晴"考"雨読

日々の雑感

自然科学者はバッター?

2017-04-28 08:55:28 | Weblog
自然科学の研究者は野球のバッターに思える。自然というピッチャーが投げてくる豪速球や変化球を打ち返そうとあがく。時には空振り、時にはファウル、時にはボテボテのゴロでアウト、そして時にはクリーンヒットで次の打者に繋げる。ここぞという時の犠牲打でランナーをホームに迎え入れる。ヒットやホームランを狙う個人プレーでありながら、最終目的はランナーをホームに迎え入れる(自然の一端を理解する)という意味ではチームプレー。

山口嘉夫先生のこと

2016-08-21 09:39:07 | Weblog
山口嘉夫先生(以下では親しみを込めてYYさん)が、8月12日にお亡くなりになった。90歳であった。戦後すぐに大阪市立大学に赴任した理論物理学の巨人たち(南部陽一郎、早川幸男、中野董夫、西島和彦、山口嘉夫)が全てお亡くなりになってしまった。私のYYさんの記憶は、YYさんが東大原子核研究所の所長(1983-1985)時代のものが主である。研究会でも学会でも、いつも大きな声で質問+愛のこもった叱咤激励をされていたことが今でもありありと目に浮かぶ。ちょうど今の私と同じくらいの年齢であったと思うと自分の青くささに愕然とする。

  1987年2月に超新星1987Aが起こり、KEKの研究員であった私も、この一大イベントに触発されて、当時KEKにおられた吉村太彦さんや林青司さんと論文をいくつか書いた。その年の5月ごろだったか、田無にあった東大核研にセミナーに呼んでいただいて、入り口を入ってすぐ左のプレハブの1階にあったセミナー室で、超新星爆発のレビュー+自分の仕事(吉村さんと行った原始中性子星からのAxion放出の計算)を話した。YYさんは、すでに、核研を離れて東海大学に移っておられたはずだが、そのセミナーに来られて、スライド1枚ごとに質問をして頂いたことを覚えている。前半のレビュー部分でYYさんから多くの質問が出て、それに丁寧に答えていたら、2時間以上のセミナーになってしまったと記憶している。意気込んでたくさんのスライド(まだ手書きで書いていた)を用意して行って、今でもそれはダンボール箱のどこかに入っている。

  YYさんは、純粋な学問的興味からの質問だけでなく、教育的配慮からのコメント(ちゃんと準備してきているのか、相手にわかるように喋るつもりはあるのか)をしばしばされていた。海外だと、ノーベル賞級の偉い先生でも、講演やセミナーは入念に準備して聴衆にわかってもらうようにするのに、どうして日本人の講演者はこんなに準備怠慢なのかということを歯がゆく思っておられたという気がする。この点は、今ではだいぶ改善され、素晴らしい講演をする方々が増えてきたが、それでも準備不足を感じることがある。もちろん、良い仕事をすることが一番重要だが、せっかくの良い仕事をうまく伝えられなかったら本当にもったいない。YYさんはいつも口に出して講演者に向かってそのことを指摘されていた。敢えて本人に指摘ぜず口をつぐんでしまう自分を恥ずかしく思う。最後にYYさんにお会いしたのは、理研においてあるご自分の未整理資料のことで数年前に来られた時で、理研の研究本館の4階のお茶部屋で少しお話しした。ニコニコとして、昔のCERNでの出来事などを話されていたことが思い出される。研究会での質問などを聞いていると大変厳しい方の感じがするが、若い人のこと、日本の物理の将来のこと、などをいつも真面目に考えて下さっていたのだと思う。ご冥福をお祈りします。

やむを得ない事と正しい事

2015-07-20 11:57:14 | Weblog
2015年1月に、恩師の玉垣良三先生が亡くなった。その追悼文を書く参考に、平成7年に出された玉垣先生の京都大学定年退官記念集録を見返していた。玉垣先生の事については後日ここにも書こうと思うが、今日は(海の日で暑くて外に出ないで籠っていることもあり)、その中に集録されている田中一氏の文章の一部を採録しておこうと思う。北大で新入生歓迎講演会で話された内容とのこと。以下で出てくる「原則的」とは、ものごとの表層にとらわれず、根本にもどって論理的に考えるということであって、決して何かの原則にしがみつくという意味でないことは言うまでもない。科学者は、自然との対峙のなかで、文字通り自然にこの考え方を会得していくが、ひとたび科学の問題を離れると、科学者でさえ、やむを得ないことと正しいことの区別が曖昧になってしまうことを最近強く感じる。


