第五にまた問ひていはく、一切衆生みな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。なにによりてかいまに至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる。
答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここにもつて火宅を出でず。何者をか二となす。一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖を去ること遙遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』にのたまはく、「わが末法のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。
『浄土真宗聖典(七祖篇)』241頁
拙僧、この浄土教の教えが出てきたという時、よほど仏教徒が住み難い世の中だったのだろうなぁ、なんて思ったものです。本来、仏性ということですら、或る程度釈尊の時代から離れていても、何とかその境地を得ることが出来る方便で生み出されたもののはずです。なんだかんだと理由を付けて、「成仏」が、何回もの人生を歩んだ結果にようやく得られるとなっているとして、更に現世利益に有効な思想や宗教が出てきたとき、全く力が無くなることは自明であるといえましょう。その時、今すぐここで成仏できるとし、その理由を「仏性」に求めたとしたらどうでしょう。なるほど、「非仏説」であるのかもしれませんが、それが登場した状況からすれば意味のある内容だと思います。
さて、しかし、この浄土思想の元では、一時的に有効だった「力」もまた喪われ、仏性についても、さらに優れた「往生浄土」があるということが、道綽和尚によって示されています。道綽は、いわゆる「聖道門」としての一般的な仏教は、釈尊の時代からと置く去ってしまっていて、更に時代的にも民衆の能力が下がってきているため、誰も本来の釈尊の悟りなど得ることは出来ないというのです。よって、そのような「修行」に依らず、別の方法によって、その釈尊の悟りと同等の宗教的価値を持つ世界に行くべきだと主張するわけです。
この背景となった「浄土三部経」については、既にインドで成立しているわけですが、やはり釈尊の思想を上手く吸収し、そしてそれとは別の方途を探っている辺り、やっぱり別の宗教なのでは?という感じがしますね。これは、悪い意味でいっているのではなくて、仏教だって固有の宗教である以上、思想的な限界や超克された信仰などによって、取って代わられることがあって然るべきだというわけです。
しかも、我々は今、様々な文献が容易に入手できるようになり、インド以来の仏教思想を見ることが出来ますけれども、その時々では、現代的視点から「仏教ではない」といわれるような思想であっても、理由があって生み出されてきた可能性があるわけで、拙僧などはそういう「その当時の想い」を汲み取りたいと思っている者でございます。
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