つらつら日暮らし

裏盆に盂蘭盆の続きの話 「なすびの牛・キュウリの馬」について

昨日が正当の盂蘭盆会、今日からは「裏盆」というらしい(興味のある方は「裏盆―つらつら日暮らしWiki」を参照されたい)。そこで、今日からは盂蘭盆会について話が出来なかったことなどで気付いたことがあれば、不定期に記事にしておきたいと思う。

そういえば、盂蘭盆会には自宅の盆棚に御先祖様が帰って来るという話を聞いたことがあると思う。その際、何に乗って帰って来るという話があると思う。当方が聞いたことがある話としては、「キュウリの馬に乗って急いで自宅の盆棚へ帰ってきて(どこから?)、なすびの牛に乗ってゆっくり戻っていく(どこへ?)」というものだったのだが、これは何か典拠があるものなのだろうか?

そこで、調べてみた。江戸時代以前の成立となる『塵添壒曩抄』や『寂照堂谷響続集』、『和漢三才図会』などには、もちろん「盂蘭盆会」に関する言説はあるものの、その荘厳までは書かれておらず、分からずじまいであった。後は、特定の宗派内に於ける見解などを見ておきたいと思ったが、日本の場合、特に禅宗系では施食供養を盂蘭盆会に充てている場合が多く、そうなると、施食棚の荘厳作法は書かれていても、それでそのまま盂蘭盆会となるかといえば微妙で、細かな話が出てくるわけではない。

また、盆棚については、潜伏キリシタンの対策のために、寺院住職が棚経を行い、その結果作られるようになった、という説もある。しかし、その場合も作法についての詳細は見えてこない。或る意味、この辺の共通の言説の不在が、全国で多種多様な盆棚の荘厳がある理由になるのだと思う。

よって、江戸時代以前の記録は諦め、明治時代以降で見ていたのだが、とりあえず、2つほど記録が出て来たので、確認しておきたい。

  お盆
 盆が来ました なすびの馬に
 ハイシドウドウ のつて来た
 小風 すヾ風 そよそよふいて
 軒の灯籠が ゆれてます。
   浄土宗務所社会課『仏教保育資料』昭和16年、37頁


こちらは、浄土宗に関する記録である。すると、「なすびの馬」と出ている。「キュウリの馬」ではない。現代では、「なすびの牛」という話になりがちなのだが、そうではない伝承もあったということになるだろう。そして、もう一つ、こちらはもっと別の内容であった。

  お盆の歌
一 とんぼにのつて はるばると
  お浄土からの お客さま
  一年ぶりの お客さま
    真宗聖典普及会編『新編讃仏歌集』(真宗聖典普及会・昭和8年)12頁


とんぼ?こちらは、真宗大谷派系の文献のようなのだが、ご先祖は「とんぼ」に乗ってくるという。馬や牛ではないのである。やはりこれは浄土からの距離感を示したものだろうか?どちらにしても、良く分からない。

ということで、両方とも、昭和に入ってからの記録ではあるが、おそらくは現代に通ずる内容だといえよう。ところで、気になるのは、両方ともに、浄土教系の宗派だということである。そうなると、阿弥陀仏信仰と、どうしても釈尊やその弟子の信仰に由来する盂蘭盆会で、その相互関係が気になるところだが、浄土宗では基本、盂蘭盆会は実施しているようである。

・『浄土苾蒭宝庫(上)』鴻盟社・明治27年
⇒盆供養の作法を記載。
・『浄土宗法要集』浄土宗務所・昭和14年
⇒声明を中心とした盂蘭盆会供養の作法を記載。

これら両方に共通するのは、内容がしっかりと自恣僧供養になっていることである。つまり、『盂蘭盆経』の思想を下地にしているのである。ただし、いわゆる「盆棚」については、『盂蘭盆経』に基づく「百味五果」等のお供えが書かれているのみで、この記事で問題にしているような荘厳まで記載されているわけではない。続いて日蓮宗の記録も見ておきたい。

・日灯上人『草山清規』明治29年版
⇒「年規(年中行事)」の「七月十五日」項に「盂蘭盆会」がある。ただし、こちらも『盂蘭盆経』の記載に基づきつつお供え(要するに「百味五果」)、『妙法蓮華経』読経等の功徳をもって供養する内容である。つまり、牛や馬の話は出ない。

そして、最も良く分からなかったのが浄土真宗なのだが、こちらについては明治期に供養などについて総論的に論じた文献があるので、見ておきたい。

・長岡乗薫上人編『通俗仏教百科全書(巻三)』開導書院・明治24年
⇒本書の「第百七十九・盂蘭盆会並に灯籠の事」項で、真宗での盂蘭盆会について論じているのだが、特徴としては「生霊棚(精霊棚に同じ)」は否定されているけれども、「盛物灯籠」などの供養は推奨されており、更に、「盂蘭盆会」を先祖供養とする見解を批判しつつ、『盂蘭盆経』本来の自恣僧供養について考察しているのである。そうなると、「精霊棚」自体が批判されているので、先に挙げた牛や馬などは、出て来ないという話になるだろう(よって、「とんぼ」という話が出たものか?)。

以上のことから、今後、「牛や馬」の話を探っていくとすれば、「精霊棚」についての記録を探していくべきだ、ということになるだろう。そこで探っていくと、鈴木正三道人『因果物語』巻中(正三道人の死後、1661年成立)に「卅六・精霊棚を崩されて亡者寺に来る事」という一章があり、ここで「精霊棚」の具体的な様子が見られるのでは?と期待して見たものの、「仏棚」「精霊棚」「施餓鬼棚」という名称や、供物の存在までは確認出来たが、残念ながらその詳細までは分からないままであった。

ただし、少しく民間での伝承に因む話として見ることが出来そうな文脈をいくつか見出した。

・大河内翠山『古今史実美談叢書(第1集)』文教書院・大正12年
⇒江戸時代初期の材木商・河村瑞軒(1618~1699)に因む物語の中で、「盆と精霊棚」という一節が見え、「精霊棚」を祭ることになった経緯や、その荘厳について論じている。その中で、「茄子に足の生へた」ものについての言及があり、これを「馬」だとし、しかもその馬には「今夜御先祖様が乗つて来る」と延べている。これで、江戸時代初期で確定か?と思いきや、本書の書籍名は「史実美談」となっているものの、著者がいうように、「新講談」という小説に近い扱いの文章らしく、史実とは認められないのである。合わせて、以下の一節も見ておきたい。

・西頸城郡郷土研究会『西頸城年中行事』昭和16年
⇒こちらは新潟県上越地方の郷土研究の成果なのだが、「二八 精霊棚飾」項で「胡瓜の馬」という記述を見出した。ただし、こちらも調査年時の段階で、このような風習があった、ということしか分からない。

このような記述を追い掛けてきたが、「なすびの牛やキュウリの馬」について、いつ頃からいわれるようになったものか、更に詳細な検討を要することが分かった。意外と、江戸時代の随筆などにこの辺があるのではないか?と思うようになったが、それはそれで調べるのが大変なので、まずは以上の通りである。そして、少なくとも大正から昭和にかけては、かなり見ることが出来るので、この段階で全国的には定着していた、と判断出来よう。

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