以下、引用。

(前半略)

”確かに、幸いなことに現在では多くの人々の生活水準が高くなって、何とかすれば大学に自分の子供を送るだけの財政的な条件が整うようになりました。そうすると、皆さんはそれぞれ大学を志望します。その結果、入学試験が極めて熾烈になる。その入学試験を勝ち抜くためには、とにかく、何でもかんでも頭に詰め込まなくちゃなりません。それはもうやむを得ぬことで、やむを得ぬことではないかと皆さんは思われるでしょう。それは私もよく理解できます。それでは皆さんの間違えはどこにあるのでしょうか。それはやむを得ないことはすなわち正しいことである、やむを得ないことと正当なこととを等置する、そういう考え方についなってしまうところに間違いがあるのです。やむを得ないことは、やむを得ないことです。しかし、それが正しくないこと、正当性をもたないという事も、また、その通りのことです。この両者を同じくするところが問題なのです。

 今まで歴史学の書をひもといてみれば分かるように、永久に栄えた国などありません。どのような国も、栄えた後に滅びていく。その滅びて行く過程の中で、その国の賢者たちは、そのone step, one stepを、これはやむを得ない、これはやむを得ないとつぶやきながら、ついに国が滅びるのもやむを得ないと思ってしまったのではないか。やむを得ないということと、正しいということとは、同じイコールで結ぶべきものではないでしょう。そういう話をしたんです。

  この話は随分うけまして、大変多くの心からなる拍手が話の終わったあとで起こりました。心からなる拍手であることなんて、どうして分かるんでしょうか。それは分かる方法があるのです。私も、「あっ、これでこの話は終わった。ようやく終わった、よかった。」と思うときは、拍手はいたしますけれども、指先が曲がっています。曲がった拍手をちょんとします。しかしながら、「あーよかった。」と思う時はピーンと指先をのばして拍手をしています。だからといって、私の話の終わった後、指をまっすぐにして拍手して下さいとは決して注文しているわけではありません。念のため申し上げておきます。

  成熟社会というものは、一つの特徴をもっております。それはやむを得ないことを正しい事とつい錯覚するところにあります。原則的ということは、そのようなやむを得ないことと正しいことを区別すること、そういう態度だと思います。成熟社会である現代社会は、やむを得ないことと正しいことを等置する考え方を必然的に生むと同時に、そのような考え方、姿勢に対して警鐘を発する、そういう立場が出て参ります。玉垣君の全活動を貫いてにじみでてくるその特徴は、このような意味で、現代社会、現代の成熟した社会の中で、大きな意味をもつ40年であったという風に思います。”

(後半略)




 




南部先生の事

2015-07-17 16:54:13 | Weblog
南部先生が2015年7月5日にお亡くなりになったというニュースを、東海村で行われていたJ-PARCのプログラム諮問委員会からの帰りの車のなかでラジオで聞きました。心からお悔やみ申し上げます。2008年のノーベル賞のニュースは、帰宅途中の車の中で聞いて躍り上がったのが思い出されます。

大学院の修士課程の2年のころに、Nambu-Jona-Lashinioの論文に出会いました。多体問題と素粒子の基本問題が結び付けられた素晴らしい内容に心から感動して、その後の自分の方向性が決まったということができます。

2008年の南部先生のノーベル賞講演(Jona-Lasinio氏が代行)と講演録で、私たちの論文が取り上げられたことは無上の喜びでした:http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/2008/nambu-slides.pdf 
また、南部先生のノーベル賞を記念する”原子核研究”特集号を企画したときは、そのまえがきを快く(しかもジョークも交えて)引き受けて下さったことも、我々には大きな喜びでした: http://www.genshikaku.jp/backnumber.php?vol=53&issue=sp3 

南部先生には、1997年につくばで行ったQuark Matter国際会議で、招待講演をお願いしたころから、折に触れお話しする機会が増えました。(すでにそのこと75歳にはなっておられたと思います。)

