことである、やむを得ないことと正当なこととを等置する、そういう考え方についなってしまうところに間違いがあるのです。やむを得ないことは、やむを得ないことです。しかし、それが正しくないこと、正当性をもたないという事も、また、その通りのことです。この両者を同じくするところが問題なのです。
今まで歴史学の書をひもといてみれば分かるように、永久に栄えた国などありません。どのような国も、栄えた後に滅びていく。その滅びて行く過程の中で、その国の賢者たちは、そのone step, one stepを、これはやむを得ない、これはやむを得ないとつぶやきながら、ついに国が滅びるのもやむを得ないと思ってしまったのではないか。やむを得ないということと、正しいということとは、同じイコールで結ぶべきものではないでしょう。そういう話をしたんです。
この話は随分うけまして、大変多くの心からなる拍手が話の終わったあとで起こりました。心からなる拍手であることなんて、どうして分かるんでしょうか。それは分かる方法があるのです。私も、「あっ、これでこの話は終わった。ようやく終わった、よかった。」と思うときは、拍手はいたしますけれども、指先が曲がっています。曲がった拍手をちょんとします。しかしながら、「あーよかった。」と思う時はピーンと指先をのばして拍手をしています。だからといって、私の話の終わった後、指をまっすぐにして拍手して下さいとは決して注文しているわけではありません。念のため申し上げておきます。
成熟社会というものは、一つの特徴をもっております。それはやむを得ないことを正しい事とつい錯覚するところにあります。原則的ということは、そのようなやむを得ないことと正しいことを区別すること、そういう態度だと思います。成熟社会である現代社会は、やむを得ないことと正しいことを等置する考え方を必然的に生むと同時に、そのような考え方、姿勢に対して警鐘を発する、そういう立場が出て参ります。玉垣君の全活動を貫いてにじみでてくるその特徴は、このような意味で、現代社会、現代の成熟した社会の中で、大きな意味をもつ40年であったという風に思います。”
(後半略)