手塩family”愛”

競馬伝説Live!ナドアルシバサーバで活動する馬主会メンバーのためのブログです。

漆黒の弾丸

2006年07月25日 17時52分30秒 | 倒壊名馬劇場
アメリカのベルモントパーク競馬場。そこには1頭の牝馬が眠っています。
彼女が眠りに就いてから20年以上経った今も、彼女に花を添える人が絶えることはありません…。

1972年、彼女はケンタッキー州の名門牧場、クレイボーン・ファームで母シェナニガンズ(Shenanigans)と父レヴューワー(Reviewer)の間に生まれました。
母シェナニガンズは「いたずら」という意味で、オーナーブリーダーのジャニー夫妻はそこから連想し、彼女に「じゃじゃ馬」の意味をもつラフィアン(Ruffian)という名前を付けました。

ラフィアンは牧場で体高16ハンド1インチ(165.1cm)、体重510kgという牡馬まさりの巨漢にまで成長します。
それが太く映ったのか、2歳5月、ベルモントパーク競馬場でのデビュー戦は1番人気にはなれませんでした。
しかし、レースでは彼女に人気など全く関係ありませんでした。
2着に15馬身差をつけ、他馬を一蹴して見せたのです。…しかも、1分3秒0というコースレコードタイのおまけつきで。
いつの頃からだろう、祖父ボールドルーラー(Bold Ruler)を髣髴とさせる漆黒の馬体と、他を圧倒する暴力的なまでのスピードから、「漆黒の弾丸」というニックネームが付けられました。

勢いに乗る黒き弾丸の快進撃はとどまるところを知りません。
2戦目のファッションS(G3)も緒戦と同タイム(タイレコード)で制し、続くアストリアS(G3)でも9馬身の差をつけ、またしてもコースレコードタイを記録。 
さらにソロリティS(旧G1)もレースレコードで勝ち、かつての2歳牝馬最強決定戦、スピナウェイS(旧G1)では2着に12馬身3/4もの差をつけ、レースレコードで圧倒的な勝利を飾ったのです。

デビューからわずか3ヶ月、5つのレースで2着につけた差はなんと45馬身にも及びます。
しかし、その圧倒的なスピードに彼女の脚は悲鳴をあげていたのです。
スピナウェイSの後、軽度の骨折が判明。
このため、秋は休養を余儀なくされましたが、2歳時は5戦5勝で終え、エクリプス賞(アメリカの年度代表表彰)においても、最優秀2歳牝馬に選出され、さらには年度代表馬の座まで争うという素晴らしい成績を収めたのです。

3歳になり休養を終えたラフィアンに、その圧倒的なスピードから、ケンタッキーダービーに出走させるプランが持ち上がります。
しかし、オーナーのジャニー夫妻は、この時期の3歳牝馬にとって10ハロンのレースは過酷であるという信念から、愛馬をケンタッキーダービーへ向かわせることはなく、彼女の春の目標はニューヨーク牝馬3冠に定められました。

ラフィアンは4月に戦列に復帰すると、一般戦、カムリーS(G3)をレースレコードで勝利。続くエイコーンS(G1)からニューヨーク牝馬3冠が始まりますが、同世代の牝馬で彼女のスピードについていけるものなどいるはずもなく、エイコーンSを8馬身1/4差 (レースレコード)、マザーグースSでは13馬身1/2もの差(レースレコード)で勝利。
3冠最後のCCAオークスでは、さすがに距離が長すぎたのか、着差は2馬身3/4差にとどまりましたが、2分27秒8というタイム(レースレコードタイ)で完勝。 
これは、その2週間に行われたアメリカの3冠最終戦、ベルモントSを制したアヴァタールのタイムより0.4秒も速いものでした。

この時点で10戦10勝。つけた着差はなんと83馬身にも及びます。
正に向かうところ敵無し。その圧倒的なスピードで、デビュー以来アメリカに衝撃を与え続けていたのです。

そんなある日、彼女の下にある誘いが舞い込みます。
その年のケンタキーダービー馬、牡馬最強のフーリッシュプレジャーとのマッチレースの申し込みでした。
賞金は35万ドル(約1億5000万円)で勝者が22万5000ドル、敗者が12万5000ドル。 コースは、ベルモントパーク競馬場、ダート10ハロン。
「ザ・グレート・マッチレース」と銘打たれたそのレースは全米でTV中継され、競馬場にも多くのファンが詰めかけました。(後に発表されたテレビの視聴者は推定で1300万人にも上るそうです。)