2000年ころに京都大学の基礎物理学研究所でお話したときのことは良く覚えています。そのときは、アメリカの大学でテニュアをとる時期に来ていた米国人研究者の仕事について、私に向って専門的に質問されてこられました。評価委員か審査委員をされていたのかもしれません。また、最近の新しい(科学の)話題はなんですか、と好奇心旺盛に聞いてこられたのも強く印象に残っています。

東京大学では、私が物理学教室の談話会委員をしていたこともあり、2000年以降、数回談話会やコロキュームをお願いしました。2000年ごろのコロキューム講演は、原子核における自発的対称性の破れを説明するために、自らパワーポイントを用いて作成された、変形した原子核がくるくる回る動画を使われるなど、遊び心と深い洞察が詰め込まれたものでした。また、2005年ごろの談話会講演では、ボース-アインシュタイン凝縮に関する自らの考察を、黒板を使って詳細に説明されたのが印象的でした。

ノーベル賞を受けられたあと、京都大学で記念シンポジュームが開催され、南部先生の前で、格子QCDからの核力導出のお話ができたことは、私にとっては大きな喜びでした。http://tkynt2.phys.s.u-tokyo.ac.jp/~hatsuda/jpg-figs/NJL-HK.jpg 核力の短距離部分については、南部先生も1950年代にいろいろ考察され、最終的にω中間子の予言を行われた経緯があります。そのあたりのコメントがあるかと思ったら、南部先生の質問は、”あなたの方法はエキゾチックなマルチクォーク系に適用可能か?”というものでした。すでに多くの研究がある核力に閉じず、常に新しいものを指向するその姿勢に関心しました。ちょうど一昨日、LHCbがcharmを含むペンタクォークを発見したというニュースが飛び込んできて、私たちの方法がまさにそこにも適用可能であることにつけても、感慨深いものがあります。

南部先生が東京大学を訪問されたときに、私や私の研究室の若手と一緒に山上会館で昼食をとりながら、昔話を聞かせて頂いたことも懐かしく覚えています。東大の理学部旧1号館(いまは取り壊されてありません)で、夜は机をいくつか寄せて寝ていたこと、晩御飯にメザシを研究室で焼いて臭かったこと、戦時中、空襲の時に鉄橋の橋げたにぶら下がって避難したこと、大阪市立大学に勤めていたときは大学にあまりいかず映画館にいりびたっていたこと、などなど。(そのころ大阪市立大学は扇町という、私の実家のすぐそばにありました。)

どういう理由だったか覚えていませんが、昔の写真を何枚か持参されて、昔の同級生(例えば、林忠四郎先生など)のお話など、小一時間もお聞きしたことを覚えています。また、ノーベル賞論文を書いた前後のこと、自発的対称性の破れの概念があらゆるところに現れることに気が付いて、一般論の論文を書こうとも思ったが、まずは具体的なモデルで示すことが重要と考え、最初にQEDのような理論を考え、その後、紫外の繰り込みの問題と赤外の話を切り離して議論するために4フェルミ相互作用の採用に落ち着いたことなどなど、いろんなお話をしてくださいました。

ノーベル賞を受賞されたあと、東京大学での紹介を書くということになり、南部先生に経歴を確認しながら書かせて頂いた記事も思い出深いです: http://www.s.u-tokyo.ac.jp/en/research/alumni/nambu/ この記事は、南部先生ご自身から、たいへん良く書けているとお褒めの言葉を頂きました。

私が直接南部先生とお話しできる機会ができたのは、南部先生がすでに75歳を越えておられてからですが、何時お会いしても、新しい物理の発展に関心を持ち、自ら手を動かして新しい挑戦をされていることが強く印象に残っています。1mmでも南部先生の境地に近づけるように、心を新たにしてこれからの人生を過ごしていきたいものです。







Gerry Brown

2013-06-08 11:10:01 | Weblog
2013年5月31日にGerald E. Brown先生が亡くなった。http://www.aip.org/history/acap/biographies/bio.jsp?browng
私の研究者としての人生に決定的な影響を与えた下さった先生であった。なにより、強靭な精神と暖かい心を兼ね備えたほんとうに魅力のある人だった。記憶が薄れないうちに、先生(以下Gerry)との出会いとその後を簡単にまとめておこうと思う。

