つらつら日暮らし

今日は「上巳の節句」(令和5年度版)

今日3月3日は、上巳の節句である。一般的には、植物の名前で「桃の節句」と呼ばれたり、「ひな祭り」の日だと位置付けられていることだろう。だが、古来の記録を見ると、やはり「上巳(上已)」と呼ばれる。これは「上旬の巳の日」という意味である。つまり、元々は「3月上旬の巳の日」に行っていたが、中国の影響で日本も室町時代ごろに3月3日に固定的に行われるようになったという。そして、旧暦の3月3日は桃の花が咲く時期であることから、「桃の節句」とも呼ばれるようになった。

「桃の節句」の起源は平安時代にまで遡ることができ、上巳の節句の日には人々が野山に出て薬草を摘み、その薬草で災厄を払い、健康を願ったとされる。更には、宮中では紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」が融合され、自分から払った災厄を、代わりに紙人形(これを「形代」という)に引き受けさせて、それを川や海に流すという「流し雛」へと発展したとされている。

室町時代になると紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになったようで、さらにその行事は宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、結果、今の「ひな祭り」の原型となった。元々、高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとしての「桃の節句」が、庶民の間にも定着して行ったお祝いであり、しかも元々は、5月5日の端午の節句とともに男女に関わりなく行われていたという。しかし、江戸時代からは、豪華な雛人形は女子が遊ぶものであり、一方で「端午の節句」は別に「菖蒲の節句」と呼ばれることから、「菖蒲」と「尚武」を掛けて、特に男子の節句になったとされる。

両方ともに、子供の災厄を払い、健康・健全に育つことを願って行う行事だから、「非科学的だ」と決めつけずに、伝統行事だとめんどくさがらずに、行いたいものである。これら伝統行事は、ただ漠然と続く日常に、行事を経過させることで、質的な濃淡を付けることが目的である。「祭り」も同様だが、やはり濃淡のない日常を漠然と過ごすのは、人間として辛いものがある。さらに、自らの思いだけで濃淡は付かない。具体的に行事を行うことが肝心である。

関連して、以下の一節も参照しておきたい。

〔◎三月〕▲三日 上巳御祝儀 今日を重三と云、又上巳と云、上は初といふ意也、いにしへは三月初の巳の日を上巳とす、三月は辰の月なれば巳を除日とす、不祥を除くこゝろ也、〔宋書〕魏より後、但三月三日を用ひて復巳を用ひず。
    享保20年『江府年行事』、三田村鳶魚編『江戸年中行事』(中公文庫)38頁


ここを引用しておけば、先の説明は不要だったようだ・・・ついでに、「ひな祭り」のことも引用しておきたい。

○雛祭 敏達天皇二年にはじまる、雛は元、鳥の子の惣名也、鳥の子は愛らしきものなるがゆへに名とせり、小女これを玩ぶ事は、女は世帯のことわざをもとゝすのおしへなり。
    前掲同著・同頁


実際に「ひな祭り」の起源は良く分からないようだが、以上のような伝承もあったということなのだろう。それで、色々と調べ直してみた。すると、江戸時代の山東京伝著の随筆『骨董集』(3巻4冊、1814~15年版)上編には、以下の記述が見られる。

  ○雛遊のはじめ
書紀〈巻五〉崇神天皇十年九月童謡に「比売那素寐殊望〈古事記には此句なし〉といへる詞あり、釈日本紀〈巻二十四〉にこれを釈して云「私記曰、為児女之遊今案比比奈遊也」とあるをもてこれをひいな遊びのもとゝするはひがことなり、古事記伝〈巻二十三〉比売那素寐は契沖が媛遊なりと云るさもあるべし、媛遊とは天皇の美女を集へて宴などし給ふを云るなるべし」かゝれば比売那素寐はひいな遊ひの事にはあらず
○又ひな遊は三十一代敏達天皇二年厩戸皇子〈聖徳太子也〉の幼くおはしましける時に始れりと云説近き世の物にあまた見ゆれど、こは或偽書にまどひたる説なれば、とるにもたらぬひがことなり、されば雛遊の始詳ならず


以上の通りなのだが、「雛祭り(雛遊び)」の原点について検討した事例として知ることが出来るだろう。確かに『日本書紀』巻5には大彦命が、或る少女から聴いた歌(童謡)に出ている句として「比売那素寐」とあり、これを「ひめなそび(姫遊び)」と読んでいるようなのである。しかし、これを卜部兼方『釈日本紀』で「比比奈遊(ひひなあそび)」と読んで、起源だとしたが、『骨董集』では結果として斥けている。

また、「敏達天皇二年」の聖徳太子に因む起源についても採り上げているが、これは「偽書にまどひたる説」だと批判している。それで、典拠について調査した研究もあり、内容を見てみると、『先代旧事本紀』の記事だとしているのだが、いわゆる10巻本の同書には見えないと思っていたら、雛遊びについて論じた別の文章への註釈に「此書は美濃国黒滝の潮音和尚の所偽作にして取に足らず」(『史料通信叢志』第13編、明治26年)という記事があった。

つまり、『先代旧事本紀大成経』(色々と問題だった文献で、伊勢神宮の権威などを否定するものだったので、江戸時代には禁書扱い)の方だったようである。それであれば、同巻35「聖王本紀上巻」であろう。実際の文章は、「二年春正月 侍従奉勧雛像、太子親取雛像、分其男像女像、定内儀外像、而見男女別、立之位之。以先皇礼、遊与諸童、言語動静、并以古礼教之、為慰既而語曰、此遊非大夫遊、向後為幼女遊」という句だったようで、なるほど、引用文とも合うから『骨董集』では『大成経』を「偽書」だと斥けたことになる。

結局、こうなってくると、『骨董集』で論じているように、「始詳ならず」だと考えるべきなのかもしれない。聖徳太子云々というのが事実だと、もう少し仏教側に近付けることも出来るのだが・・・

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