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つらつら日暮らし

仏道修行で就くべき師匠の条件

或る種の備忘録的な記事である。拙僧自身が、この辺をどう考えるべきかという問題意識で書く記事である。

梵網経中、師と為ると言うは、必ず是れ出家菩薩なり。五徳を具足す、一には持戒、二には十臘、三には律蔵を解す、四には禅思に通ず、五には慧蔵玄を窮む。
    雲棲袾宏『梵網経心地品菩薩戒義疏発隠』巻1


結論からいうと、これは『梵網経』には出ていない。ただし、天台宗の『菩薩戒義疏』には『梵網経』からの引用として出ており、この一節を受けて「什師所伝し、融師筆受す。流伝して今に至る、此れは其れ正説なり」ともあって、いわゆる羅什訳としての『梵網経』を指しているのだが、本文には出て来ない。

それとも、拙僧どもが一般的に読める本文には無いのだろうか?

ところで、『菩薩戒義疏』では「師徳」という表現を使うが、「師匠の条件」について、声聞の場合は「七法誦受戒法」が適用されるという。『十誦律』巻21~28で詳述されるが、「一・受具足法」「二・布薩法」「三・自恣法」「四・安居法」「五・皮革法」「六・医薬法」「七・衣法」の「七法」で、この場合は「一・受具足法(または、誦受戒法)」になる。

一方で菩薩の場合は、「十夏以上の安居」と「五法」が肝心だとされる。そして、「五法」は、「一・持戒」「二・十臘」「三・通律蔵」「四・通禅思」「五・通慧蔵」とあるから、先に挙げた『梵網経』から引いたという一節と同じになる。簡単に見ていくと、「持戒」はその通りで、「十臘」は「十歳」と同じ。比丘となってから10年を経過したことをいう。律蔵・禅思・慧蔵の三種に通じることは、「戒定慧の三学」に通じている。

様々な人の教えを見ていくと、ただ自ら修行者として学ぶことには、それほど条件を課していない(無論、教団組織の中で護持すべき律などはあるのだろうが)。しかし、指導者として後進を導くには、様々な条件を課していることが分かる。或る意味、遠慮が無いとまでいって良いだろうか。それはつまり、よほどの力量が無ければ、指導者になることを許されない。そして、その学びの根本はやはり、自らの身心を用いた修行の成果、そして学徳といえる。

梵網経に準ずれば、応に二師を請すべし、一には和尚、二には阿闍梨なり。今、但だ闍梨授戒師を請するのみ。経に云わく、若し千里の内に戒を授くるを能う師無ければ、仏菩薩の像前にて自誓受戒することを得。而も要らず好相を見て便ち得戒す。準知す、戒師、多く得ることを得ず。戒疏に云く・・・〈以下は、冒頭の一節とほぼ同文が続く〉
    霊芝元照『芝苑遺編』巻中「授大乗菩薩戒儀」項


なお、『梵網経』に準ずればの話は、同経巻下「第四十一悪求弟子戒」の一節を承けて(和尚は和上だが)いるが、この「闍梨授戒師」については何を指しているのだろうか?授戒師とは、和尚と同義だろうか?良く分からない。なお、元照が述べているのは、戒師の条件が厳しいので、同時代に於いて戒師を得ることが難しい、という話になっている。だからこそ、「自誓受戒」の話になっているわけか。これは、当時の見方としてどれくらい影響力があったのだろうか。

色々と気にはなるが、これ以上は広げようが無いので、今日はこれまでにしておきたい。

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