1.1987年の春、京都大学基礎物理学研究所で行われた国際会議YKISで初めてお会いした。私は、この時、博士号をとって1年目でKEKの研究員だったが、英語がまったくしゃべれなかったので、自分の25分の講演の原稿を丸暗記し、かつ想定質問に対する答えも全部用意した上に丸暗記して臨んだ。このおかげで、講演も質疑も首尾よくこなすことができた(確かA.B.Migdal先生も質問してくれたことを覚えている。) Gerryはこの講演をを聞いて、英語もちゃんとできるし質問にも的確に答えられる”優秀な”若手と私のことを勘違いしてくれたようで、京都の国際会議のあと、彼の東大での講演のために東京に一緒に新幹線で移動する際に、しきりと話しかけてくれたのだが、なにしろ聞き取りも満足にできない(しかもGerryの英語はこもっていてわかりにくい)せいで、無口で通した。変に思われたかもしれないのだが、同行した土岐博先生がうまく話を引き取ってくれたので、シャイな若者だなという程度に勘違いしてくれていたのかもしれない。その前年に、海外のポスドクにたくさん応募していたのだが、一番行きたかったのは、自分の分野で次々と新しい潮流を作っていくGerryが率いるState Univ. of New Yark at Stony Brookの研究室だった。京都での彼の講演や人柄に触れてますますその感を強くした。

2.Gerryの帰国後ほどなく、1988年の4月からポスドクで自分の研究室に来ないかという手紙(当時は電子メール(bitnetと言っていたと思う)がまだ普及しだす前)が来た。天にも昇る気持ちだった。京都で会う前から、私の採用に興味を持ってくれていたようだが、会ってみないと安心できなかったのだと思う。丸暗記は実に功を奏したわけである。


3.1988年の4月に、私は単身米国に着いた。生まれて初めての外国である。JFKに到着後、いろいろトラブルがあってみんなに心配かけたが、なんとか夜中に大学近くの下宿(階下にミシュリンというフランス出身の大家さんが住んでいた)に着いた。翌日、食事の心配をしたGerryと奥さんのBettyが、大学近くの自宅に昼食だったかサパーだったかに呼んでくださった。いまでも忘れないのは、そのときに生まれてはじめてみたフローズンジュースだった(円筒形の紙容器に凍った濃縮ジュースが入っていて、それを溶かして薄めて飲むもので、アメリカでは普通のものだったが、日本では今でもあんまり見ない気がする)。時差ボケで朦朧としていて英語が聞きとれない喋れない上に、なんですかこの凍った物体は? という感じでフローズンジュースを眺める私に、こいつ採用して大丈夫だったかなと内心思われたかもしれない。いや、Gerryはたぶんそんなことは微塵にも思わなかっただろう。これからは、英語で夢が見れるまで日本語はいっさい使わないようにと言われた記憶がある。(これを正直に守っていたら、半年後には英語が聞き取れるようになり、夢の中の会話が英語になった。)

4.Stony Brookに到着して、次の日の夕方には、GerryとBettyにテニスに誘われた(まだ小さかった息子さんのTitusもいたと思う)。テニスラケットを背中に背負ってアメリカにやってきたので、テニスがうまいと思われたのかもしれない。それとも、汗を流させて時差ボケを早く解消させてやろうという親心だったのかもしれない(実際Gerryはそういうところにとても細やかに気が付く人であった)。Gerryは練習で打ち合うよりゲームが好きで、すぐにゲームを始めたが私の完敗であった。GerryもBettyも見上げるような長身(195cmと185cmくらいかと思う)で、そこから繰り出すサーブにはかなわなかった。