それだけ多くファンがこのレースに注目していたのです。
その先に、どれほどの衝撃的な結末が待ち受けているのかも知らずに…。

マッチレースでは先手をとった方が強いと言われています。

その点、ラフィアンは過去10戦ですべて逃げ切り勝ちを収めていました。
他馬に先頭を譲ったことがなく、さらに、両馬の主戦騎手だったハシント・ヴァスケスが、ためらうことなくラフィアンを選んだこともあり、最終的にオッズは、ラフィアンが1.4倍、フーリッシュプレジャーが1.9倍となりました。

1975年7月6日、18時10分、全米が注目する中、運命のゲートは開かれました。

ここで一つ予期せぬ出来事が起こります。
驚いたことに、フーリッシュプレジャーが先手を取ったのです。
このレースに備え、フーリッシュプレジャー陣営は密かにスタートダッシュの特訓をしていたのでした。

しかし、ラフィアンも負けてはいません。そこから徐々に追い上げ、1F11秒台の凄まじいラップを刻みながら2頭が併走する形となります。

序盤に何度か接触がありましたが、それがかえってラフィアンの闘争心に火をつけ、やがて徐々にフーリッシュプレジャーを引き離しにかかりました。
そして1マイル(1600M)標識近く、向こう正面を過ぎようとしたところに悲劇は待っていました…。

手前を変えようとしたラフィアンが突如バランスを崩したのです…。
その瞬間、どちらのジョッキーもぞっとするような音を聞きました。 
フーリッシュプレジャー鞍上のブラウリオ・バエザ騎手は後にこう語っています。

―乾いた棒が真っ二つに折れるような音がした…。忘れることなんてできないよ…。

外ラチに向かってよろめいていくラフィアンの横をフーリッシュプレジャーがキャンターで通り過ぎていきます。
ヴァスケス騎手は彼女を止め、そこで初めて彼女に何が起きたのか、明らかになりました。

…種子骨粉砕骨折…

右前脚のくるぶしはぱっくりと割れ、種子骨はどちらも完全に砕けていました。

すぐに医師による予後不良の診断が下されましたが、オーナーの強い希望により急遽、ボルトによる接続手術が行われました。

手術も一度は成功しましたが、その激しい痛みと苦しみに耐えかねたのか、暴れた拍子に肋骨が折れ、悪いことに肺に突き刺さってしまったのです…。

最後には、ジャニーが決断を下しました。 
「これ以上彼女を苦しめないでやってくれ…。」
1975年7月7日午前2時30分、七夕の夜明け前のことでした。

彼女の持つ天性のスピードにガラスの足が耐えられなかったのでしょうか?
このレースはアメリカ競馬史上最大の悲劇とされています。
そして、この悲劇以来マッチレースが行われることはほとんどなくなりました。

その後彼女の遺体はベルモントパークに埋葬され、今もその死が惜しまれています。
その年、ラフィアンは最優秀3歳牝馬に選出され、翌年には、彼女の名を冠したレース(ラフィアンH・G1)が創設され、さらには競馬の殿堂に彼女の名前が刻まれることとなったのです。

弾丸のようにあっという間に駆け抜けた彼女の生命の輝きは、今も色褪せることなくファンの心に刻まれているのです…。

我ながら相変わらずボリュームが大きいですねぇ^^;
最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした^^;
さてさて、競伝内では生産Sが始まっていますが、ラフィアンを使うことがあれば思い出してあげてくださいね^^

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
だーTT (モハメドアムール)
2006-07-26 00:49:35
泣けます><。

いい話や・・・・・だーTT
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Unknown (ゆうくん)
2006-07-29 02:41:01
知らなかったよー。

まじで真剣に読んでしまいました^^



次回はなんだろう?w
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読んでくれてありがと~^^ (倒壊帝王)
2006-07-31 09:39:45
To モハさん



泣けますよね~;;

私自身このテの話には弱くて、涙なしには語れないのですが・・・一度は書いてみたかった話なのです。



To ゆうくん



真剣に読んでくれたのか~^^

ありがとね^^

ラフィアン産駒って活躍してるけど、実際は子供残せなかったんだよね;;

どんな馬だったか知ってると、使うときにも思い入れが違ってきますね。



さてさて、次はどの馬にしようかな?w

ネタはいっぱいありますよ♪

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