5. その週には早くもGerryのofficeで議論を始めた。rho-中間子の媒質中での振る舞いについて議論したが、なかなか英語でうまく説明できないので、翌日に詳しいノートを作って持っていったらとても喜んでくれて、コピーをとって彼の共同研究者のMannque Rho氏にもみせていた。そのノート(今でも保管している)における私の論点は、媒質中でrho-中間子の質量は変わらない、というものであった。1988年のこの議論がきっかけとなり、私はGerryのグループの大学院生だったSu Hong Lee氏とQCD和則を用いた媒質中でのrho-中間子の解析を行った。一方、GerryとMannqueは有効理論を用いた解析(Brown-Rho scalingと呼ばれる)を行った。これらの論文は、確か同じ年(1991年)にpreprintが出たと思う。Hatsuda-Lee の論文に、Gerryも共著者として入ってくれないかと誘ったが、いや若いお前たち2人でやった仕事なのだから、お前たちだけで書けと言われた記憶がある。私は、Stony Brook時代にいろんな人と共著論文を書いたが、Gerryとの共著が無いのは、今から思うと残念で仕方がない。

6. 私は1990年の3月にStony Brookを去って9月までスイスのジュネーブにあるCERNの理論部に所属し、そのあとアメリカ西海岸のシアトルにあるUniv. Washingtonで職を得た。Gerryは毎年冬(1月ー2月あたり)に、西海岸のCaltech (カリフォルニア工科大学)にHans Betheと一緒に長期滞在して超新星爆発の研究をするのが習慣になっていた。1992年の冬に、私がカルテクにセミナーに行ったおりに、Gerry Brown, Hans Bethe, Chris Adami (Gerryの学生で私と共同研究もしていた。現在はMSUの数理生物の教授)でタイ料理店へ夕食に行った。Gerryは旧知だが、伝説的な理論物理学者でノーベル賞受賞者のHans Betheと食事するのは初めてだったので、とても緊張してあんまりしゃべれなかった。この時の4人のディナーの様子は、Chris Adamiが、"Hans Bethe and his Physics"という本の中で書いてくれていて、そこに私の名前もでてくる。私の目から見たこのときのディナーの様子は、筑波大学の物理学科祭で頼まれた文章に少し書いた。GerryとHansはCaltech滞在中は一緒にアパートに住み、時々外食する以外は、Gerryが夕食当番となって料理していたようだ。(Gerryは当時60代半ば、Hansは80代半ば)。

7.1990年代後半(正確な年を忘れた)に米国で開催されたGordon ConferenceでGerryと一緒になったら、テニスラケット持ってきたかといきなり聞かれてゲームにかり出された。Stony Brookに到着した翌日に私にゲームで勝ったことが自慢で(実際、年齢差を考えれば自慢して良いと思う)、ことあるごとに言われた(時差ボケだったので、フェアーなゲームではなかったというのが私の決まった言い訳だった)。この時は、どちらが勝ったのか覚えていない。

8. 1998年に、オーストラリアのアデレード大学に家族で長期滞在したときに、GerryとBettyに久しぶりに再会した。娘はこのとき4歳で、Gerryが抱っこしてくれたのを覚えている。その食事の時の写真を昨夜BettyとTitusに送った。

9. 2008年に、オスロで行われた国際会議でGerryとひさしぶりに再会した。このときはとても元気ではつらつとしていた。足が少し悪くなってきたと言って、スキーのストック2本を持って杖代わりにしていたが、そんなの必要ないのではと思われるくらいの調子でスタスタ歩いていた。カフェテリアでの昼食の後、歩きながら議論しようと言われて二人で大学の中を歩いて会議場の控室まで戻った。このとき、2007年に発表した核力に関する私と共同研究者の研究を褒めてくれたのはとても嬉しかった。Gerryは私にとって父か祖父みたいな存在で、Gerryに褒めてもらいたいという願望が心のどこかにあるように思う(Gerryは、常に前向きに暖かく励ましてくれるが、めったに仕事を褒めることはない)。この国際会議のバンケットでGerryが皆をリードして合唱した事が鮮明に記憶に残っている(どんな歌だったか思いだせなくて残念)。このあと間もなくアクシデントに見舞われて、自宅療養を余儀なくされていたと聞いている。

10. Stony BrookのGerryの研究室の雰囲気はすばらしく、私はそれと同じことを実現しようと無意識に真似してきたように思える。自由で気楽に議論できる雰囲気、研究室メンバーがいろんな方向にどんどん研究の枠を広げていく雰囲気、などなど Gerryの研究室で学生だったり、ポスドクだったり、visitorだったりした人たちが、その雰囲気を世界中に拡げていっているように思う。Gerryの人間的な魅力、フェアーな精神、細やかな気配り、普段は表に見せないが非常に高い物理のスタンダードや厳しさ、世界中の若手研究者への温かい励まし、などなど、まだまだ見習わないといけないことがたくさんある。彼の研究室の一員であって良かったと心から思う。


Gerryとの思い出や、彼から聞いたいろんな話(GerryのYale大学での指導教員だったBreitのこと、C.N.Yangに誘われてGerryがプリンストン大学の教授職を辞してStony Brookに移った時のこと、バーミンガム大学でのPeiels, Dyson, Skyrme, Thoulessなどの同僚のこと、Norditaでのこと、などなど)まだまだあるが、とりあえずここまで。


113番元素の発見: 記者発表動画

2012-09-27 10:15:35 | Weblog
10年にわたる探索実験! 森田さん、森田チームの皆さん、理研仁科センター加速器チームの皆様、関係者の皆様、心からお喜び申し上げます! 
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=r8dbmcHugys&list=UUIGmhpdcVev1Wc0YK7FHIig

新元素 ついに理研で確定!!

2012-09-27 08:09:58 | Weblog
理研仁科センターで新元素発見

すでに新聞紙上でも流れていますが、理研仁科センターの森田浩介さんのチームが、原子番号113の新元素の決定的イベントを1か月前に発見し、これでこの元素の存在が確実となりました。

今回のイベントは6回のα崩壊すべてが見えて、既知核に到達しており、これで決まり!というものです。観測された崩壊系列は、113 -> 111(Rg) -> 109(Mt) -> 107(Bh) -> 105(Db) -> 103(Lr) -> 101(Md). さらに2004年、2005年の森田さんの2イベントとも整合しています(以前のはα崩壊の途中で自発核分裂して、行った先がわからなかった)。

森田さんの実験は、cold fusion reactionを使うもので、上記のようなきれいなイベントは、この反応方式でだけ可能、ロシアやアメリカで行われているhot fusion reactionでは、このようなきれいな崩壊チェーンは原理的に見えません。素晴らしい成果であり、かつ教科書にのるようなとても美しい実験結果です。

今年の8月12日にイベントがみつかり、9月27日に、日本物理学会の出版している欧文誌JPSJにオンライン公開されます。これで日本初の新元素の命名権が得られるのは確実と思われます。

詳細は:
http://www.facebook.com/pages/%E7%90%86%E7%A0%94%E4%BB%81%E7%A7%91%E5%8A%A0%E9%80%9F%E5%99%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/319242551420255

物理学史上、最も精密な理論計算値

2012-09-10 23:37:30 | Weblog
物理学史上、最も精密な理論計算値 -電子の磁気能率の大きさを1.3兆分の1の精度で決定- が遂に完成!
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2012/120910/detail.html

冒険する頭

2012-07-24 12:44:23 | Weblog
冒険する頭 (西村肇著)より引用 
http://jimnishimura.jp/tech_soc/cha_brain/5_2.html

だれのまねでもない問題をたてる

 メンデルの例でわかるように、学問の進歩に大きく貢献した重要な研究というのは、すべて、自分で発見した問題、自分でたてた問題を自分で解決したものです。それも、あいまいさを残さないように徹底的に解決したものです。その結果として、つぎの段階への見通しが大きく開けたのです。
 日本は科学の研究がひじょうにさかんで、研究者の数もドイヅ、イギリスを抜き、ソ連、アメリカにつぎ、世界で第三位ですが、ノーベル賞をもらう人が少ないことをみてもわかるように、日本の科学は、それほど高くは評価されていないのです。それは、メンデルのような画期的な仕事が少ないためでしょう。
 日本人は、人がだした問題を解くことはうまいのですが、自分で問題をたてることが少ないのです。研究でも、すでに外国でだれかがやったテーマをとりあげて、詳細に研究するといった例がほとんどです。もちろん外国でも、研究のほとんどはこんなものですが、それでもまったく新たな問題を提出してくる人がたえずいて、その割合が目本人より少し多いのです。
 それは簡単にいえば、日本杜会とヨーロッパ杜会の心理的な雰囲気のちがいにもとづくところが大きいように思います。日本では、あまり我をはらず、みんなと同じことをしていれば、みんなにうけ入れてもらえますが、ヨーロッパでは、自分が自分であること、つまり、なにか独白な存在であることを示さなければ、鼻もひっかけてもらえないというところがあるのです。その心理的圧力はひじょうに大きいものです。
 メンデルがいたチェコスロバキアは、ヨーロッパのまずしいいなかです。メンデルは、そこの修道院で、十数年間、うむことなく、実験と思索をつづけ、だれからも理解されることなく、孤独のうちに死んでいったと思います。
 しかしそのような孤独は、ヨーロッパ人にはごくあたりまえなことなのです。みんなそれぞれひとりで生きているのです。それだからこそ、自分が自分であることを示したいという欲求は猛烈に強いのです。メンデルも最後の最後の瞬間まで、自分の発見が生物学の最高の業績として、世界中に認められることを夢みていたと思います。
 ヨーロヅパ人のこういう心理は、同時に大きな欠点でもあります。多少のことは我慢しあってでも、一つの目的のためにみんなが仲よくやっていくということがまずないのです。人の意見に、とりあえず賛成するなどということもまずありませんから、みんなで話し合えば話し合うほど、ちがいが際立ってきて、まとまらなくなるのです。
 ですから、おおぜいの人が一緒に動くためには、力でおさえつける以外にないのです。このため、杜会の中にも階級意識が強く残っています。人はその属する階級によって、話し方、笑い方から、生活感情まで、まるでちがうのです。「人間はみな同じ」という状態からはほど遠いのです。もちろん、これにたいする反省も強く、思想の上、制度の上では、平等とか民主主義が強調されるのです、
 このように研究のあり方は、社会のあり方とふかくかかわりかあるのです。
 では、日本で独創的な研究をのばすにはどうしたらよいでしょう。原因をあきらかにした以上、長所を生かしながら、欠点をあらためる努力を徹底的に意識的におこなうことしかないでしょう。
「研究課題はかならず自分で考えだすものとし、けっして人のあと追い、外国のあと追いをしない。 あいまいさの残らない研究方法を実現し、たしかな発見があるまで徹底した研究をおこなう。
 研究の伝統のない日本でこれをおこなうには、意識的におこなう必要がある。そのためには、研究上の大事な問題を自由に討論のできる民主的な人間関係を研究室につくることが必要である」
 これは、私が、大学院の学生のころ、日本と欧米の研究を比較し、どうしたら日本でもっと独創的な研究ができるか考えて到達した結論で、このようなことを、物理学者の武谷三男先生が編集した『自然科学概論第三巻』に、自分の決意をこめて書いたものでした、それから三〇年ちかくたっていますが、その間、この考えは変わることはありませんでした。私が、化学工場やコンビナートに関するシステム工学の研究をしているあいだ、頭をはなれなかったのはこの考えでした。
 研究というとふつう、外国の研究をなぞることからはじめることが多いのですが、私たちはまず、コンビナートの計画の実際の仕事を自分たちでやってみて、その中から研究として取り組む課題をつぎつぎ引きだすようにしました。
 そのためには、研究室の中に自由に徹底的に討論する雰囲気を必要としました。そのためのある程度の努力はしました。たとえば、私を「先生」とよばずに、「西村さん」とよぶことに決めました。「先生」とよぶと、一回一〇〇円の罰金です。
 また討論といっても、緊張しっぱなしではとても長時間もちませんし、よい考えも浮かぴません。そこでたえず、じょうだんをいいあうようにしました。
 うまく思いついたじょうだんは、みんなを緊張から解放してくれるだけでなく、一挙に核心にふれますから、討論が活発になるのです。
 もちろん、自由な創造的雰囲気というのはこうしたテクニヅクだけでできるのではなく、大事なのは、おたがいに、人間として尊敬しあえるあいだがらにあることだと思っています。学生だって先生から一目おかれなければ、よい人間関係はできないと思います。
ですから私は、研究室に学生をうけ入れると、感心できるところが見つかるまでつきあうことにしているのです。

最終公演!

2012-07-01 08:35:14 | Weblog
朝永振一郎博士(1965年ノーベル物理学賞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%B0%B8%E6%8C%AF%E4%B8%80%E9%83%8E)
をモデルとした青春群像劇の「東京原子核クラブ」の最終公演7・23@和光市